幸せの形
さて凪である。彼女はここ江陵に戻って来て懐かしさが込み上げる。彼女は伊籍とは元々面識があったので、すぐに馴染んだ。
災害のため江陵城に身を寄せた時に、城内の国庫を開いて米を支給してくれた優しいお爺ちゃん、それが伊籍の印象を良くした。
本当は当時江陵を既に預かっていた若君の指示に基づくものだったのだが、あどけない年頃だった彼女がそんな事を知ろう筈も無い。
そしてこの頃はまだ若君の事をお医者様だと信じていた彼女にとって、それは想像もつかない事だったのである。
「その節は有り難う御座いました♪(*^-゜*)⁾⁾」
それが凪の第一声だった。
すると伊籍は何の事かと問い掛け、それが災害時の施しによるものだと知ると、すぐに頭を振った。
「お嬢さん、それは儂の行いでは無い。全ては当時丞相代理であった若君の指示じゃ♪儂はその指示に従ったまでの事!( =^ω^)感謝される覚えは無いな♪」
そう言って、「コッコッコ♪」と笑った。
「それでも良いのです。当時の私は貴方の笑顔に助けられました。恐ろしい津波に飲まれていく大地を目の当たりにした少女が、その恐怖を忘れるのに、どんなにかその笑顔が救いになった事でしょうか?人はけして強い生き物ではありません。人は恐怖から逃がれるためには必死になります。その歪んだ顔は何とも言えない苦しさと、おぞましさを感じさせます。そんな心境の中で、心から笑える人など居ません。✧(*,,ÒㅅÓ,,)✧でも貴方はそんな気持ちになっていた私達に、再び笑い合える喜びを与えて下さったのです!そこに感謝以外の何が在りましょうか?」
凪がそう言うと、伊籍はようやく頷いた。
「そうで御座ったか?ならば貴女の感謝を儂も素直にお受け致そう♪どうやらこの儂の笑顔も伊達では無かったようですのぅ~ꉂꉂ(^ω^=)人を幸せにするために貢献出来たなら、この儂もこの年まで生きて来た甲斐があったというもんですわい♪お嬢さん、それを教えてくれた貴女にも感謝ですな!有り難う♪」
彼はそう言って再び「コッコッコ♪」と笑った。それはかつての優しい微笑だったのである。
こうしてすぐに判り合えた二人がその結論に達するのは早かった。伊籍は訊ねた。
「貴女は翼徳殿の御息女だと聞いた。儂は彼とは付き合いが長い。✧(*ºω º *=)その人と形も存じておる。きゃつはすぐ怒鳴るし乱暴者だし大酒飲みだ!こうして口に出すとまるで善い所が無いのぅ~♪愉快愉快!だが一度戦場に立てば、あの男ほど頼りに成る男も居るまい。まぁ雲長殿を除けばだが…」
伊籍はそう言いながらチラリチラリと凪を眺める。まるで彼女の反応を窺う様なその仕草は当の凪にも感じられた。
『試されている…(٥^-゜٥)』
彼女は想った。そんな凪の心を知ってか知らずかは判らぬが、伊籍は滔々と話し続ける。
「…(=* ºω º*)✧ そんな奴にも大事にしているものが二つ在る。それは何だと想うかね?」
伊籍はようやくそう訊ねた。凪は即答した。
「それは陛下と大将軍の事でしょう?私も幼き頃より、玄徳様と雲長様は父の義兄弟であると聞かされて育ちました!生まれた時は違えども同年同月同日に死せん…(◍˃ᗜ˂◍)ノ⁾⁾ そう聞いております♪」
伊籍はその言葉を聞いて感心する様に凪を褒めた。けれどもその答えについては否定した。
「ホォ~お嬢さんは感心だな♪そんな事まで知っとるのかね!ꉂꉂ(*ºω º *=)その通りじゃ♪だがその回答は違っておるのぅ~残念だかな!」
「えっ!(*´・д・)違うのですか?」
凪は驚きを隠さずに聞き返す。伊籍は落ち着き祓ってそれに答える。
