狼煙台
「今日は一旦、碁は置いておき、遠乗りに出掛けましょう♪」
関羽将軍は既にその気だった様で、馬の準備もさせている。用意周到とはこの事である。どうにも反論する余地は無さそうだった。
北斗ちゃんもここの所、医療現場と碁の相手だけで、後は費禕の学問と費観との剣術に明け暮れていたので、気分転換には以てこいだと想い、二つ返事で承諾した。
馬は六頭用意されていて、六人はさっそく騎乗して出発する。先頭を行くのは無論、関羽将軍と北斗ちゃんである。真中に関平と費禕が入り、後から背後を守るのは、費観と周倉という男であった。
北斗ちゃんが彼を認識するのは、これが初めてである。この男は体躯に優れており、胸板の厚さが尋常では無い。
そして特徴的なのはその髪で、遠目から見ると、一見ボサボサに見えなくも無いが、髪が全体的に渦巻き状になっており、チリチリしていて、現代風に言う所のドレッドヘアーが最も酷似しているだろう。
『( -_・)生粋の漢人では無いかも知れない…』
北斗ちゃんの印象はそこにあった。元々、劉家は中華でも南に位置する楚人である。
『( -_・)張飛将軍に近いかも知れないな…』
張飛は燕人と呼ばれるだけあり、北方にその出自を持つ人であった。
北斗ちゃんが興味深そうに時折、チラッチラッと周倉を見つめているので、さすがの関羽もそれに気がついたらしい。
「ああ…御紹介がまだでしたな!こいつは儂の片腕の周倉という男です。将軍ですが、日頃は鍛治を趣味としており、戦時以外は刀や農耕用の鍬や鋤を造っており、城内には寄り着きません…」
「( -_・)あぁ…それで見掛けなかったのか…」
北斗ちゃんは納得した様に頷く。
「こいつは涼州出身ですからな…あそこは中華でも西域に近く、北は遊牧民も多数住んでいます。その髪型は彼の部族の伝統的なものでして、なかなか洒落ているでしょう?こいつの膂力は半端ないですからな…あの鉞も自作です。奴があれを振り降ろしたら、相手の胴が真っ二つに成るでしょうな…」
関羽将軍は恐ろしい事を然も当然の如くにサラッと言ってのけた。
『(;-_・)人の身体が真っ二つとは驚いたな…』
まさに即死である。
『(;-_・)そんな事には成りたくないものだ…』
北斗ちゃんは聞いていてゾクゾクしてしまった。けれども普段の彼は、けして恐しげには見えない。確かにその身体からして大きいから、注意は引くが、その表情そのものは、割とのんびりと構えてのびのびしていた。
関羽の紹介を受けた周倉はニコリと微笑んだ。
彼らは長江に沿い、ゆったりとしたストロークで馬を走らせる。するとやがて見張り台の様な物が河岸に姿を現わす。
「( -_・)…あれは何です?」
北斗ちゃんは想わず尋ねる。すると、関羽に替わって関平が説明してくれた。
「あぁ…若、あれは狼煙台です。あれと同じ物がこの河沿いに何十ヶ所も設置されています。これは父が馬良殿の提案を取り入れて築かせた物で、呉との国境近くまで続いています…」
「( -_・)ホォ…」
ここで三國が形成されつつ在った過渡期の流れを少し説明して置きたいと思う。
劉備陣営は呉と協力して『赤壁の戦い』に勝利して後に、荊州を一時的に放棄せざるを得なかった魏軍から、荊州の南半分を奪い取っていた。それまでは地盤という程の本拠地を持たなかった劉備にとっては、それは大きな収穫であった。
ところが、あろう事か呉の孫権は、荊州を明け渡す様に迫って来たのである。
劉備が荊州を奪守するのに当たって、呉から兵を借りた事。劉備だけでなく、呉の周瑜らも兵を出して協力した上で得た土地である事。
そしてその最大の理由としては、元々劉表の治めていた荊州の南四郡は、そのルーツを辿れば彼らの夫祖の地だったからである。
