独り善がり
「チェッ!跳んだ糞くじを引いたもんだ…全く!子供の使いじゃ無いんだっつ~の♪」
諸葛恪はそう悔やんでいる。
自分が華々しく山越を撃破しようと目論んでいたのに、その手柄を闞沢の爺ぃ~に横取りされたばかりか、保険を賭けた筈の江夏への援軍要請の使者に指名されてしまい、腹立ち紛れに戸の縁を蹴る。
ところが意外にもその堅さから、彼は悲鳴を上げて、足を押さえた。
「アタタタタ…」
当然の事ながら目からは火花が飛び散り、涙目となる。まさに泣き面に蜂である。
しかもまだ達成されていないうちは、手柄とさえ謂えまい。そもそもその辺りがとても傲慢な姿勢なのである。
ところが彼の不孝はそれでは済まず、突如として背後からは、「このど阿呆が!馬の糞でも食ってろ♪」と酷い罵声を浴びた。
諸葛恪はその声が太子・孫登のものだとすぐに判り、カチンと来て不遜にも言い返した。
「何です?果したない!それじゃあ、太子様は鶏の卵でも召し上がって下さい♪」
それを聞いた孫登は口をアングリと開けて、「何だ!そりゃあ?負け惜しみかい!驢馬の糞の元遜君♪」と捨て台詞を吐いて行ってしまった。
「チェッ!今日はツイて無いや♪」
彼は再びイラッとして今度は近くの小石を蹴り飛ばすと、運悪く近くの壁に当たった小石が跳ね返って来て、自分の頬を直撃した。
「アイタタタ…」
彼は腫れた頬を押さえてトボトボと帰宅する。
そもそも彼は自分が悪い事をした自覚が無かったから、帰宅するや父の雷が落ち、追い出されるように江夏に向かう破目に成るのだ。
そこで反省すればまだ良かったのだろうが、彼は筋金入りの不遜者であった。
「どうせ私は驢馬の糞ですからな!」と孫登の評した捨て台詞をここでわざわざ引用する。
「何だ!それは?」
諸葛謹も孫権に呼ばれてコンコンと指摘を受けた後だから、少々頭に血が昇っていた。そこに突き刺さった一言だったのである。
「父上は御存知無いのですか?皆、父上の事を驢馬に似ていると笑い者にしています。あの我が君ですらそうです!ですから、私は太子様から"驢馬の糞"と恥ずかしめを受けました…」
諸葛恪は悔し涙を流す。諸葛謹はどういう事かと憤った。
諸葛謹はどうも面長な顔立ちだったようで、その様子が驢馬に似ていると評されて居たらしい。
ある時、酒の席の悪ふざけから、孫権が献上された驢馬の顔に「諸葛子瑜」と筆でわざわざ書き記し、皆の笑いを取ろうとした。
当の本人はその場に居なかったので、陰口というよりも酒の肴にしようとしたのだろうが、たまたまその場に居合わせた諸葛恪は、父を侮辱されて納まりがつかず、そこに二文字を付け加えた。
皆、我が君の落書きに付け足すなど何と不遜な事だと顔を見合わせていたが、それを眺めた孫権は突然笑い出し、「面白い奴だ!ではお前にコイツを下賜しよう♪大切にせよ!」と言って、驢馬を諸葛恪に与えた。
皆が驚いてその驢馬の顔を眺めると、そこには「諸葛子瑜之驢」と書いてあった。
何と利発な青年だろうとこの件は評判と成り、大いに諸葛恪の株を上げる事に成ったのである。
そんな訳だから当然の事ながら、諸葛謹もその噂は承知していた。おそらく驢馬とは自分の事に違い在るまい。
けれども『驢馬の糞とはどういう事なのだろう』と考えた時に、これにはおそらく前後の事情があると察したのである。
仮にも彼は太子の利発さは承知していたし、日頃は落ち着きのある御方だから、そんな下品な罵声を浴びせる事は無い。
そして近々で太子が頭に血が昇ったとしたら、それは息子のしゃしゃり出た一件のみだったので、どうせコイツがまた余計な事を言って火に油を注いだに違いないと見当をつけた。
だから諸葛謹は「お前、何か余計な事を言ったな?」と質した。すると父親の剣幕が余りにも凄まじいので、諸葛恪は事の顛末を語って聞かせた。
諸葛謹は呆気に取られる。
おそらく太子は孫権や諸葛謹と同様に、諸葛恪の思慮に欠ける言動に憤っていたであろうから、「馬の糞でも食ってろ!」と罵倒したのだろう。
それに対して息子は、「鶏の卵を食え!」と応じた。表面的に捉えれば、かなり上品な言い回しにはなっているものの、その実は婉曲的に皮肉が込められている。
