【番外編】楼琬の旅路⑨末裔
「な、何と!もしかして貴方は法正殿の縁の御方なのですか?」
王基の驚愕はけして左慈に驚かない楼琬に対してでは無かった。彼は法楼琬という彼の名に驚きを示した。
その証拠にサラリと法正の名を告げたのだ。これには楼琬も驚いた。
「えっ!貴方は法正をご存じなのですか?法正は私の父です♪」
彼は自然の成り行きでそう答えた。ところが王基の想うところは他に在った。
「やはりそうでしたか!法を戴く名は余り見掛けません。これは古の昔に襄王を祖とする王気の才があるからなのです。かつて襄王は斉の王として窮地に陥りましたが、田単の力で救われ血脈を繋ぎました。その血が貴方にも流れているという事なのです。私は長年、お仕えするなら斉王の血筋と想い、探して来ました。ここで貴方に出会えたのも何かのお導きでしょう♪斉王の血を絶やすなとのご先祖のね?実は私は今度、魏の孝廉に推挙されましてね!そろそろ本格的に山を降りようと想っていたところでした。擦れ違い、少し出逢うのが遅ければ、私は魏に再び仕えていた事でしょう♪でもこうして貴方と私は出逢った。これも運命というものです!宜しくお願いします♪私を貴方の配下としてご自由にお使い下さい!」
妙な具合になったと楼琬は想った。彼は若君の忠実な配下として、従ってくれる人材を求めているのだ。
しかしながら、この王基と謂う青年は、この自分に従うという。これは可笑しな事に成ってしまった。
彼はこの際、誤解を解く必要があると想い諭す。
「いゃいゃ…僕じゃなく、我が主・劉禅君にお仕えして下さる人材を求めているのです。貴方は謂わば僕の同僚として、共に主君を支えて下さる逸材であって、あくまでも貴方の主君は劉禅君だ!まぁ僕は将来、相国に成るのが夢だから、もしかしたら結果的に貴方を配下として使う事に成るのかも知れないが、それはまだまだ先の話であって、今は困るんだけど?」
楼琬は然も困った様にそう告げた。
夢は大きいに越した事は無いが、相国とは大きく出たものである。しかしながら、これは彼が想い描いて来た理想像であったから自然とその口から出たのだろう。
相国とは秦の時代にあの呂不韋が登り詰めた位である。元々は丞相よりも上の位だから、正に位人臣を極めると言っても過言では無い。
とんだ大風呂敷を広げたと想うかも知れないが、彼は真険だった。男として生まれたからには大志を抱く。その心意気だったのである。
彼はそうは言ったものの、内心は照れも在った。それにまだまだ自分にその力が足りないのは重々承知していたから、少々頬を赤らめる。でもその目はしっかりと王基を捉えていた。
けれども王基はそれを好しとした。否…むしろ我武者羅な志を持つ上昇志向と捉えた。
彼はコクりと頷くと楼琬の志を支持した。
「判っておりますとも!相国とは大きく出ましたが、その心意気や好しです♪とても気に入りました。それに私が仕えるのが貴方であっても、貴方の殿は劉禅君だ!結果として私の主君もその若君という事に成りますから問題無いでしょう?違いますかな♪」
王基は飄々とそう宣う。楼琬は呆れてしまった。
「どうしても?」
彼は踠く。
「えぇ!じゃなきゃ、私の心は掴めませんぞ♪」
王基は冗談でも言う様にそう脅した。
「フゥ~!!」
彼は溜め息をつく。
「参ったな!君は斉王をどんだけ崇めているのよ?僕は襄王をそんな大した人物とは想ってない。まぁ確かに莒に逃げ込み、あの楽毅の猛攻を数年に渡り防いだのは見事だろうが、結局のところ斉を救ったのは田単だ!法章は単にその田単に祭り上げられたに過ぎない。少なくとも僕はそう想ってるね!これが歴史的事実さ♪違うかい?」
「まぁ、そうですな♪仰る通り!」
ところが暗に反して、王基は楼琬の主張を認めた。そして彼もそう想っている節がある。
楼琬は理由が判らずに、問い質す。
