祝賀の宴
糜竺が荊州の地に降り立ち、二日目の夜には予定通り祝いの宴が催された。各地から集った者たちも、この宴を最後にまた再び各々の任地に戻り、職務を全うする事になる。
謂わばつかの間のひと時であった。
「皆、今夜は無礼講だ!好きに食べて飲んで自由にやってくれ♪」
劉禅君は冒頭にそう宣言した。
糜竺の歓迎会ではあるが、日頃の慰労も兼ねているという事なのだろう。広間の至る所に置かれた机の上にはたくさんの食べ物が並んでいて、好きなものを好きなだけ食べれるように工夫が凝らされている。
特に出色なのは、今巷で流行っている茶漬けコーナーまで設えられている点だった。
これは特に若君に特別、配慮された物では無く、そういった習慣が皆にも出来つつあった事を表わしている。
皆、初めのうちこそ互い違いに糜竺に声を掛け歓迎ムード一色だったが、それも落ち着いてくると各々が好きな者同士で話したり、料理に舌鼓を打つ者も居た。
特に糜竺の出迎えと歓迎のために出張して来ている者とは日頃、話す機会も得られないとあって人気があり、自然と人の輪が出来る。
その中でも未だ所在が不明な海軍総督・傅士仁には大勢の人が群がり、人気を拍した。
そりゃそうである。海軍府は場所を秘匿されているのだから、一部の関係者しか辿り着けぬし、長い間本人も専念していた関係で、ちょっとした行方不明者と同様であったから、旧知の者から頻繁にお声が掛かった。
「よぉ~久し振り♪生きてたか?」
「海軍総督に成ったんだって?おめでとう♪」
その大半の者の反応はこの二つに集約された。
生きてたかとは余計なお世話だが、外界から見れば消息不明なのだから仕方無い。
それに就任と同時にその存在を隠す事に成ったので、今頃祝いの言葉を述べられても当然と謂えば当然であった。
そして海軍府という特殊性もある。皆、その活動内容には興味津々だったのだ。
元々、荊州にも敵を迎え討つための中小型船は存在したものの、それはあくまで軍務として陸海関係無く総督府が統括しており、関羽に指揮権があった。
それを若君が引継いだ際に、海軍という位置付けを造り上げたのである。
勿論、それは河川氾濫という自然災害を切っ掛けとして、傳士仁が秘匿してきた大型船が想わぬ活躍をしたためだろう。
その当時、蜀が他の二国に誇れるものと謂えばそのくらいのものだったのだ。
そしてこの大型船は三国最弱だった蜀が唯一、他の二国に対抗するための大きな手段であり、希望だった。
そのための秘匿であり、じっくりと長い期間を掛けて育て上げ、或いは熟成して来たのである。
皆の関心もその本質であって、話しの流れは自然とその事に及んだ。
「海軍は規律を遵守しておる。それは大将軍の時代と変わらぬ!あの方の培った伝統を守りつつ、水兵には鍛錬を付けている。違いは当初、その大半が新兵で右も左も判らなかった事だ♪だが今では見違えるような立派な男達に成った。その一部は既に外洋に出て海洋交易に従事しておる。どうだ?凄いだろう♪我ら若君の海軍は、勿論、戦いに関しても厳しい訓練を受けているが、その本質は先守防衛と外洋での操帆だ!最大の目的はやはり交易だな♪」
傅士仁はそう言い切った。
長年の苦労のせいか、彼は既に総督としての貫禄が十分に身についており、最早そこに揺るぎは無かった。
皆、逞しくなった傅士仁を目の当たりにして、荊州の防衛力に益々自信を深めた。
陸軍も関羽を始めとする将軍たちが訓練を重ねて力強く成長している。力を合わせれば大丈夫に違いない。
「よう言うた♪さすがは傅士仁よ!儂らの連携は今後欠かせぬからのぅ~♪宜しく頼むぞ!」
関羽は傅士仁を褒めた。
「大将軍!おそれ入ります♪」
傳士仁もそれに応える。
二人は周りを憚らずに熱い抱擁を交わす。鍛え上げた分厚い肉体同士が激しくぶつかり、少々暑苦しいのはやむを得ぬところだろう。
けれども皆、その様子を眺めながら、この二人が手を取り合えば何の憂いも無いと確信したのだ。そして安堵していた。
実際、関羽はこの直前に馬良を海軍府にわざわざやって、現地視察を兼ねた打合せをさせている。馬良の感触も上々で、彼らは一緒にこの地に戻って来たのだった。
「先日は若君の僥倖を仰ぎ、この度は御史中丞をお迎えし、我が海軍府の者共も士気が上がっております!誠に有り難い事です♪」
