盛大な見送り
馬車が公安砦の門を抜け武陵側の湖に着くと、そこには大型船が一隻待機していた。孫登主従三人は、改めてその大きさに驚きながら見上げている。
すると船の縁から色彩かな髪飾りをつけた髭面の男が、ヒョッコリと顔を出して声を掛けて来た。
「やぁやぁ皆さん♪準備は出来てますのでいつでもどうぞ!」
そう言って屈託の無い笑みを浮かべた。北斗ちゃんは見上げて訊ねる。
「手土産は届いてるかい?」
「えぇ!勿論です♪予め使者をやって、長沙の大守殿にも馬車と人足を用意して貰ってます!」
傅士仁も叫び返す。
「そうか!助かる♪良くやってくれた!」
若君は礼を述べた。
「いやぁ何…お安い御用で!それより話しがあるので上がって下せぇ♪」
「判った!今行く♪」
北斗ちゃんがそう答えると、傅士仁は首を引っ込めた。
「じゃあ皆さん、行きましょう♪」
若君はそう声を掛けて、皆を船上に誘う。費禕は馬車で待機する事になった。
湖には靄が掛かり相変わらす視界は良くなかった。彼らが甲板に上がると早速、傅士仁が声を掛ける。
「若!今朝ほどちと騒ぎが持ち上がり、大変でした…」
「そぅなのかい?いったい何があったんだ!」
若君は訊ねる。
「対岸に陸遜の軍一万が現われたんですよ!一時は臨戦態勢に入りましたが、長沙の大守・歩隲殿は大した者ですな♪直ぐに太子様の捜索である旨、連絡を寄越しました!こちらもそれで胸を撫で下ろし、態勢を解除した次第です♪」
「へぇ~そんな事があったとはな!大変だったね?御苦労様♪」
「歩隲殿は謝っておられたそうですよ!何でも本国への連絡が遅れたとか?武陵大守宛に陳謝の使者を出したそうです!」
若君は耳を傾けながら、船の縁から眼下を見下ろす。そこには何も知らぬ費禕が佇んでいた。
「判った!こちらも反応していなかったんだからね♪彼だけを責める事は出来まい!後程、然るべく対応しよう♪」
北斗ちゃんはそう応えた。
「とんでも無い!これは戦だったのです。交渉や裁決が出ないままでは、正式表明も出来ますまい。私が責任を持ちます♪」
孫登はそう口を挟む。
呂蒙もそれに同意を示した。
「そうです!太子様の仰る通り。伯言には私が話しを通します♪」
頼りになる二人だった。
「そうだね♪穏便に済むに越した事は無い。せいぜい頼りにさせて貰うとしましょう♪」
若君も謝意を示す。
結局大型船には若君のほか、張嶷と田穂が同乗した。船は揺蕩う波間を切り裂くように力強く進み始めた。
「今回は色々とお世話になりました♪」
呂蒙は張嶷に礼を述べた。
「いゃいゃ…こちらこそです♪大都督とご一緒出来て、僕も励みになりました!」
「あぁ…そういえば貴方も親善交渉の都督に成られたのでしたな♪その節はまた宜しく!どうも貴方には縁深いものを感じます。きっとまたお会い出来る事でしょう♪」
二人は互いを認め合い敬服していたので、ニコやかに別れを惜しむ。
その胸中には、それぞれで違った決意を秘め、その責務を果たそうと心に誓っていた。
孫登はこちらも別れを惜しむように、若君に語り掛ける。
「すっかりお世話に成りました。この度はご迷惑を掛けましたのに、このような手土産まで頂載しまして…感謝に堪えません!ご支援の件もしっかりと伝えます。日取りは決まり次第、改めて御連絡致しますね♪」
「えぇ♪宜しく!そうだ♪孫登殿に贈り物があるんです!」
若君は然も嬉しそうにそう告げる。
「何でしょうか?」
余りにも突然の申し出に、孫登は少し驚いたように答える。
この若君は常に悪戯心に溢れていて、どうも相手を驚かすのが好きなようである。それでいてけして相手を厭な気分にさせない機微を心得ているらしい。
そればかりか、言われた本人は想わずホッコリしてしまうのだから不思議だった。