「ちょっと待った!じゃあ、なぜそんなに法章に拘る?」
すると王基は即答した。
「そりゃあ、決まってます♪今は風化してしまった事実ですが、我ら王氏のご先祖も、あの莒に居たのです。先祖が邑を守るために奮戦し矢を受けた時に、その矢には毒が塗ってあったそうで死にかけました。その時、若き襄王は彼の勇姿に感銘を受けて、"死なせては成らん!"と毒を吸い出すように命じたそうですが、皆、死を恐れて従おうとしませんでした。その時に"なら、儂がやる!"と従者が止めるのも聞かずに、法章はご先祖の毒をその口で受け止め、救ったそうで、感激したご先祖は生涯の忠誠を誓い、末代まで語り継ぐ約束をしたそうです。それ以来、我ら王氏は代々その話を受け継ぎ、法章の子孫を深して来ました。まぁそういう事ですな!」
王基の言葉は誠しやかに聞こえ、その耳触りも好い。けれども楼琬は疑問に感じた。
そんな時の彼は容赦無い。彼は早速、反撃に転じた。
「良く出来た話しだが、それは嘘だろう?」
彼は王基を見つめ、睨みつけた。すると王基は扇子で口許を隠すなり、プッと吹き出した。そして「判りますか?」と言った。
楼琬は身体中の力が抜け、脱力感に苛れる。
『こいつめ!この期に及んで、まだこの僕を試すとは大した玉だな♪』
彼はそう想って、嫌味ったらしく切り返す。
「そりゃあ、そうだろう!詰めが甘いんだよ♪途中までは良く出来た話だ!お涙頂戴も判官贔屓の今の世に合っている♪絶妙なお伽噺だった。けどなぁ、最後が良くない。この話の限りでは確かに良いが、君はその前段で何と言った?僕の父の名を口にした。つまりは調べはついていたのに、君は蜀に渡りもせずにここに居る。つまりは嘘だな!」
楼琬は言い切る。
「御名答です♪さすがですな!さすがに憐れみを感じても、君主たる者、自らそんな事はする筈がありません。でも後の事は本当です!敵を防ぎ、法章はそんなご先祖に礼を述べたそうです。まぁ世が世ですから、それだけでも感激の極みとも言えましょうが、私は後生大事にそれだけの事で、代々伝承して来たご先祖たちが滑稽に想えましてね♪私が貴方を認めたのは、貴方の才気を直に感じたからです!光る苔を手に入れたのも一見、浅はかな行動に想えますが、探究心の表れという見方も出来ます。そして何より、あの絶壁を登り、危険を冒してでも私を招きたいという貴方の意志に感銘を受けました。何より貴方はその才知と腕で、南海を牛耳ったお人だ!相当な使い手に違いない。そして上昇思考もお持ちだ。良き臣下は良き主人に恵まれてこそ、その力を発揮すると申します♪私はこのめぐり逢いにピンときただけです!お許し在れ♪」
王基はまるで演者の如く、敬々しく腰を折り、ひれ伏す。扇子を片手にチャラさを隠しもせずに、阿らない。正に堂々としたものである。
楼琬にとっては、未だかつて会った事の無い奇妙な部類の輩だったが、だからこそ却ってそれが新鮮に想えた。
まぁこれも悪くないと彼は想う事にしたのである。彼は溜め息混じりに王基を見つめた。その瞳には既に嫌味は無く、微笑みを称えている。
「まぁ、良かろう♪僕も君を認めている!だから僕を試した事も不問に伏す。配下が主人を試すのは当たり前だからね♪何しろ自分の将来や命が懸かっているからな!では改めて宜しく♪王基!君はこれより僕の臣だ♪」
楼琬はそう宣言した。
「こちらこそ!この出逢いに感謝致します。今後とも宜しく♪」
王基はひれ伏したまま、目配せする。今で謂うところのウインクである。
楼琬はこのチャラさだけでも何とか成らないかと王基を見つめた。けれども王基は既に鼻歌混じりで、そっぽを向くとその意識は余所に在った。
楼琬はその時に感じたのだ。いみじくも王基が戯れに騙った法章の姿を、彼は劉禅君と重ね合わせて想い悩む。
