【番外編】楼琬の旅路②誤解
楼琬の拳をまともに食らった全白は、その瞬間には既に意識が飛んでおり、目覚めるのに時を要した。
彼がふとした弾みに目を覚ますと、目の前には楼琬が胡座を組み、手を胸の前で組んでこちらを睨んでいる。
「旦那…オレッちはいったい…」
全白は目覚めたばかりでちょっとした記憶錯誤に陥っていたが、次の瞬間、頬がヒリヒリと痛むので、想わず手で押さえたところで思い出した。
「痛たた…旦那いきなり何です?何をなさるんで!」
全白は必死にそう訴えた。
それはそうだろう。彼だって南海の出身だから、生まれてこの方、只の一度も悪さした事が無いとは断言出来ない。
けれども南海を飛び出し、広い世界に出た後からは、徐々にその行動を改めて来た。そして今の妻と出会ってからは、人が変わったように真面目に務めて来たのである。
だから初対面の旅人に、自分が殴られなければならない訳が判らない。その心の叫びが訴えさせた言葉だった。
「全白!他意が無ければ謝ろう、正直に答えてくれ!」
楼琬の目力は強く、有無を言わせない。
この若者の中から、これほどの圧力を感じるとは到底想いもしなかった全白は、呆気に取られてグゥの音も出なかった。
理由はどうあれ、今この場を支配しているのは、当然この若者である。
全白は信じていなかった訳では無かったが、今ようやく彼が南海を牛耳った事、そして皆を更生させた事を認めた。
彼は一旦、矛を収めて静かにコクリと頷く。それ以外に選択枝は無く、今出来得る最高の判断と謂えた。
楼琬は全白の殊勝な態度に満足すると早速、問う。
「では訊ねる…お前さん全白って名乗ってるが、本当は金白だろう?金紅の身内だな!」
「へい!そうです…」と彼は答えた。余計な事は喋らず、だだ聞かれた事に素直に答える。
何しろ今、主導権を握っているのは相手なのだ。突然の事とはいえ、その拳を避け切れなかった全白にとって、楼琬に歯向かう事はその傷口を広げるだけである。
それに誤解と判れば謝るとさえ言っているのだ。彼はこの際、過去の贖罪と向き合うつもりで覚悟を決めた。
楼琬の問いは続く。
「南海時代のお前さんの生業は何だ!」
「へい!宿屋です…否、すみません。只の宿屋じゃあ、ありません。追い剥ぎ宿です!」
全白は素直に告白した。
追い剥ぎ宿とは、言葉巧みに客を騙して彼らの巣である根城に引き込み、簡単に言うと身ぐるみを剥ぐ事である。
強請、たかりで済めば命は助かるが、下手に抵抗しようものなら、人知れず行方不明になる場合もあった。
そして大抵の場合、良くて土座衛門で見つかるが、悪ければそのままどこぞの土の中に埋まって白骨と成って居よう。
つまりは永遠にその人の存在は、掻き消えてしまう事になる。果たしてこの全白が、そこまでやっていたかは定かでない。
けれども楼琬の眼力に曇りは無かった。
「それで…すっかり足は洗ったんだろうね?」
楼琬の問いに、全白は慌てて答えた。
「旦那…勘弁して下せぇ!オレっちは今のかかあと約束しやした。人様に陰口叩かれる事は二度とやんねぇ。そう誓いやした。こう言っちゃなんねぇけんど、オレっちも玄人 です!生業では一切、殺生はしてねぇし、お金持ちしか狙ってねぇ♪泣く子も黙る義賊様だったんす!これは本当ですぜ♪信じて下せぇ!」
全白は必死にそう訴えた。
楼琬は溜め息混じりにこう言った。
「バカ!義賊は無かろう?そりゃあ、盗んだお金を貧しい人に分け与える賊の事だぞ!」
すると全白は首を真横に振って、その円らな瞳を楼琬に向けた。
