[番外編]楼琬の旅路①旅立ち
田単は峠道を爽走と駆け抜ける。視界に入って来る森の景色は、あっという間に置き去りにされ、次々と後方へ飛ぶように消えて行く。
『まるで飛んでいるようだ….』
楼琬はそう想った。天駆ける馬、まさにそんな趣だった。
田単は秦縁から贈られた汗血馬である。汗血馬は一日干里を走るという。
『噂は本当だったんだな…』
彼はいざ乗ってみて初めてその有り難みを知る。その早さはいうに及ばず、疲れ知らずで賢い。乗り心地は最高で主人を労る気持ちに溢れていた。
彼が初めて旅した時には徒歩だったから、ひとりの旅路はやはり心細かった。けれども今回は想わぬ相棒に恵まれて、彼の心はとても落ち着いている。
勿論、その分の手間はかかるが、楼琬は感謝の気持ちを忘れず接した。秦縁の国では、自前で生産した馬に名を付けるのが習わしだという。
楼琬が再び旅に身を投じると決めた門出に贈られたのが、この田単だった。
彼は友に訊ねる。何しろコイツは旅のお伴であると同時に友になる存在だ。
「こいつの名前は何て言うんだい?」
楼琬は目を輝かせた。
汗血馬たちに偉人の名が付けられる伝統は、彼も承知していて期待感が膨らむ。秦縁はその期待に見事に応えた。
「そりゃあ、決まってる!(ღ❛ ⌓ ❛´)田単以外には在るまい♪」
それを聞いた楼琬は嬉しさを滲ませた。田単とは楼琬のご先祖である斉の襄王を助けた将軍の名である。
そして傾国の窮地を救った恩人であった。田単と一緒なら今度の旅路もきっと上手く行く事だろう。
彼は身体の芯から熱いものが込み上げて来るのを感じて、その瞬間に明鏡止水の境地に立つ。もはや畏れるものは無かった。
しばらくは田単との二人三脚の旅が続いた。まず彼が驚いたのは、江陵を離れてしばらく後に、江夏の傍を通り過ぎる頃合いであった。
野は荒れ放題で、全くといってその実りは感じられない。各城の中心地には人の気配は感じるものの、少し離れると閑散とした荒野が続く。
かつては町や村が在ったであろうその面影は僅かに残るが、今や荒れ放題で各建屋には窓も戸も無く、その屋根や庭には風の悪戯で運ばれて来たであろうペンペン草がニョキリと頭を覗かせていた。
『酷いもんだ…』
楼碗は呆然とその景色を眺めながら通過する。本来ならばひと息ついて食を取ったり、茶を飲んだりする予定が大幅に崩れてしまった。
『やれやれ…どうするかな?』
彼は迷う。彼の初めての旅路は大陸の南を目指し、野山を越えて海を臨む事であった。
三国の粉争には縁の無いその辺りは、むしろ人の手の入っていない場所が多く、その代わりとして木々が実り、野草も生えていたから、取り敢えずは食には困らなかった。
水も綺麗なせせらぎの滝や、川を見つけては喉を潤す事も出来た。運が良ければ野生の鳥を射たり、猪や兎を捕えてたらふく食えた。
まぁそんな戦乱とは縁遠い場所だから、時には村が拓けていて、米や野菜と自分の捕えた獣の肉を交換する事も出来たし、村人たちのご好意で食事にもありつけた。
ところがかつては賑わいを見せたであろう中華の中心地は、既にその様相を失い、見るも無様な姿を露呈している。
これだけ荒れてしまっては、人も生きて行けず逃げ出す事だろう。然も在らん。そして口に入れる物が無く、餓死する者や、世を儚み、命を断つ者も居たに違いないのだ。
彼はそのまま通過する事も出来たが、各建屋を廻り、検分する事にした。無論、その初心は忘れていない。
けれども各地の状況を視察する事も大切な事だ。後々それが己の強みになると彼は信じていた。
楼琬はかつては窓だったであろう場所から覗き込み、戸であったであろう場所から中に入った。上を見上げると屋根が無く、陽が直接射し込んで来る建屋も在った。
「あぁ…」
何軒か廻った後に彼はそれを見つけた。
折り重なるようにして白骨化した死体である。おそらくは夫が妻を殺し、後を追ったのだろう。
無理心中の残骸だろうその骸骨は、互いに見つめ合っていて、互いの愛情の行く末が忍ばれた。彼は手を合わせた。
そしてそのままにしておくのは気の毒だと想い、裏の畑だったと想われる場所を掘って、二人を埋葬してやった。
