表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
254/309

【番外編】楼琬の旅路⑦神仙

「うわぁ~こりゃあ、絶景だねぇ♪アレって普段、空に浮いてる雲だろう?」


楼琬は初めての経験に浮き浮きしており、(ごくごく)々当たり前の事を口にした。もっと他に言い様があるというものだが、彼ほどの才媛でも、驚きが先に立てば凡庸な表現に成るらしい。


崖上に臨む彼にとっては、それだけ眼下に見ゆる雲海は素晴しく想えたのだろう。そしてその雲海の隙間から時々見える地上の村落は手の平サイスだし、人は米粒くらいにしか見えない。


福引にとっては日々往復している道程であるが、日頃は配下を気遣っての訓練だから、そんな余裕も無く、言われるがままに振り向いた眼下は確かに絶景であった。


だから彼も素直に「えぇ…そうですな!美しい♪」と答えた。


二人はその絶景に見惚れて、しばらくの間、崖に宙ぶらりんのまま眺める。やがて我に返った二人は再び先を急いだ。


しばらくすると、身を置けるような窪みが見えてくる。福引はおもむろにそこが終着点である事を告げた。


「楼琬殿!そこに登って下さい♪気をつけて!」


彼はコクリと頷き、おそるおそる崖を背にして細い窪みに腰をつけた。福引も上がって来てその横に座る。


良く見ると、それは窪みというよりは崖の中途に出来た細い道であった。


まぁ仮にも道というには程遠い。腰を乗せるのがやっとであり、足を付くにも余裕は無く、踏み外せば一巻の終わりだ。


それこそ真っ逆さまに墜ちる破目になる。


楼琬は初めて足が震えた。先程までのワクワク気分は既に冷めて、今まさに現実に立ち戻った心境だった。


「しばらく休んだら進みましょうか?でも予め言っておきますが、この先の道はこの私にも予測がつきませぬ。道が続いていれば良いですな♪」


福引はケロッとそう言った。


「何だってぇ~君も行った事が無いの?」


楼琬は驚きそう叫んだ。少々不安になっていたので、その気持ちが如実に表れる。


すると福引は堂々とこう宣う。


「そりゃあ、そうです♪必要ないですからな!この私に若君や貴方のように、好奇心があれば探検でもしたでしょうがね!それに今は戦地です♪」


「おぃおぃ…勘弁してくれ!」


楼琬はそう想った。


あれだけノリノリで説明し、そればかりか同行まで買って出ておいて、今さら戦地も(クソ)も無かろう。


けれどもこの期に及んでも平常心を貫く福引を眺めていて、楼琬もだんだんと落ち着きを取り戻し腹を括った。


「そうだったね♪でも心配無いさ!必ず道は続いている。じゃなきゃ理屈に合わない♪」


「どういう事です?」


福引の素朴な疑問に、楼琬は全白の事を語ってやった。


「成る程…その者が既に賢者に会って帰還しているのですね?しかし良くココが登れましたなぁ!」


福引は感心している。


「あぁ…彼はあの南海の出身だからね、身体はデカいけど敏捷(はしっこ)い!」


ここまで言った時に、楼琬は疑問を感じた。背が高いなら判るが、全白はどちらかと謂えば横に広い。


果たしてこんな崖を登って来れるだろうかと想ったのである。命綱無しに命懸けで同行してくれた福引に隠し事は出来ない。


それに彼ほど肝の太い男なら驚かないだろう。楼琬は正直に自分の考えを述べた。すると福引は顔色ひとつ変えずに疑問を呈した。


「そらぁそうですね!て事はこんな断崖を登らないでも山上に登る道があるって事になりますな♪まぁ我らは訓練で上がってただけなんで宜しいですが、とんだ事で!」


彼はむしろこんな行程(ルート)に引き込んだ事を悔いているらしい。楼琬は慌てて否定した。


「いゃいゃ…構わないさ♪雲海も綺麗だったし、これも経験さ!気にしなくても良いさ♪」


彼はそう言ったものの、これで問題が解消されていない事も良く判った。福引も同じ考えだったらしく、彼の口からいみじくもその事柄が溢れ出る。