「否…それで正解なんで!オレっちは南海を出て以来、貧しい人を見つけては、施して来ましたし、洪赤兄貴の人攫い撲滅運動にも寄附しています。今だって宿で一日三回、炊き出しをして、近隣の人々に施しています。今後はオレっちが職を見つけてやるつもりです。それでも駄目なんで?」
全白はキョトンとしている。どうやら困っているようにすら、それは見えた。
「否…それなら良いんだ!お前は立派な義賊だよ♪こりゃあ、色々とすまなかったな!」
楼琬は当初の約束通り、キチンと頭を下げた。全ては彼の誤解だったのだから、当然だろう。
けれども今度は全白が慌てる番だった。
「ちょっと待っておくんなせぃ♪オレっちも阿漕な稼ぎで貯めこんで来た事には変わりはねぇ!それに逃げ出す際に、洪青にもたんまり駄賃を弾んじまった♪良い事ばかりに金を使ってる訳じゃね~んだ!それにあんたの話しだって信じてはいたが、どこかで裏があると想ってただ!その可愛い顔だ。南海を牛耳れる訳がねぇ~ってな!でもあの拳で目が覚めやした♪あんたは本物だってね!だから謝らんで下せぇ♪」
全白の心の叫びに、楼琬は吐息を漏らす。
『やれやれ…とんだ誤解をしたもんだ!まぁ南海の住人だから、何か過去にやらかしている事は判っていたが、かなり上等な部類だ。奴が余計な事を言わなきゃ、こうは成らなかったんだがな!そうだ、ひとつ安心させておいてやるか♪』
楼琬はそう想い口を開いた。
「判った!判った!殴っておいて申し訳ないが、ここは痛み分けとしよう。それはそうと、お前さんが払った洪青への夜逃げ駄賃な!たぶん、人助けに化けると思うぞ♪何しろ奴も更正して、今や行っている事は人助けだからな!心配ないさ♪」
彼はそう言って笑った。
「そんだらオレっちも安心だ!有り難ぇ♪」
全白もそう言って笑い返す。そしてふと思い出したように彼は訊ねた。
「今さらですが、旦那がオレっちの事を殴った切っ掛けは何です?理由は既に肌身に感じてますが、何か余計な事をしましたかねぇ…」
全白は何とも言いようのない顔をする。
楼琬は少々顔を赤らめる。その瞬間を思い出し、贖罪も込めて答えた。
「あぁ…そうだね♪被害者の君はその理由を知る権利があるからな!」
彼はそう前置きしてから話し出す。
「君は宿を営んでいると言ったね?そしてここが切っ掛けなんだが、昔取った杵柄だと言ってから、思い出し笑いをした。僕はピンと来たよ!これは追い剥ぎ宿だってね?だから反射的に手が出てしまった。身を守るためだった。これが事実さ!勘違いかも知れないと想い、その身を拘束しなかったのがせめてもの僕の真心だ。誤解なら謝る覚悟もしていた。そして連想したんだ。全白だと名乗った君は、本当は金白じゃないかとね!!南海五人衆に金紅という女将が居たからな♪」
楼琬は改めて「すまなかった!」と言って謝罪した。
全白はポカンとした顔で聞いていたが、再び頭を下げる楼琬を慌てて止めた。
「旦那~♪そう度々、頭を下げられちゃあ、オレっちも困っちまう。元々はオレっちの悪業の報いでさぁ!それにしても聞いてみねぇと判らんもんだ。あの時、確かにオレっちは阿漕な稼ぎでウハウハしてた自分を思い浮かべて笑い飛ばした。バカやってたなぁと想いやしてね!」
全日は自嘲気味に再び笑った。
「オレっちは反省した後、生まれ変わった切っ掛けとして、名を改めやした。過去を背負う覚悟もあった。そして何よりこれからは真っ当に生きて行かねばならんのです!だから味噌が付いた点を取って、全白と改めやした。どうです?なかなかでしょう♪」
彼はその名がお気に入りの様である。
全て真白な清らかな心を忘れない。確かに彼の覚悟が見てとれた。