墓標の代わりとして盛った土の上には、傍らにあった手頃な石を置いた。
詳しい事は判らないのだ。だから墓標は立てようが無いし、少し強風が吹けば簡単に吹き飛んでしまうに違いない。
なぜならその地は乾き切っており、土に湿り気を感じなかったのだ。彼はその後も忍耐強く各建屋を廻った。
そして白骨を見つけては埋葬して、手を合わせた。不思議と空腹感や喉の乾きは感じなかった。
否…もしかしたら彼の慟哭がそんな気持ちを感じさせなかっただけかも知れない。一段落すると、彼は田単の背に戻り再び進み始めた。
覚悟をして歩み始めた中華行脚だったが、その矢先から楼琬は挫折感に苛まれた。その心は暗く辛かった。
あの白骨化した人々の、心の叫びが聞こえた気がしていた。けれども彼はふと懐しき友の事を想い出し、前を向いた。
劉禅君ならば彼と同じく死者を弔い、彼らの想いを感じ取り、涙した事だろう。しかしながら、彼はその想いを力に変えた筈である。
二度とこんな不幸な様を放置してはいけないのだ。必ずや民が幸せを感じられる世の中を作らねばならないと想うに違いない。
そしておそらく、若君は今それを実現するために日夜奔走している事だろう。彼はそう想い、諦めなければ必ずそこに光は射すのだと思う事にした。
彼はその後もたくさんの廃村に行き当たったが、手を合わせて通過するに止めた。埋葬してやりたいのは山々だが、彼の務めは各地の亡き骸を埋葬する事では無いのだ。
今後もその生を全うする人々のために、この戦乱を終息に導き、希望のある未来を築いてやりたい。
その心意気で前進あるのみだと、己を奮い立たせた。そうでもしなければ、彼の心は折れてしまったかも知れない。
それだけ中原と呼ばれた地の荒廃振りは酷く、特に地方は放置されるがままと成っていた。
見掛けこそ三国一の国土を誇り、頭ひとつ抜け出した感のある魏国であるが、現状はそうでも無かったのである。
絶え間無く続く人口減に対応するため、その地を放棄して人々を中央に集める施策は、当然の事ながら地方の過疎化を促進させて行く。
その結果として、不毛の地が各地に生まれる原因と成っていたのだ。
その恩恵を受けてと言うと烏滸がましいが、彼の行く手は特に遮られる事も無く、彼は無人の関所を幾つも抜けて、そのまま進み続ける事になる。
けれどもそんな有様だから、人材登用も糞も無いというのが現状だった。
その後、彼はようやくひとりの男の姿を認めた。その男は只ひとり、関所の門の上に立ち、恰腹の良い姿で行ったり来たりしている。謂わゆる歩哨という者だろう。
こちらは大層立派な馬に跨がり、堂々と道の真中をゆったりと歩いている。別に偉そうにしているつもりは無い。
誰も居ないのに遠慮して、道の端を進む者も居まい。只それだけの理由だった。
そしてその先に見える関所は残念ながら閉じており、そのまま突破する事も出来まい。つまりは必然的に彼を説得して通して貰う必要があった。
けれども辺鄙な場所の関である。おそらく誰も通る者など居ないのだろう。
彼はこちらを認めた瞬間にまず目を擦った。これも多分だが、幻を見たと想ったに違いない。そして次に凝視してくる。
それでも楼琬が動じる事なく、どんどんと馬を進めて来るので、彼はとうとう痺れを切らせて声を掛けて来た。
「おぃ!そこのお前!そうそう、お前の事だ。見てみろ?誰も他に居るまい。すぐに止まりなさい!」
歩哨はこちらを指しながらそう叫んだ。
止まるも何も、間も無く門にぶつかるから、言われなくてもそりゃあ止まる。仮に門でも開放してくれるのなら、その限りでも無いが仕方無い。
楼琬は門の前まで来ると、馬に跨がったまま頭上を見上げて声を掛けた。
「やぁ~こんにちは♪人に会ったのは久し振りです。僕は楼琬!旅人です♪スミマセン!通行証は持ってますので、出来ればここを開けてくれませんかね?」
彼は低姿勢でそう頼んだ。
歩哨は座り込み、塀に手を掛けてこちらを覗き込む。どうしてそう判るかというと、塀の上から彼の膝小僧も一緒に覗いているからだ。