「…て事はです!やはりこの桟道(さんどう)が続いてる事を祈るしかありませんな♪でも何事にも始まりは有りますから、愉しむとしましょう!」


彼は相変わらず(ひょうひょう)々としており、感情に流されない。さすがは近衛隊の副長を長く務めているだけの事はあった。


楼琬は感心するように福引を眺めた。


「有り難う♪そう言ってくれて、僕も少々気持ちが軽くなった。ではそろそろ行くとしようか?」


楼琬は立ち上がろうとして福引に抑えられた。


「ゆっくり!ゆっくりですぞ♪」


彼は念を押した。


「アハハ♪そうだったね!」


楼琬は照れるようにそう返す。


『危なかったぁ…』


内心そう想いながら崖に手を掛け、慎重に立つ。二人は崖に手を掛けたまま一歩ずつ、そしてゆっくりと足を踏み締めながら進んだ。




幸いな事に彼らの行く手は(さえぎ)られてはいなかった。但し、風と共に立つ砂煙は時に石礫(いしつぶて)を運んで来て、歩行には困難を極めた。


それでも彼らは慎重に進んで行き、やがて洞窟を見つけた。


『どうやらこれを進むしか無さそうだな…』


その先に桟道(さんどう)は続いていないから、また崖に杭を打ち登るか、山の奥に続く洞窟に身を委ねるしか無い。その二択だった。


当然の事ながら福引も同意し、二人は洞窟の中に入った。中は真っ暗かと想いきや、意外な事には奇妙に明るい。


二人は理由(ワケ)が判らないものの、先に進むためには通らねばならない事は承知していたので、慎重に進む。不思議なのは奥に行けば行く程に、その明るさが増した事であった。


「気色悪いですな…意外かも知れませんが、私は幽霊とかその手の物は苦手でして…」


福引は正直に告げた。


「まぁね!人成らぬ物を苦手じゃないと断言出来る人は居ないねぇ♪」


楼琬も冷汗混じりにそう答える。彼はふと気づいたように光る物の傍に近づいて行き、それをジロリと舐め回すように眺めた。


福引もおそるおそる近づく。彼が楼琬の背後で、その袖を掴むようにしてくるのは新鮮だった。本当に恐いらしい。


彼のような不屈の男でも、苦手はやはりあるようだ。福引の心の蔵がドクンドクンと激しく波打つ振動が、桜琬にも伝わって来る。


彼はじっくりと眺めた後に、不意にその光る物を掴んだ。福引は「あっ!」と叫んで、冷汗を流しながら楼琬を見つめた。


すると目の前では不思議な事が起きた。何と掴んだ楼琬の手そのものも光り始めたのだ。福引の驚き様は尋常では無く、彼は慌てて叫んだ。


「早くその光る物を捨てて下さい!」


そう言って、楼琬の手を(はた)く。


すると光る物体は地面に落ちたものの、楼琬の手はまだ光っていた。福引はそれを目の当たりにして驚き、卒倒しそうになる。


けれども当の楼琬は落ち着いたもので、今度は座り込むとその落ちたものを再び鷲掴み、拳でギュッと握り込む。


当然の事ながら光る物はパラパラと手の平から(こぼ)れて行き、粉々になりながらもまだ光っていた。


福引は正気の沙汰じゃないと、歌舞(かぶ)く楼琬の行いを理解出来ずに、奇妙な眼差しで見つめていた。すると楼琬は突然笑い出して、振り向き様にこう言った。


「大丈夫だよ♪こりゃあ事情は判らないけど、(コケ)だねぇ!しかも光る苔さ♪明るさの正体は、どうやらこの苔のせいだね?」


彼はまるで何事も無かったかのように、福引に笑みを浮かべる。どうやら彼を安心させてやりたかったらしい。


福引もようやく落ち着きを取り戻し、ホッと胸を撫で下した。けれどもこの楼琬という青年はそれで終わる人では無かった。


彼は再び座り込み、鼻歌混じりに胸許から羊皮紙を取り出すと、再び鷲掴んだ光る苔を無造作に突っ込み丸めて、胸許にしまい込んだ。


福引は怪訝(けげん)な顔で彼に訊ねた。


「いったいそんな物を拾ってどうするんです?」


すると楼琬は然も当然と言わんばかりに、ほくそ笑んだ。


「そりゃあ持ち帰り、研究するのさ♪こんなとこ、なかなか来れるもんじゃないだろう?それに何か物の役に立つかも知れないじゃないか!こりゃあ若君にも分けてあげよう♪桓鮮が来るからちょうど良いね!幸運だったな♪」