要は馬の糞も鶏の卵も出て来る場所は一緒だという事なのだ。かなりお下品な物言いではあるが、時と場所が違えばきっと笑い話で済んだ事だろう。
けれどもそのタイミングは最悪で、怒っている太子にわざわざ歯向かうように皮肉を込めたその態度は、とても臣下の取るべき姿勢とは言えなかった。
そして元々は聡明な太子は、直ぐにその意図を察した。確かに自分の言い方も酷かったのだろうが、臣下がその言葉尻を捉らえて、在ろう事か同じ事を太子に投げ掛けたのである。
これには太子も開いた口が寒がらなかったに違いなく、本来であれば言う必要性の無かった悪口を吐いて去ったのだ。
それが"驢馬の糞"であった。
驢馬とはこの場合、諸葛謹を示しており、その糞だから、要は諸葛謹から産まれた子を指している。即ちその糞とは賭け値無しに、諸葛恪の事を表す隠語である。
孫登は怒り心頭な瞬間にも、諸葛恪の洒落を真似て切り返し、悦に入っていた事に成るのだ。性格の悪さは別にして、何とも末恐ろしい君臣である。
諸葛謹の憤りもその辺りを指しており、彼はこの時にふとこう想った。
『頭が良すぎるのも考えものだ…きっとコイツは我が家をより栄華に導くか、潰す事に成るに違いない!』
彼はそう想うと、このまま放置しておく訳にも如何ずに、コンコンと諭した。
「この出しゃばりめが♪お前ごとき若僧が調子に乗りおって!そもそも事の始まりは、お前が衆目の面前で恰好をつけたのが原因ぞ…もう子供じゃ無いんだから、いつまでもお山の大将気取りは改めたらどうか?公式の場は遊びじゃ無いんだ。大夫たるもの、自分の発言には責任を持たねばならない。発言する前にはその影響をよくよく考えて、差し障り無きよう気を配る必要があるのだ。お前のように後先考えずに、その場の感情のまま発言を繰り返せば、きっと周りの恨みをその一身に買う事になる。否…事はお前ひとりの事では済まない。我が家に災いが降り掛かろう。良いか?我らは臣下だ。そして臣下にも上下の序列があるのだ。上は敬い、下は大事にせねばならん。無用な波風を立てずにその身を律すれば、きっと皆の良き手本と成ろう。然すれば自然と皆がお前を敬い、 認めてくれるだろう。お前のように目立ちたがり、知恵をひけらかす事がそうでは無いのだ。それは単に衆目を集めているに過ぎず、むしろ逆効果なのだぞ!皆、おそらくは心の中でお前を笑っている事だろう。お前は根本的に社会勉強が足りないのだ。だから勘違いも甚だしいのだ!良く判ったら改めよ…良いな?」
諸葛謹は熱量を込めて、父として子に教えを説いた。頭の良い子だからきっと判ってくれるに違いないと思っていた。
ところが違った。
「父上!私の何がいけないというのです。私は頭が良く回り、我が君や太子様もそれを褒めて下さいます。だからこそ太子様のご学友にも選ばれました。やはり頭の回転の早い太子様の言葉の機微が判るのは、この私くらいのものでしょう。何しろあの方よりも私は賢いですからね♪そして私は正直者です。父上だって、正直が一番と言われたではありませんか?だから私は公の場でこそ、正直でありたいのです。それの何がいけませんか?それに判らぬ者には判り易く説明してやらねば、話しが先に進みませんでしょう。我が君も山越討伐のやり手がいなくて困っておいででした。 困っている者を助けてやるのは尊い事ではないのですか?父上は我が君の最大の理解者なのですから、いの一番に名乗りを挙げるべきでした。だから私が代わりに手を上げたのです。それがなぜ差し障るのか理解に苦しみます。要は功を上げれば良いのでしょう?然すれば我が家は安泰♪なのに太子様に馬の糞扱いされる謂われは在りません。私への嫉妬では無いでしょうか?将来、君主に成られる御方はもっと寛大でなければ…違いますか?」
今度は諸葛恪が異を唱え、捲くし立てる。元々、頭の回転が早いからか、言っている事には理があるようにも感じるが、残念ながらそこには人の心が有るようで無い。
要は真心が伴っていないのである。だからせっかく理を唱えても、そこには利しか感じられないのだ。
言葉巧みに自己の利を追求しているように、おそらく他人には感じられる事だろう。これでは只の頭でっかちなお山の大将である。