彼は納得の入っていない顔で首を傾げている。こんな辺鄙な場所でも関があり、人を配置しているからには、多少の需要はあるのだろう。
けれども彼の懸念を認めるに、どうやら通過する者が決まっているのか、彼はまるで毛色の違う者を見る奇異な目でこちらを見た。
『やれやれ…参ったな!恰好は至極まともだと想うんだけどねぇ…』
楼琬は始めのうちこそ毛皮を身に纏っていたが、いよいよと想い平服に着替えていた。さすがに官服だと、いの一番に見た目で疑われてしまう。
そこで彼はふと気づく。
『あっ!成る程…田単だ♪』
こんな立派な馬に、この平服はそぐわない。彼はそこいらを疑われたと思い込んだ。
けれども違った。歩哨は疑いの眼差しを拭う事無く、語り掛けて来る。
「そうだな…まずその通行証とやらを見せて貰おう!」
彼はそう言った。
楼琬はコクりと頷くと、胸宛の中から若君より拝領した新しい通行証を出し、掲げて見せた。
「これです!」
「ほぉ~それは蜀の物だな!お前さん蜀のお人かね?」
歩哨はすぐに反応した。
「えぇ…成都を旅立ち、大陸の南端の抗州から北上し、荊州を通過して各地を見聞中です。貴国の都、許昌に向かう予定ですが、もう何日もまともな食事も、寝泊まりもしていません。そろそろ屋根のある場所でせめてゆっくり寝たいものです…」
楼琬は素直に苦胸を訴えた。
ところが先方の興味は別のところに在ったらしく、極度の反応を示す。
「ほぉ~お前さん杭州に行った事があるのか!なら南海も通ったよな?よくぞ無事に通過出来たな!」
歩哨はさも驚いたようにそう言った。
「えぇ…彼らなら知ってますよ♪今や良き仲間達です!」
楼琬は愉しそうに南海五人衆との馴れ初めを語った。洪青の名が出た段階で歩哨は楼琬を信用してくれた。
「へぇ~皆、ようやく人を喰らう風習を止めたんだな!人拐いも更生したか…お前さんがそれを止めさせたんだとしたら、大したもんだ!判った♪信用しよう。今、門を開けてやるぜ♪」
歩哨は手の平を返したように、素直に門を開けてくれた。そして楼琬の顔をまじまじと見ると、「すぐに済むから一緒に来てくれ!」と言った。
楼琬は田単を繋ぐと彼の後に続く。彼らは関所の中にある詰所に入った。
「いやぁ~想ったより若いんだな!しかし、兄さんがあいつらを従えたとは大した者だ♪」
歩哨はまだ、まじまじと見つめている。けれどもそれは最早、疑いというよりは感心しきりの眼差しだった。
「従えるなんて…」
烏滸がましいと、楼琬は照れてしまい顔を赤らめる。
「しかし、いったいどうやって判らせたんだ?奴等はそのひとりひとりが一筋縄ではいかない連中だが?」
歩哨は首を傾げた。
「お役人様はどうしてご存知なんです?」
何となく想像は既についているが、楼琬は敢えて訊ねてみた。
「ハハハッ♪お役人様ねぇ~オレっちはそんな柄じゃね~が、もう察しはついてるんだろう?オレッちは元々南海の出身だが、訳あってここまで逃げて来たのよ!ここで再出発って訳さ♪呆士貴の率る食人族の連中は、たらふく食うために、オレっちのような大柄で太ったのがお気に入りでな、日頃から付け狙われて居たって訳だ。洪青の奴は謂わば子供の頃からの腐れ縁でね、その縁で逃がしてくれたのさ♪奴の兄に洪赤という立派な男がいる。洪赤は商人だが腕も良く、清廉な男よ!そいつが魏に伝があって、顔が効くらしいと聞いて訪ねたって訳さ♪洪青は紹介状を書いてくれたが、名を出したら必要なかった。兄貴の方もこのオレっちを覚えていた。訳を話したら、この仕事をくれたって次第さ!時にお前さん、奴等をどうやって懐柔した?気になるから早く教えろよ!」
名無しの権兵衛さんは、未だ名乗らない。それでも自分の興味には正直で、貪欲だった。
楼琬は確信した。確かにこいつはあの南海の住人である。
「アハハハッ…」
彼は自嘲気味に笑った後に呟く。
「殴りました…」
「何だって?」
歩哨はよく聞き取れないのか、耳に手を当てて聞き直した。
楼碗は仕方無く、今度は少し強調して諭すように答えた。