「うむ!違うのぅ~♪」
「ではいったい本当の答えは何です?」
凪は食い付く。すると伊籍は然も愉快そうにそれに応えた。
「それはのぅ~お前さんじゃ♪」
「私…ですか?」
凪は些か驚いた様に伊籍を見つめた。伊籍はフフンと鼻白んで先を続けた。
「まぁ何だ!性格に言えば少し異なる。翼徳の大切な物とは丈八蛇矛と家族の二つだという事じゃな♪蛇矛は義兄の陛下や雲長殿を守り、共に漢を再興するための誓いの一品。そして奥方様と貴女たち娘の事を彼は自分の宝だと思っておるのじゃ♡だからお前さんもそのひとり!大切に想われておる事に成るのだな♪」
伊籍はそう言って笑った。
蛇矛と言えば張飛の代名詞である。三国志を語る上で一度はその武器の名を耳にするといっても過言では無い。
他にも関羽ならば青龍偃月刀、呂布の方天画戟、趙雲の青紅剣などが有名である。
皆それぞれに自分の武器には愛着があって様々なエピソードが語られている程なので、張飛がそう想っていたとしても不思議は無い。
まぁ義兄弟と大義、そして家族想いも加われば、些か欲を掻く様にも想えるが、本人にしてみれば余計なお世話なのである。
「そうですか!父がそんな事を…」
凪は伊籍の言葉を受けてそう呟く。
好き放題、勝手し放題の乱暴者という印象の強かった父親像が凪の中で少しずつ氷解しつつあった。
「伊籍様♪ もし宜しければ、父の事をもう少しお聞かせ頂けませんか?私の知らない父の側面を知りたいのです♪」
凪はそうせがんだ。
すると伊籍は「コッコッコ♪」と笑いながら答える。
「儂の記憶の範囲で良ければ喜んでお教え致そう♪」
彼は凪を見つめながら優しく頷き、承諾した。
「そう…あれは奥方がお嬢さんを身籠った時の事でしたなぁ…」
伊籍は想い出すように語り始めた。凪も腰を据えて耳を傾けた。
「おい!皆、喜んでくれ♪儂の夏候が身籠ったぞ!」
張飛は気色悪い程、満面の笑みを浮かべて叫んだ。そして奥方を抱き上げると優しく頬擦りする。
そして目に涙を浮かべながら、繰り返し何度も何度も「良くやった♪」と声を掛けた。夏候も夫のその言葉に笑みを浮かべた。
年の離れた夫であり、無理矢理強奪されて来た娘は、当初は毎日泣き崩れていたが、帰れない事が判り、彼女の気を惹こうとあらゆる努力を惜しまない張飛の姿勢にほだされ、時間と共に打ち解けた。
そしてようやく二人の間に授かった子だったので喜びもひとしおだったのである。
その日を境に張飛は奥方の精をつけようと、毎日のように元気の出そうな食べ物を運んで来た。それはまるで雛に餌を運ぶ母鳥のようだった。
「夏侯、鮒を釣って来たぞ♪たんと食べよ!」
「夏侯、今日は猪肉だ♪きっと元気な子になるぞ!」
「夏侯、今日は熊肉だぞ♪元気な子を産めよ!」
張飛の喜びようは、またたく間に城内の民の噂に上がる程であった。
夏候も日に日に大きくなるお腹に、ひとりでは起き上がれなくなると、旦那様のお世話が出来なくなると困り果てた。
それでも張飛は奥方に寄り添い諭した。
「なぁに!儂は生まれたその日から裸一貫で生きて来たのよ♪そんな事は屁でも無いわっ!お前の気持ちは嬉しいが、子が産まれてからでも出来る事だ。今は無事に産む事だけを考えよ♪どんどん頼れ!儂が望みを叶えるぞ♪」
張飛はなるべく奥方に負担をかけぬように、 言われた事は何でもしたし、言われなくても無い知恵を絞って懸命に努力したから、その想いは夏候にも十分に伝わる。
彼女は涙を浮かべながら、夫の気配りに感謝したのである。そしてこの時に全てを許したと謂えるのかも知れない。