その表情はまるで屈託(くったく)の無い子供だった。福引は苦笑いするほかなく、「変わってますなぁ〜♪」と呆れてみせた。


彼なら絶対に知らない物には触れない。それがどんな作用を伴うか判らないからである。


けれどもそれは苔らしいという事だったから、さすがに毒ではあるまいと彼は安堵していた。然れど未知なるものである事に変わりはないのだ。


光る苔ですら、彼らは今までその存在すら知らなかったではないか。福引は苔に触れぬよう細心の注意を払う事にした。


こんな局面で共倒れに成らぬためである。


『何かあれば、私が彼を助ける!』


彼の決意は固かった。大人の深謀遠慮というべきで在ろう。


楼琬はその点には特に触れなかった。未知との遭遇など今に始まった事じゃない。彼は冒険に出て以来、未知なるものに絶えず遭遇している。


成都の高官とはそういうもので、いざ外に放り出されれば、周り全ては未知なるものばかりと言ってもけして過言では無かったのである。


ある意味、彼がそんな環境に慣れる事が出来たのも、息子の将来を憂いて、心を鬼にして叩き出した法正の叱汰激励の賜物だった。


楼琬はまるで宝物を見つけた無邪気な子供のように、ニッコリ笑ってこう告げた。


「じゃあ、そろそろ先を急ぎましょう♪大分、時間を食ってしまった!」


呆気らかんとそう宣う楼琬だが、福引は然して反論もせずに「そうですな♪」と応える。


若君ならば「どの口が言う!」くらいの突っ込みはした筈だろうが、その点、福引は大人気なく無かった。




二人はその後も光る苔のお陰で、暗闇に惑わされる事無く洞窟を突き進む。楼琬は鼻歌を口ずさむくらい、気持ちが高揚しているようだった。


福引は特に口を挟む事無く後から着いて行き、監視を怠る事は無かったので、洞窟には鼻歌だけが(こだま)する。


しばらく行くとようやく洞窟に刺し込む日射しが感じられて、二人はホッとひと息付く事になった。


「ようやくここから出られそうだね♪」


楼琬はホッとしたのか、名残惜しいのか判らぬ様な声音で告げる。


「いゃあ~私は正直、二度と御免ですな!」


福引は素直な気持ちをストレートに告げた。


「そうかなぁ?」


楼琬は懐に得た宝物のお陰で今もホクホクで、その意見には疑問を呈した。


それでも人には色々な物の考え方があるのは彼も承知していたし、何より福引は自分の事を心配して付いて来てくれたのである。


感謝こそすれ、否定は出来まい。だから楼琬はそう言うに止めた。


(いず)れにしてもこれで陽の許へ戻れる。それは彼だって嬉しいに違いないのだ。


幾ら光る苔が珍しいと言っても、ここでずっと居るのは楼琬だって辛いのだ。人は陽の光の下でこそ安心して暮す事が出来るのだ。


そう想った時に楼琬は自然と呟いていた。福引にはそれが「有り難う♪」と言ったように聞こえた。


その瞬間だった。洞窟から抜け出すや否や、その言葉を最期に楼琬は昏倒した。


福引はびっくりして『言わんこっちゃない!』と想った。ところがそんな彼自身にも同じ運命が待っていた。


次の瞬間、彼も突如として意識を失い、揉んどり打つ様にその場に倒れた。


そのため、彼らは見る事は出来なかったが、目の前には実に見事な滝がまるで天空から打ち下ろすように水しぶきを上げながら流れていた。


そして彼らを見下ろすようにその滝には綺麗な虹が懸かっていた。




どのくらいの時が経過したのだろう。楼琬が目を覚ますと、そこは(いおり)の中であった。


彼はそんな時に誰もがやり勝ちな咄嗟の行動を踏襲する。


彼はやおら起き上がり、キョロキョロと周りを見回すと、立ち上がろうとして頭がズキッと痛んで慌てておでこを押さえた。


「アィタタタ…」


酷く頭が痛い。それは一過性のものでは無く、彼にとっては永遠に続くのかと想われた。