「僕はね、貴方とは今後も仲好くしたいのです♪常に一緒に問題解決を計って行きたい。これは僕の本心です。だから貴方にコレを差し上げましょう♪」
劉禅君は藁で編んだ籠を取り出し、孫登の前に差し出す。
「クックック♪」
籠の中からは可愛らしい、鳥の囀ずりが聞こえる。
「えっ!これは…良いのですか?」
彼は想わず訊ねた。それは一羽の伝書鳩である。頭に橙色の斑点のある珍しい希少種だった。
孫登は今回の旅で、この伝書鳩が迅速な連絡手段である事に感銘を受け、自国でも活用出来ないか模索するつもりだった。
けれどもこれは同時に、荊州側の秘匿して来た奥の手でもある事を承知していたので、この申し出には些か驚き訊ねたのである。
すると若君は何の事も無いと、フフンと鼻を鳴らす。
「勿論♪構わないですよ!コイツは僕と貴方の連絡手段ですからね♪気軽にご使用下さい。待ってますよ♪」
孫登はそう聞くなり、頬を赤らめる。そして想ったのだ。
この若君はきっと相手の喜ぶ顔を見るのが好きなのだろう。突然のサプライズは予期せぬ者にとっては嬉しいに違いない。
そしてそのツボさえも心得ているらしい。
孫登は再び感謝を示した。
「有り難う♪では遠慮無く頂戴します!今から使うのが愉しみですね♪」
孫登の笑顔は北斗ちゃんの顔も綻ばせた。
「うん♪待ってるよ!」
若君は屈託のない笑顔でそれに応えた。
それぞれがそんな具合に別れを惜しんでいる間にも、船は容赦無く波を切り突き進む。大切なひとときも、いつかはこうして終幕を迎えるものだ。
まだこれでも速度を落としているらしい事は、皆の肌身に感じられた。傅士仁の気遣いである事は確かなようである。
それでも時の経過とは残酷なもので、必ずやって来る。やがて対岸の長沙の湖畔が見えて来た。
「こりゃあ凄い!」
田穂がそう叫んだのに連られる様に、皆も反射的に視線を向ける。
岸辺には陸遜の軍が理路整然と並び待っている。そしてその横には、歩隲が馬車と人足を従えて待っていた。
孫登と呂蒙が並びながら手を振ると、岸辺からもようやく歓声が起こる。皆、太子の元気な姿を認めて安心したのである。
陸遜も孫登様の無事を確認出来て、内心ホッとしていた。彼は自分を嗜めた時の、太子・孫登の力強い瞳としっかりとした物腰を思い出していた。
それは近い将来の資質の覚醒を感じさせ、彼らにしても先の愉しみが増えたと想っていた。だからこそ自分の失態でその命を損ねずに済み、安堵したというのが正直な気持ちだったのである。
今回の件は不思議な事に、当事者皆がそれぞれ自分の失態だと認識している点にある。孫権も呂蒙も陸遜も、それぞれが自分を責めている。
そしてもうひとり、自分を責めていたのが諸葛恪であった。彼は自分の傲慢な発言が太子を危機に追いやった事を後悔し、反省していた。
だからこうして無事に危機を乗り越えて、その終着地にようやく辿り着き、ホッと胸を憮で下ろしていた。
そして彼にとってはそればかりでは無く、今回の旅を太子と共に乗り切れた事は、大きな収穫と成ったと謂えるだろう。
太子の物の考え方が判った事がひとつ。そして隣国がいつの間にか成長し、物言える国家に変貌していた事が判った事。
特にその実態をその眼で直に観察する事が出来たのは、大きな糧だと感じていた。
そんな彼自身も、今回の旅を通して必ずしも太子の助けになったとは想っていなかった。けれどもその存在が助けとなったと言われた時に、来て良かったと想っていた。
そして彼は太子の助けと成るのはこれからだと、既に覚悟を決めていた。廟堂を説得するために力に成ろうと、諸葛恪は密かに闘志を燃やしている。
太子のお付きに恥じない態度を示し、これを助ける。そう決意していた。
大型船は慎重に進み、今回は無事に接岸を果たす。船に積み込まれた荷は、水兵によって次々に波止場に下ろされる。
