支え合う心
江夏に向かう分岐点に差し掛かると、陸遜は兵を分け、手許に千だけ残して後は江夏に戻す。そして副将に先導を委ねると自分は太子・孫登の乗る馬車に合流した。
帰還する前に認識の一致を計りたいとの太子の願いに応えたものである。呂蒙も既に下馬して同乗していた。
馬車の中は孫登・諸葛恪を含めた四人だけになり、然ながら作戦会議の様相を体している。孫登は旅の疲れもあるだろうに、未だ精力的でやる気に満ち溢れていた。
「ともあれ、無事で何よりでした!我が君も随分とご心配されており、自分が行くと仰られて止めるのが大変でした。私も冷汗ものでしたぞ♪」
これは陸遜自身が自分の失態という認識を持っているからこそ飛び出た言葉であると孫登には理解出来た。そしてどうやらそれは父・孫権も同様だと想ったのである。
呂蒙もそう感じているようだし、それは諸葛恪も同様だろう。かく言う自らもそうだ。
父に抗っても正堂を貫く姿勢が足りなかった。孫登は荊州で縦横無尽に躍動し、その辣腕を揮う劉禅君を目の当たりにして、教えられた想いで一杯だった。
でもだからといって諦めが先に立つ孫登では無い。人にはそれぞれ転機があり、自分はこれからなのだと想っている。
勿論、同じような年頃の劉禅君を意識しない訳が無いが、今さら比較しても仕方無い。彼は彼…自分は自分なのでいある。
だから孫登の心の中では、劉禅君は好敵手というよりは大切な友であり、恒久平和の理念に共鳴し合う同志なのだった。
その同志との約束をまず果たす事。孫登の第一歩はそこからだった。
「あぁ…判っている!心配をかけた♪でも私も必死だったからね!そこいらは大目に見て貰うとして、まずは情報の共有と行こう♪なぁに、江東に着くまでにはまだ些かの猶予がある。これからはこの四人が認識を一にし、我が君と廟堂を相手取って説得活動を展開する。謂わば我々は同志だと想って貰いたい。今さらだが、確認しておく。君たちは私の味方だと想って良いのだな?」
孫登は念を押した。
当然の事ながら、同行していた二人は力強く同意を示した。だから三人の眼は自然と陸遜に注目する。
陸遜は不本意な為されようだと眉をしかめた。
「勘弁して下さい♪確かに私はまだ全体像を把握しておりませんが、あの時に私も教えられたのです!」
陸遜は山賊を追い払って孫登の前に見参した時に、諭された出来事を披露した。
切々と語る孫登の姿勢に共鳴し、我が身を振り返れた事は彼の糧になっていた。孫登はそれを認め、付け加えた。
「君は確かに誤ったかも知れないが、すぐにそれを認めて山越討伐の支援に赴き、そればかりか、取って返して私の捜索にも着手したのだ。なかなか出来る事ではあるまい!判った、君を信じているから頼りにさせて貰うとしよう♪」
「有り難う御座います!必ずやお役に立つとここに誓いますぞ♪」
こうして陸遜は孫登に付くと約束した。そこでまず呂蒙が戦の様子を説明した。
陸遜はあの大型船が五隻も現われ、壁の様相を呈した件を耳にして仰天した。
『何と!それではさすがの子明様でも無理からぬ事!荊州の軍事力は侮れぬ…』
そう想ったのである。
けれどもそんな事はまだ序の口に過ぎなかった事をこの後、思い知る事に成った。
その後、彼らがめでたく捕まり、大型船の上での停戦交渉が始まる件からは太子・孫登が説明をかって出た。
「劉禅君の目的は三国会盟にある。あの若君の目指すのは、この中華の恒久平和なのだ♪この交渉の核はまさにそこにある。それを一緒に果たす事!それが大前提だった。これには私も驚いた。そんな事が果たして可能だろうかと想ったし、まだ懐疑的だった。でもその眼は曇りひとつ無く、輝いていた。そして自信に満ち溢れていたのだ!だから私も同意した♪」
孫登がそう告げると直ぐ様、呂蒙が補足する。