「そうだね…なかなか良い感じじゃあないか?人にそう呼ばれる度に、自分を見つめ直せるだろうからな!まぁそれも君が改心しているからこそ想える事だろうな?」
楼琬はそう評した。それに人の名は体を表すとも言う。
呼ばれる度に彼は自覚し、そう在りたいと感ずる事だろう。その覚悟が今の彼を支え、形作って来たと謂えるのではないかと、楼琬は感じていた。
誤解も解けて仲直りすると、全白は改めて楼琬を誘った。楼琬もその申し出を喜んで受ける事にした。
「門は大丈夫なのかい?」
彼は訊ねた。
「えぇ…心配いりません。あの門は殆ど人の出入りは無いんです。あるとすれば、異民族の連中だけでしょうね?」
「何だってぇ~♪」
楼琬は驚く。
「君らの国では移民を始めていたのかい?」
彼は寸前でそう言い直す。危うく"君らの国でも"と言いそうになったのだ。
劉禅君が人口増加の施策として取り組んでいるのが、各地の流民を受け入れる事であり、諸外国からの受け入れも積極的に進めている。
若君の施策は理に適っていて、虐げられた人たちを救済すると共に、新しく生きる場所を提供する事で、人口増加に寄与させるというものだった。
彼らにしてみても、生きる喜びを取り戻す事が出来、こちらも喉から手が出る程、欲しかった労働力が手に入るのだ。
互いに求めていたものが手に入るのだから、悪い筈も無かった。そしてその施策は当たり、国力は大幅に増している。
勿論、事はそんなに単純な訳では無い。
人を増やすための準備は言うに及ばず、彼らを全面的に支援する事を、常に忘れなかった若君の深謀遠慮がもたらした結果と謂えた。
この施策は公然の秘密であり、画期的な取り組みだと楼琬も感じたものである。だからこそ、危うく滑べりそうになった口を彼は押さえて、訊ねる事になったのだ。
これは彼が荊州に到達した時点で得た事実と実績なのだが、その後の飛躍的な大躍進を知ったなら、さぞや驚くに違いない。
楼琬の問い掛けに、「えぇ…左様!」と全白は認めた。そして漢民族を保護すると共に、友好的な遊牧民族の定住化が進んでいる事に言及した。
「へぇ~そうだったんだな!」
楼琬は相槌を打ちながらも、悔しさを滲じませる。彼に言わせれば、その前に流民たちを助けてやればと想わずに居られない。
けれども何の力も無い流民たちを救うよりも、力のある遊牧民たちを定住化する事の方が、即戦力としても理に適っているのは明白だった。
時は戦国の混乱期である。曹孟徳は合理的な物の考え方を好み、推し進める。死にかけの流民たちなど端から眼中に無かったのだ。
どちらかというと、劉禅君寄りの姿勢を貫く楼琬は、すぐに矛盾に突き当たり苦笑する。
よくよく考えてみれば判る事だが、曹孟徳に慈愛の心を発揮されたなら、そもそも若君の施策が罷り通らない事に気がついたのだ。
『何を考えているのやら…』
楼琬は自嘲気味に笑った。
全白の話しでは、この関を出て東にさらに向かうと、遊牧民たちの居住地があるらしい。そこにはかつて北で猛威を奮った匈奴の残党が居を構えているそうだ。
ひと口に匈奴といっても様々な種族に分かれる。そして彼らが協力的な間は良いが、反乱でも起こされた日には面倒な事になる。
そこで関が設けられ、南蛮出身の全白が配置されているという事らしい。鯔のつまりは、北狄を抑えるに南蛮を宛てたという事になる。
『どこまで人を小馬鹿にすれば気が済むのか…』
楼琬は少なからず怒りを覚えた。けれどもこれも全白にとっては与えられた職務だから、口を挟む筋では無かったのだ。
そして彼はふと思い出してほくそ笑む。
『こりゃあ着替えずに、堂々と毛皮のまま居れば良かったかな?そうすりゃあ、意外とすんなり通過出来たかも…』