それを引き継ぐのは長沙大守・歩隲である。歩隲は手慣れたように指示を下し、集められた人夫たちは、荷を荷馬車に積み込んで行く。
その間に長沙の浜に下り立った男たちは、最後の別れを惜しんだ。そして孫登の案内で陸遜の許へと向かう。
陸遜も歩み寄り、太子の無事を笑顔で迎えた。
「太子!無事で安心しました♪」
陸遜のその言葉に孫登は労いの言葉を掛けた。
「うん♪有り難う!出迎え御苦労様♪山越の方は収まったのかい?」
「はい!お陰様で…後程、報告致します♪」
「そうか…それは良かった!雨降って地固まるとはこの事だな♪こちらも良い経験と成った。詳しくは後程話すが、この機会に君にも紹介して置こう。こちらが荊州の主にして蜀の太子・劉禅君だ♪こちらが海軍総督の傅士仁殿、親善都督の張嶷殿、そして衛尉の田穂殿!…皆様、こちらが陸伯言です♪」
孫登が紹介を終えると、皆それぞれに「宜しく♪」と挨拶を済ませた。するといみじくも陸遜も田穂という言葉に反応を示す。
「き、君は…」
陸遜は驚き呆れた。かって公安砦のお膝元で剣を交え、江東ではその存在を敵視していた男が今、目の前に居るのだ。
自然の反応と謂えた。ところがここで呂蒙が機転を効かせる。
「伯言!心配入らぬ。アレは誤解だ。詳しくは後程だ♪」
呂蒙が満面の笑顔でそう言うものだから、陸遜も直ぐに矛を収めた。孫登が劉禅君に頭を下げるのを認めた陸遜は即座に状況を理解した。
どうやら誤解というのは真実なのだろう。おそらく呂蒙も同じ反応を示しただろうから、その時にひと悶着があり、両国の太子が間に入ったで在ろう事は推察出来た。
そしてこの陸遜もたった一隻とはいえ、この大型船が近づいて来るにつれて度肝を抜かれたひとりだったから、この友好ムードが呂蒙の敗北を経て、成された事は想像に難くなかった。
鯔のつまりは、孫登様がその努力により、この友好を引き出した事に成る。もしそうであれば、自分の失態によりそれを壊す事は出来まい。
彼は攻戦派で名が轟く急先峰ではあるものの、猪突猛進する程の考え無しではなかったのですぐに謝ちを認めた。
「これは大変失礼致しました。お許し頂きたい!」
そう言いながら、彼は心の中で苦笑していた。この中で事実を知らないのはおそらく自分だけである。
それでもこの大型船から運び出され、荷馬車に積まれて行く俵の数を眺めるに、荊州から多大な援助物資が供出された事は間違いあるまい。
それは両国間で和平が結ばれた事を意味し、こちらも何らかの要求を飲んだからだろう。太子が行方不明に成っている間に、隣国では喧々諤々の話し合いが行われていたのだろう。
それは元より太子の努力によるものであると共に、荊州の劉禅君がそもそも戦を望まなかった事に成るだろう。
そう考えた彼は礼を尽す。
「今回の事は、元々この私の失態で御座る。太子を無事に返して頂き、感謝申し上げる。また大都督も無事に帰れるようにして頂いた劉禅君の優しき計らいに御礼申します♪」
陸遜は姿勢を正して謝意を示した。
「良くぞ申した♪」
孫登は陸遜の聡明さに驚き、肩を叩きそれを褒めた。劉禅君も状況を受け入れ、すぐに理解した陸遜に驚く。
そうこうしている間に積み荷は全て下ろされ、荷馬車への積み込みも完了したので、彼らはいよいよひと時の別れの時を迎えた。
「ではまた後日…江東でお待ち申し上げておりますぞ♪」
孫登は笑顔でそう若君に告げた。それは彼自身の決意表明でもあった。
『必ず、父上と廟堂の連中を説得してみせる…』
彼はそう若君に伝えると共に、心の中で誓いを立てていたのである。
「うん♪僕は君の言葉を信じているから準備を進める。僕も誓おう♪必ずあの魏王を説得してみせるよ!約束だ♪」
若き二人の太子は互いに握手を交わし、抱き合う。