「伯言も知っておろう♪これは元々あの秦縁殿の目標だ。あの方はそれが出来る者こそ、この天下安寧の世を統べるに相応しいと三国行脚を続けて来られたのだ!魏王はそれに在らずと我が国を頼りにされていたが、我が君は保留と成った。自国の事しか考えられないうちは、駄目だという事だった。その後、荊州に赴き、成都に行くと仰せだったが、どうやらその荊州であの劉禅君と出逢ったのだろう。そしてお眼鏡に適ったのだ。そうとしか想えぬ…」
呂蒙がそう言うと孫登もまた同意した。
「その話は私も若君から聞いた。でも私は少し違うように想う。元々、件の若君は戦を好まれない。人の命に敏感な方だ!しかも命の重さに違いなど無いという考えがその根本にはあるのだ。だから私は想う。きっと二人の意思が共鳴したのだろう♪だからあの秦縁殿も白羽の矢を立てた!そういう事だ♪」
「そうかも知れませんな…」
呂蒙も同意せざる逐えなかった。
陸遜は驚く。あの秦縁とは何者なのだろう。
只の大商人では無いのだろうか。そう謂えば、一時不穏な噂が流れた事があった。
それは北の大地を統べる北狼大令尹であるというものだった。この中華は今も万里の長城に守られて、北方の遊牧民族の南下を恐れている。
そんな者たちの上に立つ者が、なぜこの中華で商人などやっているのか。摩訶不思議に感じられた。そして中華の恒久平和を願う姿勢にも違和感を覚えた。
貿易のためとも考えられるが、それだけの事であれほど精力的に中華の盟主を探すのも不自然だろう。
陸遜が怪訝な顔で考え込んでいるのを見た呂蒙は、仕方無いといった具合に口を挟んだ。
「我らは既に一蓮托生だ。だから秘密は守られると信じている。これは我が君や魏王と、ほんの一部の者しか知らぬ事だが、あの秦縁殿は北方の然る場所に拠点を構える王なのだそうだ。その国はあのシルクロードをガッチリと押さえた地にある。元々、国の生業が商売なのだ。そして中華の王とは一線を画し、自国に戻る事はほぼ無いという。その目的のひとつが中華の平和なのだそうだ。これは国家の理念だから、王は必死に平和を模索するのだ。そして北の大地の会盟 (アンダ)により、認められた者だけが北狼大令尹と成るのだ。だから秦縁殿は認められた存在だという事なのだろう…それが昨今の噂の真相だ!」
呂蒙はそう説明した。
これには孫登を始め、陸遜も驚く。諸葛恪などは、ほぼ何も事情を知らなかったので呆気に取られている。
けれども陸遜は我が意を得たりと、相槌を打つ。そして直ぐ様、呂蒙に疑問を投げ掛けた。
「ですが他国の者が、この中華の事をなぜそれほど気に掛けなければ成らんのでしょう?私は未だその辺りが理解出来ませぬ!」
呂蒙はそれに同意するように頷くと、付け加えた。
「それは彼らが元々この中華の支配者だったからのようだ!夏の末裔であるという。西夏国王…それが秦縁殿の真の姿だ♪」
「待って下さい!それなら尚更、判りませぬ。国家元首というなら当然、軍隊も持っているでしょう!自他共に認める存在なら、なぜ彼は自ら天下平定を目指さないのでしょうか?私は聞いております!東の海に現われた巨大な黒船の存在を…火を放つ恐しい兵器を!」
すると呂蒙は、溜め息混じりに孫登を横目で見ながら断りを入れた。
「すみませぬ…太子様!私が余計な事を言ったために、話しが逸れてしまいました。後、少し宜しいでしょうか?」
「あぁ…構わん!この私もいずれは知らねば成らぬ身の上だ♪この際、聞いておこう。終わったら続きを話し合うとしよう♪」
孫登も同意したので呂蒙は問いに答えた。