勿論、郷里を遠く離れ郷愁の念に駈られる事も在るが、彼女はなるべくそうした淋しさを表情に出さぬように、泣きたい時には独りで隠れて泣く事にした。
夫の本来持つ優しさが判った限りは、その純粋な心を傷付けまいとしたのである。そうして両親の愛に育まれながら、産まれたのが二人の長女・凪であった。
けれども無事に産まれるまでにはもうひと波乱あったのである。凪は女の子にしては大きな赤子で難産となった。
余りにもお腹の中で暴れるものだから、当初は男児誕生かと誤解した程であった。これには産婆さんも泡を食った。
「息んで下さい!」
その掛け声に合わせて息むのだが、なかなか出て来ない。終いには夏候自身が苦しみ出す始末だったので、張飛も頭を抱えた。
彼は悠長に待ってなど居られないと、当時は禁忌だった男子禁制の産所に駆け込み、夏候の手を強く握って励ました。
「夏候!頼む♪お前とこの儂の絆が母様、父様と会いたいと言うておるのだ!だから頑張ってくれ♪この儂もここに居る。一緒に見届けようぞ!」
張飛のその鼓舞は、幸いな事に夏候にも伝わった。さすがは曹操を始め、夏候惇や夏候淵を輩出した一族の血脈である。
夏候も丈夫な身体と忍耐力を持っていたので、この張飛の鼓舞は彼女自身をも覚醒させた。夏候は辛抱強く息み、遂にはその大切な役割を果たす事に成ったのである。
産まれて来た子は丈夫そのものであり、文字通り玉のような女の子であった。
「夏候、ようやった!ようやったぞ♪有り難う!有り難うな♪」
張飛は小踊りして喜び、夏候の両頬を両手で支えると泣きながら頬擦りした。夏候はそんな喜ぶ夫の頬に軽く口づけをした。
張飛は「ニッシッシ♪」と少し照れた後に、夏候に熱い接吻を返した。熱い抱擁を交わした二人は、絹に包まれた赤子を挟んで再び抱擁を交わす。
嬉し涙に濡れる両親の間で赤子は元気一杯に「オギャーオギャー」と高らかに泣いた。それは父親譲りの咆哮にも想えたのである。
凪が産まれてからは張飛は益々張り切った。そして家族を想う気持ちがこんなにも素敵な気分である事を知り、夏候への愛情もより深まった。
夏候も夫の一連の姿勢に感じ入り、その愛を夫に捧げた。互いが互いを想い合う事がこんなにも自然な事だと教えてくれたのは、二人の愛の結晶である凪の存在だった。
夏候は凪を溺愛し、片時も離さずに自分で育てた。勿論、彼女には善き下女が居たので、一緒に親身になってくれたから、凪はスクスクと育つ。
彼女が三歳を迎えた頃に一度、劉禅君は凪を抱いてその小さな手を握った事がある。
そしてやがて戦乱に巻き込まれた彼らは、同族である劉琦の待つ江夏を目指して逃避行する破目に陥るのである。凪が母の手を離れたのはその時が最初であり、最後となった。
凪は戦の混乱から母とも父とも離れ離れに成る。張飛は長板橋に只一人立ちはだかって、曹操を一時的に撤退に追い込み、夏候は張飛の副官に護られながら、命からがら江夏に逃げ込む。
凪は夏候の信頼する下女に守られながら、民の間に紛れ込む事でその身を救われる事となったのだ。
夏候は半狂乱となって、兄や叔父を呪った。彼らが小沛に襲い掛かって来なければ、親子が離れ離れになる事も無かったと鬼女と化した。
彼女は日夜荒れに荒れた。目を離すと自傷しかねない勢いだったので、張飛も目を離す事が出来なかった。
彼はしばらく夏候に寄り添い、羽交い締めにするくらいの力で、夏候を包み込んだ。彼女はそんな夫にも矛先を向けた。
「あんた!何してんのよ!!早く凪を探してよ!いい加減にして!!」
そう叫んではまた荒れた。
張飛も一刻も早く探しに行きたかった。彼の心は足を生やしては、何度も焦りを伴って駆け巡る。