配下の毒を自ら口で吹い出し、命を救う。あの若君ならばやりかねないと、彼は危惧していたのである。
『そんな君主も居るのだよ!それが我らが主人・劉禅君なのだ…』
彼は既に背中を向けている王基に、敢えて語り掛けるようにそう念じていた。
こうして王基は楼琬の配下に無事収まった。但し、彼はひとときの猶予を願い出た。師の管輅に報告に行くという。
楼琬はそれを許した。
そんなところに何も知らない福引が戻って来た。楼琬の無事な姿を見て、彼は涙ぐむ。
本当に放してはならないのは、こういう知巳である。楼琬はそう想い、福引と抱き合い互いの無事と生還を喜んだ。彼は紹介した。
「喜んでくれ♪今回の首尾は上々だ!君も知っての通り、この王基は僕らの命の恩人だが、この度、この僕の配下と成った。話している間に意気統合してな!まぁこれも一期一会と謂うものだろう♪」
楼琬の報告を聞いた福引は、まるで自分の事のように喜んでくれた。
「そりゃあ良い♪おめでとう御座います!私も一緒に来た甲斐があったというもんです、はぃ♪」
福引はそう評した。
「宜しく♪先輩!」と王基は目配せする。そのチャラさに福引も仰け反る。
「大丈夫なんすかい?」
福引はまるで田穂のようにそう述べた。
「うん?大丈夫じゃないかな?少なくとも僕は嫌いじゃ無いけどね♪」
今度は楼琬が若君のような口調で応じた。彼らは特に遊んでいる訳では無い。
けれどもこの新しい歌舞伎者を迎えるには必要な手続きだったのだろう。そして事が成ったからには、ここに長居は不要だった。
王基は楼琬にも殊更に湯に浸って身体を癒す事を勧めたが、彼は固持した。よくよく考えてみるに、彼が倒れていた間の時をもう取り戻す事は出来ないのだ。
今頃、全白も首を長くして待っていよう。場合によっては桓鮮が到着している事さえ考えられたから、それ程の余裕は無かったのである。
それに福引を巻き込んだ事で、今頃、あの孟起殿が焼きもきしているに違いないのだ。馬超の猛り狂う姿はさすがの楼琬も見たくなかった。
そうした各々の情勢がそういった判断に至ったのだと謂える。
「じゃあ、師に会いに行くついでに貴方たちをお送り致そう♪」
王基はすぐに買って出る。チャラ男こと王基は手の平を返すように、二人を追い立てる。
「否…そんなに急かんでも平気じゃねぇ?」
楼琬はまだ若君の癖が抜けないらしい。
「じゃあ、湯に浸って行きます?」
「否、そこまでは…」
「なら、急いだ急いだ♪」
王基はまたまた追い立てる。楼琬は辟易した。
「判った!判った!行くよ、行きますってば♪」
彼は半ば諦め、そう叫ぶ。
まさに前途多難だと感じたのだろう。この男は有無を言わせない。
この先、この男のペースに巻き込まれたら、大変に煩わしい。果たしてこのチャラ男を引き込んだのが良かったのかと、今さらながらに楼琬は想った。
『馴れるかしら?』
今のところ、それが最大の懸念だった。福引はそんな二人を眺めながら、終始ニヤけていた。
彼ら三人は洞窟には戻らずに、滝を見上げる湖水の畔に立つ。楼琬も福引も「??」と不思議そうに王基を見つめた。
すると王基はほくそ笑みながら福引を突き落とす。
「あっ!」と叫ぶ間もなく、福引は消えてしまった。「何をする!」と楼琬は訴えるが、既に福引の姿は無い。
「へっ?もしかしてこれが戻る神の門かい?」
驚きを隠せない楼琬は鼻水混じりにそう訊ねた。
「えぇ…戻る時も来る時もね♪」
王基はそう答えた。そしてまたほくそ笑み始めたので、楼琬は慌てた。
「待て!待て!待ってくれ!心の準備が…」と言ってる間も無く、王基はポンと彼の背中を強く押したので、彼はジタバタとバランスを取ろうと必死に抗うも、結局その反動には勝てずに真っ逆さまに墜ちて行った。
「ではまた後程!ご愁傷様♪」
王基はそう言った後に、管轄の許へと挨拶に向かった。