「それは西夏国が平和的な国家だからだ!彼らは真険に、交易を通じて平和な世の中を築こうとしているのだ。だがこの中華を見ても判る通り、そんな世迷い事が通用する場所ばかりでは無いという事だ。だから彼らは同時に相手を畏怖させる程の軍事力も要している。彼らが本気になれば、喩え三国が協力しても敵うまい。あの軍船もその一環なのだろう。少なくとも我が君の認識はそうだ!だからこそ敬意を込めて応対している。我らの復興にもかなりの巨額を投資してくれたのだ。だからこそ短期間で都が機能を取り戻す事が出来た!あの田穂を見逃したのも、その秦縁殿の意向が強く働いたせいだ。勿論、本人も復興に尽力してくれたのだがね♪彼は既にあの時、劉禅君の配下だったそうだ。全ては誤解で、暗殺などする筈も無く、情報の収集だったとの事だった。これでお前への説明にも成ろう!」
この中華は、中華で今現在生きる者が治めるべきである。それが秦縁の信念だった。
陸遜は矛を収めた。孫登も謎が解けた想いだった。
秦縁に纏わる話しが一段落したところで、再び孫登は交渉の件に戻って話しを進める事にした。
「ひとまず会盟の件は理解して貰えたと想う。秦縁殿の意向を抜きにしても、平和裡に解決出来るものなら、この私も大いに賛同したいと想っている。何しろ今や滅亡に一番近い存在なのは我ら呉だ。それについてはおいおい説明するとして、私が呑んだ条件を伝える。長沙郡と桂陽郡は荊州より多額の資金が投入されていて、この負債を払わねば成らない。出来なければ担保に取られている以上、この二郡を手離さねば成らないだろう。そして虞翻の件だ!」
孫登はジロリと二人を眺めた。
「彼を潜入させたのは、君たちだそうだな?心配するな!彼は生きている。生きてはいるが、既に捕えられ、裁判を経て今や庶民だ。彼は今、医療の道に目覚めて民のために尽力している。だから彼への追及が仮に在るとしても、不問にして欲しい旨、若君から特に釘を刺された。私は関与しないと約束した。彼らが停戦条件にしたのはそれだけだ。特に賠償金も領土の割譲もいらぬそうだ!彼の若君が欲しているのは恒久平和だ。私が想うに、劉禅君が全くといって他国の侵略に興味が無いのは、おそらく一環した信念からのものだろう…」
これには即座に陸遜が反応を示す。
「…してその信念とは?」
「それはな…」
孫登はひと呼吸置いて皆を見渡すと、語り始めた。
「国とは民を統治するための括りに過ぎないという事だ。そもそも土地とは民が暮らして行くもの…即ち、民の物だと考えられているのだ。だから民に迷惑が及ぶ事は避けたいのだろう。劉禅君は、君主とは民に奉仕する者だと考えられている節がある。そんな御方だから中華全土から困窮した流民を集めて家を与え、仕事を世話して、生きる道を示してやれるのだろうな!」
孫登はそう説明した。これには陸遜が再び驚く。
「中華全土の流民を集めたのですか?」
「あぁ…そうだ♪それだけでは無いぞ!西の果ての国からも、あの大型船に乗せて移民を積極的に募っているらしい。その中には我が国の流民の人々も混じっている。江東訛りを口にする人々を私は実際に認めたが、我が国の民よりも数段上の生活をしているようだ。着ているものは立派なものだし、外食が出来る生活水準にあるという事なのだろう。本人たちも一方的に与えられたものでは無くて、自分たちが汗水を流して働いた成果だと判っているから、そこに卑屈さは無く、明るい笑顔で陽の当たる道を堂々と歩く事が出来るのだ♪」
孫登がそう答えると、諸葛恪も同意するように頷く。呂蒙もそれに気づいて、張嶷から説明を受けた時の驚きを口にした。
「私も驚きました…伯言!荊州の民は米を主食にしているそうだ。そこいら中に実る稲穂がそよ風に吹かれて、のどかな田園地帯が広がっていた。それだけでは無いぞ!かつての都・長安や洛陽に勝るとも劣らない都市部では、様々な人々でごった返している。通りには店が立ち並び、珍しいもので溢れているのだ。そして極めつけは荊州城だ!我々が見たあの壁は、荊州全域を括った城壁だったのだ。道はきちんと舗装されて、馬車が絶え間無く行き交っている。河川も既に整備されて、運河を通してあるので、海洋航海を済ませて戻って来た大型船が、河を渡って都市中心部まで遡上して来て横着け出来るのだ。もはや何から何まで、我が国とは雲泥の差がある。我々はそんな大国に成長した荊州に、知らないとは謂え、喧嘩をふっ掛けていたのだ!どうだ…驚いたろう?大型船など数十隻は保持している事だろう。我々の見たものなんぞ、その片鱗に過ぎない。あれでは最早、魏国ですらまともに立ち迎う事は出来まい!」