そう想ったのだ。しかしながら、楼琬は全白の視線を感じて、すぐに思い直す。
『これで良かったんだな…』
そう素直に感じていた。
宛の無い旅路である。ひょんな事から、彼が長居する事になった南海の既知に出会った事は大きい。
知らない土地で曲がりなりにも味方と呼べる男が出来たのである。彼はその結果に満足し、この出会いに感謝していた。
人を信ずる心は、人と人との間の垣根を払う。まさに若君が自ら実践して止まない信念である。
劉禅君は流民たちを信じた。だから温かく迎えて、仲間として扱っている。
そこに垣根はいらない。そして相手も信用して貰える事が何よりも嬉しい事に違いない。
そんな人々は決して不満を持たないし、その日々に感謝を棒げる者たちは、反乱など露程も考えないだろう。両者の間に強固な信頼と、相手を想いやる心があるからだ。
それに引き換え、弱者を切り捨て即戦力の懐柔に走った魏王の施策には、その辺りの温もりは一切、感じられない。そこに信用は無く、互いの止むに止まれぬ妥協しか無い。
だからこそ不満は生じるし、そこに却って垣根を造る事に成るのだ。この関の存在がまさにそれを証明している。これでは反乱在りきで、予め備えているようなものである。
曹孟徳は確かに偉大な男なのだろう。けれども彼は人の心を信じていない。否…信じる事が出来ないのだろう。
彼が信じているのは、その人の能力だけ。そして忠誠心である。忠誠心とは複雑なもので、相互理解が無くとも十分に適う。
それが証拠に餌で人を縛り、その忠勤を求める権力者の何と多い事かと呆れるばかりである。
そんな曹孟徳にも若君と接触して以降、少なからず変化が表れて来ていると聞く。勿論、こちらの願望半分、噂半分の強いて言えば不確かなものだった。
劉禅君に認められ、信頼されて送り出された彼は、改めてその出会いに感謝していた。
『人の心に垣根はいらない…』
彼はそう信じてこれからも進むと決めた。全白はキョトンとした面持ちで、そんな楼琬の横顔を見つめていた。
「旦那~♪アレを見なせぇ~!」
全白にそう言われて視線を移すと、ちょっとした行列が出来ており、その先ではしっかり者の女将が炊き出しを行っている。
「はぃはぃ慌てない!焦らなくてもたくさんあるから大丈夫♪」
そう言ってテキパキと手を動かして、炊き出しを差し出す。その瞬間に相手の顔は一様に輝く。
楼琬はそこに幸せを垣間見た気がした。彼らにとっては食事時が、この世の何よりも大事なひとときなのである。
それが果たして良い事かと言われれば、返答に困る。世の中にはそれよりも、もっと素敵な事が一杯あるに違いない。
けれどもそれは現実として考えれば、夢のまた夢である。そして食べる事は腹を満たす。
人は空腹では夢を見れない。満腹となって、始めて夢を描ける生き物なのだ。それはやがて心の中で形作られ、人はその一歩を踏み出し始める。
楼琬は全白夫婦が行っている善行が、食を通じて関わる人々の夢を紡いでいるのだと、その時感じたのだ。彼は全白の呼び掛けに応えるように頷き、ニッコリと微笑む。
「ね?旦那!オレっちの言った通りだったでしょう?」
全白は屈託の無い笑顔でそう言った。
「あぁ…そうだな!立派な心掛けだ♪」
楼琬は優しい瞳でその光景を眺めている。
全白のやっている事は只の人助けでは無い。彼らの未来を繋ぎ、そして紡いでいるのだ。
果たして本人がそこまで判っているのかは、定かでは無かった。けれども彼は言ったでは無いか。
『彼らの職を探してやる…』
楼琬は全白のその心意気に賭けた。そしてそこに希望の光を見た気がしていた。
【次回】[番外編]楼琬の旅路③転機