傅士仁は礼を述べた。
「否…こちらこそだ♪こちらこそ細やかな配慮に痛み入る!」
関羽も答礼した。
これは関平を上手く連れ出してくれた事に言及している。皆の手前、口を濁す形と成ったが、その気持ちは十分に傅士仁に伝わった。
「いゃなに!些細な事で御座る♪」
彼は遜ってそう述べた。
「そうだったな…では海軍総督殿!あちらで一献傾けようではないか?積もる話しもある!如何?」
「それは宜しいですな!とことんお付き合い致しましょう♪」
二人はそう言って人々の輪から離れた。これは関羽の傅士仁に対する配慮である。
必要以上に軽々しく海軍の内情を語る訳にも行かないので、謂わば皆から傅士仁を遠ざけるためでもあった。
二人は互いに肩を抱き合い、のっしのっしと歩いて行く。皆は当然の事ながらそれを見送るよりほかになかった。
糜竺の許には入れ替わり立ち替わり、人の輪が出来る。勿論、彼の歓迎会だから当たり前と言えば当たり前だが、それだけという訳でも無かったのである。
荊州で職務に従事する者は、大きくは二つに分けられる。元々、荊州閥である者。そして益州出身で荊州に送り込まれた者である。
前者はそもそも成都を知らぬから、成都の話しを聞きたがる。そして後者は慕情も手伝って、近況を知りたがる。
そう謂った訳であった。
勿論、細かい事を言えば荊州閥でも両方を知る者も居るには居たが、その場合も近況は知りたいに違いない。
そしてそれ以外から集まって来た者たちだって、興味には駈られた事だろう。些細な事は捨て置くが、人の好奇心とはそういうものなのである。
だから彼は声を掛けて来る人々の対応に忙しく、せっかくの馳走にも舌鼓を打つ暇が無かった。
そんな状況だから、北斗ちゃんですら声を掛けられる雰囲気に無く、彼はそれを最大限に利用して、会場をところ狭しと駆け巡り、あちこちでパクパクムシャムシャと食べまくった。
その度に待中の潘濬と衛尉の田穂は、金魚の糞のように付き従い、右住左住させられる。
日頃は口うるさい潘濬が、今日に限っては無口でフラフラと着いて来るのみで、何も言わない。
そして何か気になる事があるらしく、絶えず余所見をしている。田穂は只ひとり戸惑うばかりだった。
「何だ…田穂♪気にする事は無いから、お前もとっとと食え!」
北斗ちゃんは構わずそう言う。田穂は心配そうに口を挟んだ。
「若!また口汚い…口許にお弁当が付いてますぜ♪」
「うん?あっ!本当だ♪勿体無い!」
若君はそれを手で摘まむでも無く、舌で舐り取る。他愛もない事で済ませる事も出来たが、田穂は顔を顰めた。
「端無い!やり過ぎですぜ?」
ところが若君はのほほんと宣う。
「馬鹿だな!これは好機だ♪しこたま食うにこした事は無い!四の五の言わずにお前も食え♪」
そう言って取り合わない。田穂は持て余して、仕方無く潘濬に助けを求める様に振り返るが、彼は相も変わらず心ここに在らずといった具合だった。
すると若君がポロリと零した。
「放っておけ!あいつは今、糜竺叔父にご執心だ♪早く話し掛けたいんだろうが、生憎と隙が無いから順番が来るのを待ってるのさ!だから好機なんだ♪判った?」
北斗ちゃんはそう告げると、然も美味しそうに、仕上げの茶漬けに取り掛かった。
「しばらく邪魔するなよ♪」
そう念を押す事も忘れなかった。
「へぇ~邪魔しませんぜ!たんと食いなせぇ~♪」
田穂は張嶷の教えを胸に秘め、否定せず好きにさせた。
潘濬が一緒に居て、口を挟まないのだ。そもそも越権行為に及ぶつもりも無い。
それにこの若君が拘るのはどうも食に限る。それ以外で口やかましく文句を垂れるのを見た事が無かった。
そしてそれは茶漬け時間に集約される。若君はこのひと時を心待ちにしていて、一日の意欲向上に繋げていると言った。
そこまで言われて邪慮するのも大人げ無い。それによくよく考えてみるに、忙しくその殆どを国と民に捧げている人なのだ。
食事くらい好きに食べさせてやっても罰は当たるまい。一見、我が儘に振る舞っているようにも見えるが、若君は身体の空いた瞬間に、食いっぱぐれが無いように懸命に口を動かしているのだ。
そう考えれば、好きにさせた方が良い。そういう事であった。
その若君は然も美味しそうにサラサラと鮭茶漬けを流し込んでいる。その表情は溌剌としていて、とても素敵な笑顔だった。