「単純です!おひとり様ずつ捕まえて、タコ殴りにしました。彼らは理屈じゃあ無いんです!強い者の言葉しか身に沁みません。ゆえに離間の策を用いて分断させて、ひとりずつその身体に、この僕の恐ろしさを植えつけました。でもそれまではこちらが被害を受けてたんだから、お相子でしょう♪後は話し合いです!彼らに道徳を説くのには、大変苦労させられましたが、あの手合いは強者の論理には従います。あんたが大将って事に成れば、大人しく服従してくれましたよ!やり方は少々後髮を引かれる想いですが、必ず代替案を出してやり、その都度、直向きに道をキチンと示してやったら、鵜呑みにせずに理解してくれましたよ♪意外と素直で頭も回る。癖をつけるのに苦労させられましたが、一端、改善されれば早かったですかね?」
楼琬は飄々とそう答えた。
歩哨はタコ殴りにした段では、唖然とした顔で彼を眺めた。こんな可愛らしい顔をした若者がと、二の句が継げない。しかしながら、言っている事は正しいと感じた。
まず突破口は彼らを倒し、服従させる事。要は自分より強く、とても敵わないと思い知らせ、その心を折るしかない。
それは彼も試みた事だったので、すぐにその手法には賛同したが、それと同時に生半可な事では無理だとも承知していた。
それをこんな可愛らしい若者がと、益々彼はまじまじと見つめた。泣きながら相手をタコ殴りにする男、それが楼琬の真骨頂だとはまだ彼も理解していなかった。
「ほぉ~そらぁ凄いですな♪このオレッちでも敵わず逃げ出したのに!まぁでも信じますよ♪あんたが五体満足で今ここに居る事が、何よりの証です!奴等は外から来た人間には容赦が無い。中に居たオレっちが、その辺りは身に沁みてますからな♪」
歩哨はそう言って笑った。そしてようやく気がついたらしく、その名を告げた。
「オレっちは全白です!宜しゅう♪あんたは楼琬殿でしたな?これでもオレっちは、記憶は良い方でね!」
聞いてないのに全白は饒舌である。
そして一旦、打ち解けるとペラペラとよく喋る。これも南海の住人特有の人懐っこさであった。楼琬は笑った。
「南海の人たちって解り合うと早いですね♪まるで疑いを持たない…」
「よくお解りで♪その一言であんたの言葉に嘘が無いのが判ります!オレらがそこまでするんは、相手を心の底から認めた証です。何でもしてあげたいと、想える相手にしか心は開かない。それがオレら南海人の特長ですかな?」
全白はそう同意した。
こうして話しが一段落すると、楼琬は改めて通行証を求められた。
「これも仕事なんで勘弁して下され♪」
全白はそう言って、すまなそうに頭を掻く。
「勿論♪貴方に迷惑は掛けられませんから!どうぞ♪」
そう言われて差し出された通行証を受け取ると、彼は受理した日付と相手の氏名と身許を記入した。
「これであんたの通行を許可します!そりゃあそうと、今夜寝泊まりするところが無きゃあ、うちに来ませんか?」
全白は気さくにそう申し出る。
「まぁ大したもてなしも出来ませんが、雨風は凌げるし、かかあに何か作らせますよ♪」
彼はカッカッカと親しみのある笑みを浮かべた。
楼琬にとっても渡りに舟である。温かい食べ物も口に入るし、何よりまともに横になって寝むれる。
彼は二つ返事でその気遣いに乗ろうとして、ふと考えた。全白は歩哨だから、すぐに動けるとは限らない。たとえ道を教わったとしても、ひとりで女所帯に踏み込むのは気が引けた。
全白も楼琬がキョトンとしているので、何か感ずるものがあったらしい。ポンと手を叩いてほくそ笑んだ。
楼琬はドキリとした。まるで自分の頭の中を覗かれた気がしたのだ。謂わゆる顔に出るというやつである。そしてそれは当たった。
「ハハァ…判りましたぞ!純な事ですな♪でもご安心下され!オレっちのかかあはしっかりした女です。それにね、オレっちはちょっとした宿も営んでましてね!昔取った杵柄って奴です♪」
全白はそこで何かを想い浮かべた様に、ケラケラと笑った。楼琬はその瞬間にピンときて想わず手が出た。
不意打ちを食らった全白は避け切れず、まともに顔面を殴打したので、そのまま倒れ込む。こうして旅は波乱の幕明けとなったのだ。
【次回】[番外編]楼琬の旅路②誤解