けれども今、目を離した隙に夏候まで失う破目になってはと想う余り、その決断は鈍くなった。
勿論、張飛の部下達も、関羽や馬良でさえも防衛の合間を縫っては凪を探し続けた。しかしながら、その努力が報れる事は無かったのである。
何しろ凪は下女に連れられて曹操に占領された小沛のお膝下から全く抜け出せていなかったのだから、仕方無かった。
可愛らしいおべべを着せられた幼子を長駆連れ歩く事は難しい。下女の勇気ある決断だった。
彼女は敢えて危険を冒して、小沛効外に在る実家に凪を連れて戻り、またたく間に衣装をボロに交換した。そして顔に炭を塗り、見事に民の中に紛れ込ませた。
おべべは家探しを受けると自分も家族も命は無い。だから彼女は経験を逆手に取り、曹軍の奥方の下女に紛れ込むと、城内にある高貴な佇まいの建物の柱の根元に埋めた。
後日、それしか凪の身元を証明する物が無かったからである。そして細々と警戒の中をやり過ごして来たのだ。
やがて魏軍と呉軍が争い合うようになると、そのどさくさに粉れて、江陵付近に流れ住んだのである。
けれどもその時には、既に張飛も夏候も劉備の成都攻略のために同行して去った後だったから、再会は叶わなかった。
下女は長年の心労のために身体が弱わり、動けなくなると、その娘がその意志を引き継いだという訳である。
関羽に接触を果たした後の事は、既に承知の通りだった。こうして凪は命を拾った事になる。
「あれれ?伊籍様は何故そんなにも見て来たようにお判りなんです…」
凪は不思議そうにそう訊ねた。すると伊籍はほくそ笑みながらも教えてくれる。
「そりゃあお嬢さん、この儂が長年陛下とその陛下に荊州を託された関羽様に誠心誠意付き従い、努めて来たからじゃろうな!儂は爺じゃが、目も耳も鼻も利く。この荊州でこの儂に内緒で事を運ぼうとしても無理じゃな♪」
伊籍はそう宣う。
聞ていた凪は感心したように尊敬の眼差しで伊籍を見つめた。すると伊籍は「コッコッコ♪」と笑って「冗談じゃ♪」と言った。
凪はずっこけた。するとまたまた伊籍は 「コッコッコ♪」と笑った。
「まぁ貴女が居なくなった後の事は、関羽様から聞くまで、この儂も知らなんだ。この機会にお伝えしとこうと想い立ち、蛇足を付け足しただけじゃ!まぁ謂わばこの儂の思いやりの心じゃな♪じゃが、奥方が半狂乱になる程、貴女を心配し、愛していたのは事実じゃ!そしてそれは貴方の父親にも言える事じゃな♪」
伊籍はそう言って締め括った。
凪は蟠りが 少しずつまた氷解して行くのを肌身に感じた。母として育て守ってくれた下女の愛、そしてそれを引き継いでくれたその娘。
そして若君との出会いと再会。止めは伊籍の言葉。このどれが欠けても彼女は事実を受け入れ、信じる事は出来なかっただろう。
けれども今なら判る、実の父と母の愛である。凪はこの瞬間に、その事実ときちんと向き合う覚悟を決めた。
「伊籍様、有り難う御座いました。私はもう逃げません。父にも母にもちゃんと向き合うと約束します。その手始めとして、陰ながら色々と骨を折って下さった関羽様にお礼が言いたい。でもその前に黙って飛び出して来てしまった義姉に謝らなければ…これから戻って来たいのです!それをお許し頂けますか?」
そう凪は乞うた。
すると再び伊籍は「コッコッコ♪」と笑って、面白そうにこう告げた。
「否…それには及ばんよ♪彼女なら既に関羽様が保護している!だから心配には及ばぬと言った。今からでも逢うかね?それとも呼んで来てやろうか!」
この伊籍の言葉に、凪の頬には涙がツーっと伝わって来た。凪は只一言、「感謝します♪」と言った。
【次回】覚悟