董卓打倒のために諸侯が立ち上がる前、孫権の父・孫堅が地盤としていた故郷であったのだ。言わばここ荊州は、呉の孫権にとっては永年に渡って失地回復を願っていた土地であり、それを悲願としていた。
しかもこの荊州を奪い返すために、先代の兄・孫策は毒矢に当たって、それが遠因となって亡くなっている。この二代に渡る執念は尋常ではなかった。
しかしながら、片やの劉備側はそう見ていない。彼は漢の末裔という高貴な血筋に身を置きながら、そのスタートは必ずしも良い訳では無く、一介の貧しい庶民に過ぎなかった。
彼が運良く、義友軍を立ち上げた時には、既に彼らや他の諸候達とは、十歩も百歩も遅れを取っていたのである。
そしてその頃の劉備には、残念ながら将来の絵図を描ける軍略に長けた者が配下に居なかった。開羽や張飛、趙雲といった腕に覚えのある者は居ても、彼らに的確な指示が出せる者が欠けていれば、これぞ正に宝の持ち腐れであり、絵に描いた餅である。
せっかく徐州牧に出世したのに曹操に追われ、荊州を得るチャンスも一度は逃がしている。ようやく得た諸葛亮という稀代の軍略家のお陰で、空屋同然の荊州を得たのである。
それをどんな理由があるにしろ、返還要求を突き付けて来るなど、彼からしてみればとんでもない事である。
『今度こそ、手離すものか!』
彼はそういう気概に溢れていたのである。
そして、『赤壁の戦い』に破れるまでは、中華統一を夢見て、順風満帆だった魏にも、荊州は我が占領地との認識はあっただろうし、魏の場合は劉表の息子から荊州の地を継承したという、大義名分もあるから、三国それぞれにその主権を主張する事情があったのである。
今、荊州が三つ巴の争乱の地と成っているのには、そういう背景があった。劉備は諸葛亮の知恵を借りて、まず手始めに『蜀を取ったら荊州をお返しします…』という言い訳をした。
この時の呉の外交窓口は魯粛であった。魯粛は元々大商人であり、呉の地の顔役であったから、物事を荒立てずに、利に叶う考え方を採用した。劉備の主張を認め、主君の孫権を宥めたのである。
「この際、貸しを作っておこう!」という訳であった。
ところがどっこい!劉備や諸葛亮はそんなに甘くは無かった。蜀を手に入れた後もその都度、御託を並べては返還しない。今度は「涼州を手に入れたら…」とまたまた条件を覆すものだから、魯粛は面目を潰されて怒り、孫権も「この虎狼の輩が!!」と大激怒した。
けっきょく孫劉同盟は破綻して、南郡の一部を実力行使で攻め取られて、今は江陵を拠点に、南郡の一部と公安の三ヶ所を辛うじて押さえているというのが現状である。
呉もその間に魯粛が病で亡くなり、その後任である呂蒙という文武に秀でた男が、虎視眈々とこの荊州を窮っているという状況であった。もはや、「狼が来たぁ~♪」と何度も相手を騙して時間稼ぎの様な事をしている劉備の信用は地に堕ちている。
それでもその荊州には、関羽という畏怖の存在がドーンと居座っているので、そう簡単には手が出せないという、非常に歯痒さが残るだけの状態に為っていた。
魏も樊城に曹仁と龐徳を駐留させて、あわよくば奪還の機会を狙っている。この状況の中で関羽が魏に揺さ振りを掛けているのが、どんなに危険を意味するかは、これでお判りになるに違いない。
今、この危いバランスをギリギリの線で保っているこの荊州に、下手に柄杓の水を例え一滴でも垂らそうものなら、緊張感が一気に高まっても仕方無いのだ。
それが今、この荊州の偽らざる現状であると言えるだろう。
『( -_・)…見張り台を設置しているとはな…馬良殿の懸念も判る気がする!将軍も打てる手はしっかりと打っているという所なのだろう…』
関羽将軍の治政は、この荊州で行き届いているようだ。北斗ちゃんは、華侘先生の手伝いをする中で、民の気持ちが関羽将軍を支持している事を痛感していた。それだけ関羽が善政を敷いている証明である。民のロ々に語る言葉に嘘はあるまい。