彼は裾を捲って軽やかなステップを踏む。終始ご機嫌な様子だった。
さて…それとは対象的に、こちらはちょっとしたパニックである。突き墜とされたのだから然も在らん。
「ギャーワァー!!」
楼琬はそう叫ぶも、既にそこは福引の背中の上だった。
「アレ?」
彼は想わずそう呟く。
周りを見渡すと、そこはあの馬超に馬の行く手を遮られた峠道の崖の上であった。それが証拠に、眼下には匈奴の居住区が垣間見える。
「楼琬殿!そろそろ勘弁して下さい♪」
福引は彼の腹の下から訴えている。
「おゃ?御免!」
楼琬は慌てて後ずさる様に身体を起こした。
それにしても不思議なもんである。神の門は本当に存在したのだ。
そして彼ら二人は無事に戻って来た。行きの道中が嘘のように、ほぼ一瞬の内に麓に到着したのである。
けれども状況が状況なだけに、喜んで良いのかは複雑な気分だった。
「大丈夫かい?」
楼琬は福引を気遣う。
「えぇ、まぁ!でもあの嗜虐さは前途多難ですな?楼琬殿も苦労されよう!」
福引は暗に今後の事を仄めかす。
「アハハ♪そうだね!」
楼琬もそう指摘されては笑うほか無い。でも考えてみれば、そもそもそんな危険な門を作る方にも問題はあるのだ。
けして王基だけの責任では無いだろう。
『でも待てよ…』
そう言われてみれば、彼のほくそ笑みには悪意も少々感じられた。福引の言う通り、彼には少々嗜虐さがあるのかも知れない。
或いは単なる悪戯心とも謂えるが、若君のそれと比較すると可愛らしいものでは無かった。扇子を片手に大きく広げ口許に持って行き、コロコロと良く笑う。
美周郎の如き美しい顔でチャラく振る舞うが、その下にはサディスティックな一面も持つ。
けれども彼は我々を助けてくれたでは無いか。楼琬はそれを想い出し、この件は不問にする事にした。
少なくとも彼らは一瞬のうちに帰還したのだから、感謝こそすれ批難する謂われは無い。
楼琬は改めて今回の道行きに同行してくれた福引に礼を述べた。
「否…当たり前の事だと言ったでしょう♪それより貴方が無事で良かった!」
福引は却って恐縮している。自分のせいで彼を窮地に追い込んだと想っているのだろう。
楼琬は福引にこれ以上、気を使わせまいと笑いながらこう応えた。
「否…スリル満点で結構、愉しかったです♪鍛練の何たるかも知りましたから、勉強になりました!さすがは近衛ですね♪感銘を受けました!」
そう褒めちぎると、福引は照れまくっている。
「そうですかな?じゃあ良かったです♪」
そう言って笑った。完全に気を取り直した様子である。
楼琬はホッとした。そして紆余曲折はあったものの、彼自身もミッションを成し遂げた達成感に溢れていた。
けれどもチャラ男のニヒルな顔を想い出すと彼は苦笑いするほか無かった。
山を降りる事を伝えると管輅は却って喜んだ。特に王基が孝廉に依らず、自らの意志で主人を決めた事を評価してくれた。
「それで良い!元々、御主は型に填まる人では無かろうて♪」
管輅は嬉しそうにそう告げた。
「お世話になりました♪」
王基はそう言って謝意を表す。
管輅は左右に首を振り、「何の!儂も愉しいひとときじゃった♪」と軽く会釈を返した。そして「どうじゃ!何ならこの儂が先行きを占ってやろうか?」とほくそ笑む。
「止めて下さい!先生だって本当は判っているのでしょう?」
王基は慌てて固持する。
すると管輅は嬉しそうに「確かにそうじゃな♪」と頷いた。
「先生もご健勝で!」
王基は気遣う。
「あぁ…御主もな!」
言葉数は少ないが、この師弟は互いの事を好く判っていた。
未来は誰かに示して貰うものでは無いのだ。それは自らの手で切り拓くものなのである。
既に王基は前を向き、先を見つめている。管輅はそんな弟子を誇らしげに、そして温かく見守っていた。
【次回】[番外編]楼琬の旅路⑩鬼の棘