こんなに無防備な若君は滅多に見られない。田穂はそんな若君を横目で見ながら、自分も茶漬けをサラサラと流し込む。
「やっぱ、茶漬けは鮭に限る♪」
若君はそう言って、嬉しそうに頬を緩めた。
ちょうど彼らが食事を終えた頃に、糜竺は身体がようやく空いて、ホッとしたのか料理に手を付け始めた。
若君はちゃっかりそれを横目で眺めていて、潘濬に視線を移す。案の上、細心の注意を怠らない彼は躊躇っているので、北斗ちゃんは声を掛けた。
「潘濬!僕が一肌脱ごう♪行くぞ!」
「しかし…」
潘濬は戸惑うような仕草で答える。
すると若君は諭すように告げた。
「心配するな!上手くやるさ♪」
そう言って半ば強引に潘濬を連れ出すと、ひとり料理を愉しむ叔父貴に声を掛ける。
「叔父上、ちょっと宜しいですか?」
せっかく落ち着いて食べ始めたら、再び声が掛かったので、糜竺はドキリとしたものの、相手は目に入れても痛くない甥の劉禅君であるから、箸を置くと振り向く。
「あぁ…若!何か御用ですかな?」
彼はニコやかにそう答えた。
「えぇ…せっかくの機会ですから、僕の腹心を紹介しておこうと想いましてね♪こちらが侍中の潘濬、そしてこちらが衛尉の田穂です!」
二人は恐縮そうに頭を下げる。糜竺は二人の挨拶を受けて挨拶を返す。
「そうでしたか!お二人ともお噂はかねがね承っております。今後とも宜しくお願いします♪」
糜竺はそう言ってから、端と気づく。この若君は意外な事に視野が広い。
おそらく人の輪が切れて、ようやく食事をし始めた事は、重々承知の上で声を掛けて来たのだろう。とすると、敢えてこの時を狙っていた事になる。
『ハハ~ン♪』
彼は判ってしまった。するとそれを然も貢定するように若君は述べた。
「叔父上!この潘濬には、僕の教育係もお願いしてましてね♪叔父上が去る時にご心配下すった事は、彼の指導のお陰で随分と改善出来ました!」
「そうでしたか…それは何よりです♪」
糜竺は即座にそう答え、然も可笑しそうに苦笑う。
「若!貴方らしい人選です♪やはり貴方は人を見る目をお持ちだ!そして以前より己の事もよく理解出来るようになったのですな♪私は安心致しました…」
糜竺の言葉に、若君は照れも手伝って頬を染める。
「エヘヘッ♪叔父上、褒め過ぎですって!僕もまだまだです…」
「何を仰る!でも今の貴方は自覚がお在りだ♪以前とは比べるべくも無い!貴方も努力したのでしょうが、きっとこの潘濬殿の指導が的確だったのでしょう♪あの当時、私の立場では貴方を教える事は適わなかった。それだけが去るにあたっての心残りでしたが、良い師に恵まれましたな!大切に成さると宜しいでしょう♪」
糜竺はそう述べた。
ここでようやく若君も、自分の意図に叔父上が既に気づいて来れている事を知る。そこで彼は手短かに済ませる事にした。
「そうですね、そう致します♪ところで叔父上!この潘濬も食事がまだなのですよ♪」
「それはいけませんな!忙しくしていても、食事は摂らねば♪実は私もまだなのです!どうですか?若君の師である貴方と私もゆっくり語り合いたい!宜しければご一緒しませんか?」
糜竺はそう優しく誘った。
「えっ!宜しいのですか?」
潘濬は恐れ多いと驚きを示す。すると糜竺は被りを振る。
「遠慮は入りません!私も貴方に興味があります♪貴方もそうなのでしょう?どうやら私の見立てでは、私達は似た者同士です♪きっと有意義な時間に成る事でしょうね!」
彼はそう言ってから、然り気無く若君に目配せした。その目は「後は任せろ!」と語っている。
北斗ちゃんは田穂に声を掛けると、その場をゆるりと離れた。
「えっ?」
その時になって、ようやく潘濬は若君の意図に気づく。若君はそもそもこうなる事を想定して事を進めたのだろう。
潘濬は若君をチラリと眺めた。すると悪戯小僧の瞳はキラキラと輝いている。
『やられた…』
潘濬は自分の心の内を当に見透かされていた事を知り、恥じらう。
けれども同時に、それを叶えるために尽力してくれた若君に感謝を示した。彼は自然に会釈し、若君も目配せでそれに応える。
但し、さすがは潘濬である。目を離す前にこう言う事も忘れなかった。
「若!お痛はいけませんぞ♪良いですね?」
「あぁ…勿論!心得ている♪お前もゆっくりな!」
北斗ちゃんもそう言うと、叔父貴に挨拶して立ち去る。