彼らは馬を飛ばして先を急ぐ。長江沿いに築かれた狼煙台は、見張らしも良く考慮されており、河の蛇行に従って、築く位置にも工夫が凝らされていた。
敵の急襲に備えたこの狼煙台は、リレー形式で危急を伝えてくれるに違いない。但し、これだけ便利に見える連絡手段も、結局の所、扱うのは人である。
つまりはその非常手段にも、人的要素が係わる限り、そこに携わる人達が責任を果す事が出来なければ、意味を成さない。ひつこい様だが、絵に描いた餅と成る。
『(; -_・)数の配置や兵の習熟度は大丈夫なのだろうか…』
すると丁度良いタイミングで関羽が諭す。
「呉がその気になれば、潰す事は可能だろうが、一つ二つ潰しても無駄な事だ!それでは伝達が来るだろうからな…やる気ならば全て同時にやらねば難しかろう…若、どうです?馬良はさすがにこの荊州を熟知しておるでしょう…この方策なら、人手を極端に減らせますからな…( *´艸`)♪」
関羽はそれ以上は語る事を避けたが、このシステムに絶対的な自信を持っている事は確かな様だった。
『( -_・)果たしてそうかな…関羽将軍は相手がそこに存在すれば抗う策を必ず練って来るとは考えないのだろうか?もし仮にそうならば、相手の力量そのものを軽んじて無いだろうか…確かに便利な物を手に入れる事は良い事だし、助かるが、それに頼る(依存する)余り、本来的に必要な危機的意識(恐れ)や緊張感(揺る気無い心)が欠如しては全く意味が無い…』
『…そして便利な物も所詮、物は物である。物は人が扱わないと動かないし、使い方を誤ると、薬、転じて毒にも成り兼ないのだ。それを承知の上で、仮に事が破れた場合の想定もして置かねば成らないと思うがね…』
『…相手がそこまで踏み込める男か否か、そこを正しく見極めて置かねば、手痛いしっぺ返しを喰らう事になるかも知れない。そうだ!この際、敵の事も良く知らねば成るまいな…』
北斗ちゃんはそう感じていた。
『( -_・)敵を知り、己を知れば百戦危うからず…か!孫子は良い事を言う。この孫子の兵法が、呉の孫権の御先祖様が書かれた物だとは不思議な縁だ…』
『…そう言えば先般、心を攻むるを上と為し、兵を攻むるを下と為すと学んだばかりであったな!孫子の子孫に連なる者達なら使って来そうな策だな♪つまりは、相手を油断させる手か…』
『…現在、呉の対蜀軍事長官は呂蒙という人らしいが、その呂蒙の変わりに無名の新人君でも挨拶に来たら、その時は非常事態と見て良いかも知れん…』
『…関羽将軍は確かに敵にすれば、恐ろしい程の強敵だが、張り合いの無い相手や、自分を縁下る相手には、存外舐めて掛かる嫌いがある…』
『…爺の弱点とはそんな細やかな物だが、心を攻むる孫子の子孫が相手では歩が悪そうだな…ここは僕がその弱点を予め補わねば成らんだろう♪物の次いでだ!魏の曹仁や龐徳…そしてそれらを補佐する軍師の存在も調べて置かねばな…』
北斗ちゃんはそう感じていた。関羽将軍の用心深さには敬意を表したものの、その存在その物が仇に成らねば良いが…と彼は懸念していた。
『この遠乗りは来て正解だった…』
彼は素直にそう感じずには要られなかった。関羽将軍は気晴らしに成ると考えて、恐らくは連れ出してくれたのだろうが、この機会がこの先の展開を左右する事に成ろうとは、この時まだ誰も考えてすら居なかったのである。
その機会を真摯に受け止めるかどうかは、その人の考え方次第なのである。独り強がりの満足は慢心に他、成らない。相手も自分と同じ様に手をこまねいている訳ではない。
同じ機会を捉えて、打開策を見いだす努力をしている事は間違い無かろう。その境地に辿り着き、相手を上回る事が出来た時に、初めて勝利の女神はその頭上に微笑むのだから。