陸遜は、もはや荊州を敵に回すと厄介とすら告げる呂蒙に驚いていた。そこには敵意の欠片すらも無かった。
それにしても、この三人が見たものとはおそらくは、見た事が無い者には想像すら難しいに違いない。
太子様と大都督の証言はとても判り易いものだった。けれどもその半分も理解出来たかどうかは怪しい。
これは現場を実際に体験した者との温度差だから仕方無い。でもその片鱗は陸遜自身も目の当たりにしている。
今この馬車の前にも山と積まれた荷馬車が列を為して進んでいる。彼は実際に、大型船とそこから荷下ろす大量の荷を見ていた。
だから信じる事が出来たのだと謂えるだろう。
「仰る事は判りました…これは大変難儀な案件だと存じます!でももしかしたら、あの荷馬車一杯の支援物資を見れば、皆も事の重大さが判るかも知れません!」
陸遜はそう言うのが精一杯だった。けれども自分も太子様の味方として、その一翼を但おうと強く心に決めたのである。
すると孫登は「どうやら君も判ってくれたらしいな!とても心強い…」と言った。
そしてそれに同調するように呂蒙は張嶷から教えられた言葉を引用する。彼は言った。
「ひとりが出来る事には限界があるが、同じ志を持つ者同士が一致協力して事に臨めば、足し算では無く、倍々の力が発揮出来るという。これは実際に荊州で起きた変化に起因するものだから正しいのだろう。要は同じ時を過ごしても、これだけの差が出来るのだ。文句を言う暇があったら、皆で合力すれば大きな果実と成るという事なのだろう。そのためにはまず、太子の許に協力者となる味方をどんどん増やして行かねばならない。我らはその手足と成り、支え合う事から始めようではありませんか!」
「まさにその通りだ♪それが若君の標傍する"考え行動する自由"というやつだな?」
孫登がそう訊ねると呂蒙は「まさしく!」と言った。
「喩えては申し訳無い限りだが、あの若君は人を見る目がある。そして噂にはけして惑わされずに、直に人と接してその性根を見極めているらしい。これは荊州の伊籍という男が語っていた事だが、個性豊かな者が揃っている。人拐い、生真面目男、主を選ぶ不遜者、主人殺し、すぐ逃げ出す男、宦官、山猿、怒りんぼ、闇の住人たち、狩人、お転婆娘…私は聞いた瞬間、頭が痛くなったものだが、ここに居る皆が会った者の中にも、その該当者は存在するのだ。喩えば人拐いは田穂という男だし、狩人とはあの張嶷の事だ。私は他にも生真面目男の廖化という男、主を選ぶ不遜者の劉巴という男、主人殺しの鞏志という男にもお会いした。怒りんぼの潘濬という男も居たな!つまりだ…劉禅君という方は性根が曲がっていなければ、その人物の能力を見極め、引き出す事が出来るという事なのだろう。そして通常なら埋もれて見過ごすような人材を、信じて使うものだから、信頼された者も自分の個性を最大限に発揮し、自信を持って取り組む事が出来るのだろう。荊州の成功とは、その相乗効果が起こした軌跡なのだ。けして奇跡では在るまい!」
孫登はそう締め括る。そして改めて、皆の顔をひとりずつ見つめながら、頼んだのである。
「これが我らが協力する事になった最良の相棒である!これから我らは恒久平和の理念の許、劉禅君の望む会盟に向けて、まずは国内をひとつにしなければ成らない。厳しい道程だが、私も覚悟を決めているので、皆も協力して欲しい。宜しく頼む♪」
太子がそう言って頭を下げると、全員が「仰せのままに!」と喚声を上げた。
【次回】[番外編]山高賛歌