楼琬は下戸だから二日酔いの経験は無い。


けれども父・法正は大の酒好きで…否、はっきり言って大酒呑みなのだが、その父がよくこうして頭を抱えていたものである。


『あれだけ呑んで馬鹿馬鹿しい…』


彼は心の中でそう笑っていたものだ。


しかしながら、今ようやくその痛さが判った気がしていた。


『そう謂えば、福引はどうしたのだろう…』


楼琬は気づくなり、彼の事が心配になった。だから頭を抱えたまま、無理矢理また立ち上がろうとしたが、腰砕けになってへたり込んでしまった。


『こんな時に…』


彼は悔いた。


『私は正直、二度と御免ですな!』


福引のその言葉が、彼の脳裏に走馬灯のように蘇る。


『彼の言った通りだった…』


楼琬は自分の浅はかさを呪ったがもう遅い。


彼は動くに動けず、しばらく無駄な抵抗をして(もが)いていたが、それにも疲れて再び倒れ込む。


するとその時ちょうど庵の扉が「ギィ~ッ」と開く音がして、そこにひとりの美丈夫が入って来た。


見るとまだ若く、美しい長い髪と甘いマスクを兼ね備えた美周郎(びしゅうろう)の如き様である。


美周郎とはこの当時のハンサムの語源であの周公瑾(しゅうこうきん)の事を指す。


勿論、楼琬は周瑜(しゅうゆ)本人にお会いした事は無いが、その語源は知っていたので、こんな感じかと想ったのだ。


するとその美周郎の方でも楼碗に気づいたらしく、ニコニコ笑いなから近づいて来て、「やぁ~ようやく見覚めましたか♪」と言った。


楼琬は本来なら礼を尽すところであるのに、福引の事が心配の余り、「彼はどうしました?もうひとり居たでしょう!」と半ば食って掛かった。


けれども美周郎の如き青年は、チャラい事には綺麗な飾りの付いた扇子をパラリと開くと、口許を隠すようにコロコロと笑っている。


楼琬はカチンと来た。それだけ彼も余裕が無かったのだろう。


人は感情的になっている時に、相手に却って余裕を見せられると、余計に腹立たしいものだ。


彼も言うに及ばず、悪態をつこうと口を開き掛けたが、余りの頭痛に「アツツッ」と頭を抱え込み、言葉にならなかった。


それは結果として幸いだったと謂うべきだろう。


状況から推察するに、相手は彼を救ってここまで連れて来たのだろうから、元々悪意などというものとは縁が無く、むしろ善意の(かたまり)とさえ謂えた。


美周郎は困った顔をしながらも、すぐに肩を貸してくれて、楼琬を寝台に横たえる。そしてその頭の下に砕いた氷の入った袋を敷いてくれた。


謂わゆる氷枕のようなものである。楼琬はその冷たさが心地好く感じられて、痛みが軽くなるのを自覚した。


彼はその瞬間に我に返り、感情的になっていた自分を恥じた。だから素直に感謝の言葉が溢れ出す。


「有り難う♪お陰様でとても楽になりました。助けて下すって感謝します♪」


すると美周郎もニッコリ笑った。真心から出た言葉は相手にも必ず伝わる。


「すみませんね、私ももう少し早く気づけば良かったのですが、まさか神仙の道から入って来る人が居るとは想わなかったのです!」


美周郎はそう言って謝ると、「あっ♪そうだ、お連れさんも無事ですよ!安心して下さい♪」


そう言って微笑む。


楼琬はそれを聞いてホッと安堵し、再び感謝を示すように頷いた。そして安心からか疑問をそのまま口に出す。


「僕が倒れたのは、やはりあの光る苔のせいでしょうか?」


その問いに、美周郎は相槌を打つ。


「えぇ…その通り♪元々、あそこは人の通る場所では無いのです!詳しくご説明致しましょう。因みに申し遅れました。私は王基(おうき)と申します。以後、お見知りおき下さい♪」


美周郎はそう言ってクスリと笑った。

【次回】[番外編]楼琬の旅路⑧管輅

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