誰からの賛同も得られず、友はひとりまたひとりと去って行くに違いない。彼の言葉は常に自分を中心に回っており、おそらくそれに気づいていないのはこの世で彼只ひとりで在ろう。
諸葛謹はそれが判かり、溜め息を漏らした。そして判らず屋の小僧にはっきりと告げた。
「この痴れ者めが!判ったような口を叩くな。お前は知恵の回る猿か犬か?口が達者でギャンギャンよく吠える事よのぅ~♪だがそこに思慮は感じられない。人を敬う心も無い。そしていい加減で責任感すら無い。今のお前は傲慢で、才能をひけらかすただの野心家だ。そして何より他人をやり込める時のお前は、弱者を弄ぶ気狂いの様だ…お前はこの世で一番偉いのか?人を人とも想わず、労りの心すら無いお前を、いったい誰が認めると謂うのだ!もう少し節度を持ちなさい。人を認める事から始めるが良いぞ!」
諸葛謹は仕方無くそう言ったものの、少々言い過ぎたかも知れぬと反省していた。ところが諸葛恪は只一言こう言った。
「酷いなぁ~父上、言い過ぎです... 私は猿じゃありません!」
これにはもうどう対処してよいのか彼も困った。但し父の怒りに触れ、曲がりなりにも凹んでいる事は確かだった。
諸葛謹は多少、聞く耳を持つ頃だと想い、呉が置かれている情勢や我が君の立場、そして豪族たちの振る舞いの真の意味合いについて触れた。
そして諸葛家が今、成すべきは廟堂を守る事であり、華々しく戦果を挙げる事では無いと諭した。
すると、元々利発な子である。すぐにこう言った。
「何だ!父上、そういう事は早く言って下さい♪知ってたら、私だって控えました!もう厭んなっちゃいます♪意地悪なんだからぁ?そりゃあ糞味噌に言われますって♪」
「なっ!お前という奴は…」
諸葛謹は絶句した。彼は平気の平坐で知らぬ振りを決め込み、全てを父のせいだと非難しているのだ。
最早、開いた口が塞がらず、諸葛謹は言葉を失った。こうなると最後の手段に訴えるしか無い。
そう…"可愛い子には旅をさせよ"である。彼は通告した。
「お前の性根がようやく判った!それだけでも無駄では無い。どうもお前は経験不足のようだから、我が君の命を全うせよ!江夏に援軍の要請に行ってこい♪良いな!」
諸葛謹は睨みを利かせるとそう断じた。すると初めて諸葛恪は顔を曇らせた。
「えぇ!父上…取り為して下さるんじゃ…」
彼は急に泣きそうな顔をする。
けれどもそんな嘘泣きに絆される諸葛謹では無かった。彼は心を鬼にしてこう言った。
「馬鹿を申すな!勅命であるぞ♪それと出立前に太子様に謝りに行くのだ!良いな?」
諸葛謹はそう言って、有無を言わせず尻を叩く。諸葛恪はその剣幕に触れて、「ふぇ~い…」と哭いた。
諸葛恪が太子府に顔を出すと、太子は殊更に嫌な顔をした。いつもなら悪友が来たとほくそ笑むのに、今日はかなりご機嫌斜めである。
だから溜め息混じりにこう言った。
「何だ!驢馬の糞か♪今更なんだ?謝っても許さんぞ!」
そして予め門を閉ざされる。諸葛恪は困り果ててしまった。これではそれこそ話し合いも糞も無い。
彼が珍しくシュンとしていると、その様子が鬱陶しいのか、太子は呟く。
「何だ!糞は野垂れ死にか?切れが悪いな!いつもの元気はどうした?」
そう言って笑った。どうやら糞繋がりで上手い事を言ったつもりらしい。
諸葛恪は苦笑いしながら、言葉を返す。
「太子様♪その糞呼ばわりは止めて下さい!まともに話も出来ません。話せなければ、実も蓋もありませんからね♪」
すると太子はすぐに食い付く。
「実も蓋もとは、なかなか穿った事を言うな!まぁお前が心底反省して、謝るなら許してやろう♪」
そう言ってニヤリと笑った。
諸葛恪も父の命令とはいえ、謝りに来たのだから渡りに船である。
「この度は出過ぎた真似をして申し訳ありませんでした…反省してます♪」
そう言葉を返して頭を下げる。
実際、諸葛恪はこの太子が好きだったので、彼には珍しく頭を垂れたのであろう。
二人はそれだけ気が合ったというべきだ。で無ければ太子だってすぐに許してくれる訳が無い。
「何だ?元遜君♪君、ちゃんと謝れたんだな!驚いた♪今後は素直に成りたまえ!お痛が過ぎると、さすがの私でも庇い切れないからね♪君ほど私の感性を刺激する奴も居ない。この私をけして敵に回さぬように!宜しいね?」