田穂などはこの長き道程を見て来たから、その感慨もひと潮だった。彼は知らぬ間に涙を流し、止めどなく流れる涙を抑え切れずに手で顔を覆ってしまった。
張嶷はそんな仲間を慰めている。呂蒙は陸遜と諸葛恪の肩を抱き、それを微笑みながら眺めていた。
陸遜は劉禅君と孫登君の間にこの僅かな期間の中で、どんなにか熱い友情が結ばれたのかを目の当たりにして驚く。
そしてそれを我が事のように喜び、涙まで流すあの田穂という男を、心の熱き男だと想ったのだ。
成り行きとはいえ、他国のためにあんなにも真険に復興を手伝ってくれる者など、そうそう居ない。
『私は間違っていた…』
陸遜は改めて後悔していた。出逢いが違えば、自分も彼と友誼を結ぶ事が出来たかも知れないと想ったのである。
するとその時、船の汽笛が「ブォ~♪」と鳴った。
「時間だ!」
孫登は皆に告げた。
やがて孫登主従は馬車に乗り込む。陸遜率いる一万がまず引き上げて行く。
そしてそれに荷馬車が続く。最後に呂蒙の騎馬に守られた太子の馬車が動き始めた。
孫登も諸葛恪も馬車から身を乗り出し手を振る。
若君を始め、張嶷も田穂も手を振り返す。その時である。大型船から「ブォ~ブォ~♪」という角笛の大合奏が奏でられた。
傅士仁の粋な計らいだった。
孫登たちはそれを見上げて敬礼を返す。
大合奏に見送られるように、馬車は去って行く。呂蒙は最後に張嶷を見やり、敬礼すると馬を返して去って行った。
北斗ちゃんたちはその行列が見えなくなるまで見送っていた。馬車は砂塵の彼方へと消えて行った。
彼らが完全に去った事を確かめると、劉禅君は一緒に見送っていた歩隲に声を掛けた。
「歩隲殿♪この度は色々と煩わせてすまない!助かったよ♪感謝している!」
そう労う。
すると歩隲は鼻白むように口を開いた。
「否…特にお礼を言われる筋合いではありませんよ♪私は確かに貴方が好きですし、恒久平和の理念にも共鳴しています!ですが私は呉の臣です。今回の事は、私と本国の連中の間に些か大きな温度差があったゆえに決行した事!私はここ荊州の内情を知っておりますが、彼らは知りませんでした。だからあんな強行手段に打って出る事が出来たのでしょう。今、ここ荊州と本気でぶつかり合えば、喩え総力戦でも敗北は必死です。劉禅君!私はこれでも愛国者のひとりです。但し、良い事悪い事の区別は出来ます。ですから地方を見殺しにするような方針には一石を投じました。私は本気で民のための国造りを模索しているのです。人は私を誤解し、私を売国奴と蔑むかも知れませんが、私はそれで構わない。貴方達に協力するのもそれが今、最善の道だと信じるがゆえです。まぁ私も私なりに夢に近づくまでは死ぬ訳には行きませんから、自己防衛はします!だからこの荊州の内情を伝える訳にはいかなかった。仁義にも悖りますしね♪だから今回の事は私が貴方達を上手く利用したとお考え下さい。実際に攻め込んで、彼らも彼我の差を思い知った事でしょう。そしてもうひとつ想わぬ拾い物もありました。あの太子・孫登君の成長にも繋がりましたし、諸葛恪も我欲を捨てる切っ掛けに成った。これは呉にとって、とても大きな収穫です!そんなところです。だから感謝には及びません…」
歩隲はそう言った。
そして光明の兆しがここ荊州で見え始めた今、呉がそれを見ずに滅びの道を進まず良かったと言い切ったのである。
自らの汚名を省みないその姿勢に、劉禅君は歩隲という人の覚悟と清廉さを感じていた。だから敢えて一言だけ述べた。
「判った!じゃあ多くは言うまい。でも一言だけは言わせて貰いたい…それでも僕は嬉しく想う。有り難う♪」
そう言って満面の笑顔を見せた。張嶷たち臣も共に歩隲に微笑んでいた。
歩隲は自分の行いが間違っていない事を知り、共に笑った。
【次回】支え合う心