潘濬はようやく糜竺に向き直ると、二人は話し始めた。
ところが北斗ちゃんはしばらく歩くやいなや、再び茶漬けコーナーまで戻って、然り気無く遠目から二人の様子を眺めている。
その様子は実に堂に入ったもので、きちんと茶漬けを啜りながらも、チラリチラリと視線を送った。
田穂は不思議そうにそれを横目で眺めるが、当の若君はチクリと刺した。
「田穂♪せっかくの無礼講だ!君もまだ茶漬けしか食ってないだろう?暇を与えるから、今のうちにしっかりと食っておけ!今日の料理はなかなか美味いぞ♪」
そう言って、手を小刻みに振りながら田穂を追い払う。
田穂も今までならすぐに食って掛かり、付き従うが己の職務と躍起になっていたが、端と考えた。
若君はどうやらあの二人にご執心のようである。これだけの料理に囲まれており、下手な事は考えぬだろうと想ったのだ。
それにここは内輪だけの席だから、命の危険も無いに違いない。要は自分を気遣ってくれての好意なら、受けるのも配下の務めと割り切る事にしたのである。
「へぇ~そりゃあどうも♪あっしも腹が減ってたんで!じゃあ御言葉に甘えて♪」
彼は素直に承知して、料理を物色しながら少しずつ離れて行く。
若君はしばらくはその場で茶漬けを啜っていたが、その視線はいつの間にか田穂に移っていて、彼の意識が完全に自分から離れたのを確認すると、スッとその場から立ち去った。
誰もその場から消えた若君を認めた者は居なかった。皆、その瞳には写っていたかも知れないが、気にも留めなかったのである。
それほど北斗ちゃんの立ち居振る舞いは見事の一言に尽きた。只一人を除いては…。
「遅くなってすまん…ちと撒くのに手間取ってね!」
若君はそう謝る。
そこには五人の男たちが待ち兼ねたように佇んでいた。関羽を筆頭に趙雲・傅士仁・費観・ 張嶷である。
「若…すみませんな!せっかくの祝いの宴の最中に…」
関羽は代表して頭を下げた。
「否…緊急の事案だ!本来なら会を解散させても良かったんだが、せっかくの場だからな…仕方無い。それで状況は?」
北斗ちゃんは訊ねた。すると費観が話しを引き継ぐ。
「今朝ほどの伝書鳩で文偉から連絡が!彼は今、子山殿を伴いこちらに向かっています♪詳しくは我々もまだ聞いておりませんが、大事かと想われます!」
費観は深刻そうにそう告げた。
彼がそれほど懸念を表明するのも珍しい。北斗ちゃんも事の重要性が益々高まり、顔が厳しくなる。
「判った!まずは話しを聞こう…それで各々方の見解は?」
若君がそう訊ね返した時である。張嶷が突然、「しっ!」と言って注意を換起したので、皆が一斉に振り向く。
「若…やはりつけられましたな?」
趙雲はそう告げた。
「否…むしろアッパレというべきじゃないか?」
関羽はそう褒めた。
すると若君はクスクスと笑い出す。皆、どうしたのかと見つめ返す。
「やっぱり君は最高だね♪試した訳じゃ無かったんだけど、違和感には気づいたんだな!たらふく食べたかい?」
北斗ちゃんはそう訊ねた。彼は溜め息を漏らすと口を開く。
「そりゃあそうです!でも一度は騙されました…でも可笑しいと想ったんす♪だって、今のうちにしっかり食っておけと言いましたよね?て事はこれから忙しくなるって事じゃ在りませんか!そこで直ぐに網を張りました。場の中から抜けた方々も見極めました。子龍様が来ているとは想いませんでしたが、皆様お揃いで♪」
そこに姿を現わしたのは田穂であった。
「へぇ~なかなかやるじゃ無いか♪」
費観は感心している。
「否…田穂を撒くのは難しいでしょ?若も端から必要としていたみたいだし♪」
張嶷もそう返す。
言葉は違えども趙雲も関羽も田穂には一目置いている。それが証拠に関羽はこう評した。
「やはり若には必要な男ですな♪」
「えぇ…そのようです♪」
趙雲も呼応する。
「うん♪勿論さ!何せ田穂は衛尉にした今でも僕の懐力だからね。彼は外せないんだよ♪そういう訳だから、早く君もこちらへ来てくれ!腹一杯に成った分はしっかりと働いて貰うからね♪覚悟してくれ!」
若君はニコッと笑うとそう告げた。
「へい♪勿論ですとも!この田穂、御意のままに♪」
田穂は嬉し涙でその頬を濡らす。
まんまと騙され、置き去りにされた事などもう当に忘れていた。そんな二人の姿を皆が微笑ましく見つめていた。
【次回】文偉走る