孫登は威厳に充ちた表情で、諸葛恪を見つめた。諸葛恪もコクリと頷く。
こうして二人は無事に仲直りしたので、彼は調子に乗って太子に取り為しを頼んでみた。
ところが太子の反応は芳しくなかった。
「それは駄目だな…」
孫登は言った。
諸葛恪は些少でも期待していたので、ガッカリした。そのため明白に不満が顔に出る。
口唇を突き出し、それはまるで蛸のように見えた。
「ブッハッハ♪」
孫登は大袈裟に笑った。
「まるで茹で蛸だな!」
それは照れによる赤面か、はたまた不満による血の気かは判らぬが、その様子を如実に表していた。
そして諸葛恪が食って掛かろうとした時に、太子は突如真顔に戻るとこう言った。
「君の悪いところは、すぐ剥きになる事だね♪良く言えば感情豊かで結講な事だが、悪く言えば、剥き出しの感情に支配され過ぎだな!せっかくの才能を無駄にしているぞ♪冷静になれよ!君は廟堂を守る親父殿の心に背き、自らの功を優先しようと、独り善がりな行動を取った。我が父はそれを善しとせず、君に罰を与えたんだ。勅命は守らねば為らん。当然だろう?ひとつ聞くが、君の主人はいったい誰なんだね?」
孫登はそう訊ねた。
諸葛恪は何を今さらと、苦笑いして答えた。
「そりゃあ私は呉の臣ですから、我が君でしょう?」
すると孫登はフフンと笑って言った。
「おぃおぃ…私がそんな当たり前な事をわざわざ訊ねると思うのか?君は私の何だ!」
「そういう事ですか?こりゃあ失礼!私は太子様付きの臣でした。即ち、貴方が私の主人です♪」
諸葛恪は少々恥じ入るようにそう答え直した。
孫登は我が意を得たりとほくそ笑むと告げた。
「ようやく判ったか?馬鹿な奴だ♪君はその私の顔に泥を塗ったんだぞ!我が君は、私の監督不行き届きとお怒りだ。私はお陰で叱責を被り、罰を受けた。何だと思うね?」
そう言われた諸葛恪は、ようやく父の言っていた事に思い至った。
彼の言動は彼の問題に止まらず、太子様にまで及んでいたのだ。後先考えずに行動した結果は、周りにまで深く影響を与えていたのだ。
彼は初めて後悔したがもう遅い。だからおそるおそる訊ね返す。
「大変、申し訳ありません。ですが太子様にまで事が及ぶとは想わなかったのです!どうされたのですか?」
「まぁいいさ♪君の反省の弁がようやく聞けたからな!さっきのは、言わされていた言葉だったが、今回のは君の本心からのものだろう。だから私は許してやるさ♪でも取り為しは駄目だ。何しろこの私の罰は、君の使命を見届ける目付役なのだからね!これで判ったろう?この私が君を罵倒した訳がね?」
孫登は溜め息混じりにそう告げた。
諸葛恪はびっくりした。
「えっ?どういう事です…ひょっとして太子様も同行されるのですか?冗談でしょう...」
すると孫登が今度は蛸のように尖った口をしてみせた。
「うんにゃ…冗談じゃ無いよ!糞いまいましいが、本当の事さ♪先程、私が怒っていた訳がこれで判ったろう?君が私に取り為しを頼むなど、跳んだお角違いって事がね。何しろこの私は、その糞の尻拭きを仰せつかったのだ。君とは長年、連れ添って来た。謂わば知已だ。私が君を大切に想うように、今後は君にも私と正面からきちっと向き合って貰いたいものだ。以降は自分の言動には責任を持ってくれよ?いいね!」
孫登は優しさ溢れる言葉を投げ掛ける。
諸葛恪は心底参ってしまった。そしてこの人には適わないと想った。
だから自然と頭を下げた。それは形だけのものでは無く、心からの行動だった。
孫登もようやく安堵した。
「まぁ、物は考えようだ♪私も広く世間を見る好機だからね!そう想えば、ここでじっとしているよりは、幾分かはマシと謂うものだろう?判ったら、君も早く支度したまえ!私は粗方終わっている。早くしないと置いて行くぞ♪さぁ、とっとと支度しろ!」
孫登はそう言って諸葛恪を急かせた。
諸葛恪はその勢いに飲まれるように立ち戻り、支度する事になる。
こうして二人は急ぎ江夏を目指し、出立した。孫登にとっても諸葛恪にとっても、都の外に出るのは初めての経験である。
二人の行く手に何が待ち受けているのか、それは本人たちにもまだ判らなかった。
【次回】それぞれの決意




