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蟷螂の斧

【前書き】


蟷螂(とうろう)(おの)


中国・春秋時代の故事。

馬車の前に立ちはだかり、前足を上げてその鎌で威嚇し、大きな車を停めようとする蟷螂(カマキリ)の様から来ている。


弱小のものが、自分の力量も(わきま)えず、強敵に立ち向かう事の喩え。

今度は仰天したのは徐庶だったのは言うまでもない。彼は隆中の草壚(そうろ)で隠棲していたのであるから、折りに触れて風の便りや噂話に接する事はあっても、その核心に触れる機会は無かったのだから、仕方無かった。


けれども孔明から弟・諸葛均に宛てた文の中で、"荊州に太子様を送ったので、そろそろ草壚を出て若君にお仕えせよ!"という内容の把握はしていた。


そしてその文と前後するように次から次へと孔明の弟子と想われる若者たちが荊州に送られて来ており、太子の身を憂う孔明なりの真心だと捉えていた。


その中でも、民に人気があり、次々に手柄を挙げる董斗星の名は抜きん出ており、評判が良かった。


ところがこの男、まるで生身の人らしくない。人外の者のようにそれこそあちらこちらに突然に出没しては、超人的な才能を発揮する。


にも拘わらず、その姿を見た者の数は少なく、果たして本当に見たのかさえ怪しいものがあった。始めは、想像上の人物で、馬良あたりが造り上げた新たな偶像だと想ったくらいである。


けれども漢江の氾濫は実際に起きた事実であり、多くの民が救われたのも本当の事だ。これは被災後に避難して来た数々の民の証言があるから動かしようのない真実である。


そして曹仁や満寵と渡り合った話しは、ごく最近、お忍びでフラリと出掛けた江夏(こうか)の市で知り得た情報であった。この人、ボロ服に編み笠という出で立ちであちらこちらに出掛けてしまう強者である。


恐れ知らずとは正にこの人の事を言うのだろう。当初はひとりで抜け出るのでハラハラドキドキした諸葛均も次第に慣れて来て、ごく最近は似た恰好で編み笠を被り、一緒に出掛ける始末であった。


江夏の市には彼も行っていたので、その話しは知っていた。弟子であるから師に(なら)い、同じ恰好をするのだと徐庶は想っていたが、それは大いなる誤解である。


諸葛均は仮に身許が発覚した場合でも、自分が影武者に成り得るかも知れぬと踏んでの行動であったのだ。関羽がいみじくも述べた肝が太いという評価は(あなが)ち間違っていなかったと言うべきだろう。


いずれにしても市に立ち寄った徐庶は、目的であった新しい白扇とその噂話に悦に入っていたのだった。彼は董允という人物の事は知っていたものの、その家系図までは知る由も無い。


蜀の重臣の孫にそんな外交力に長じた人物が居たのかと、驚きと共に受け入れたのであった。




曹仁側が太子と折衝した事実を直隠(ひたかく)しにしたのは、外聞の悪さもあるだろうが、決定が覆える事を恐れた為の忖度(そんたく)だったかも知れない。


曹操孟徳という人はこの人も余人が代われぬ天賦の才であるが、配下の話しに熱心に耳を傾ける。しかしながら、それはあくまでも自分が既に考えている事に対する裏付けが欲しい場合の方が多い。


時に考えを(ひるがえ)す場合には、余程の利鞘が無ければ、その食指を動かす事は無かったのである。


だからこそ、その人と形を知る魏軍NO.2としては、あくまでも丞相代理である董斗星と取引したのだと公には表明する運びとなったのであった。


案の上、曹操はその者が欲しいと彼に持ちかけて来た。その瞬間、曹仁は調印された文書を差し出し、最後の署名と応印を見るように(うなが)した。


そして、公には"今のままで済ますべきです"と進言した。曹操は従兄弟(いとこ)で信頼の厚い曹仁の言葉であるから、すぐに証書を確かめる。その刹那(せつな)、まるで幽霊でも見たような呆けた顔をこちらに向けた。


「Σ(๑°⌓°๑٥)これは(まこと)なのか?」


「えぇ…(٥ ー̀дー́ )੭⁾⁾真です!実際に私は膝詰め談判に及んだのです♪面と向かって心行くまで話し合いました。その結果、あの太子は噂通りのボンクラでは無く、どちらかというとその真逆に位置すると言った方が正解です!まだまだ若いですが、けして侮る事は出来ないでしょう♪」


曹仁は個人的にはとても感銘を受けていたから、魏国の太子が彼の様な人であればどんなに素晴らしい事かと想っていた。


けれども自国の太子の親に向かって、堂々と述べる事では無いし、曹丕は自分の甥っ子でも在る。それに曹操の性格については嫌という程、判っているので本音は控える事にしたのだった。


しかも"馬鹿な子ほど可愛い"というのは、いつの世も親の(つね)である。現代でも公然と通用している言葉がそれを証明している。


「(๑°⌓°๑٥)…それ程、なのか?」


曹操はこの従兄弟の評価に些か驚いている。


曹仁は窮地に立たされた配下の者を身体を張ってでも、敵の包囲から助けてやる程、仲間想いであるが、日頃軍規を尊守させるためとは言え、厳しく接し、その言動も辛口であった。


特に人の評価には手厳しく、身内にすら遠慮はなかった。だから彼の目利きが真実に近い事は曹操自身も痛い程、心得ていた。


「えぇ…(٥ ー̀дー́ )੭⁾⁾間違いなく!今はまだ正直、甘さも残っていますが、この私の前でも物怖じしません。但し、今は人助けに精を出したいそうで、河川整備に着手するそうですから、勝手にやらせておきましょう♪ひょっとしたら我々もその恩恵に預かれるかも知れませんな!」


曹仁としては敵とはいえ、その人柄に多少なりとも惹かれている。従兄の事だからどうにかしようなんて事に成らない様に機先を制した訳だが、この時はこれが裏目に出てしまった。


曹操は前から曹仁に河川の整備を持ち掛けられて来たが、その都度却下して来た。重臣たちの反対意見が多く、確かにまだ戦時であるから、予断を許さず、敵に利するかも知れないとの判断だった。


これは今でも正しい判断だと自負していたが、そんな年端も往かぬ小僧に先を越されては、面目が潰れる。かといって今更、邪魔するのも大国ゆえに大人気無かった。


『✧(๑°⌓°๑٥)孫権の小僧なら、大人気無く嫌がらせでもするかも知れんが、この私は天下の魏王である♪』


彼には少なくともその程度の自負はあった。


「曹仁♪ꉂꉂ(๑°⌓°*๑)お前の前からの願いだ!この機会に叶えてやるから、誰かに着手させよ♪人選はお前に任せる。あの(とぼ)けた奴、何て言ったかな?」


「え!あぁ…Σ(ღー̀дー́ ٥)司馬懿(しばい)の事で御座いますか?」


「あぁ…✧(๑°⌓°*๑)そうだ♪あいつには確か宛城太守を命じていたな?あいつなら器用な奴だ!留任のままやれない事は無かろう!どの道、私の傍で知恵を練るつもりの無い輩だ♪この際、こき使ってやる!」


曹操は一度言い出したら利かない。余程、理論武装して臨まねば説得は難しかった。


それにしても"人選は任せる"と言いながらも、(とぼ)けた様に指命して来る曹操も一筋縄ではいかない御仁である。そこには彼なりの理由がある。


端的に言えば彼の矜持(プライド)の為なのだろう。とは言え、複雑な感情の(もつ)れがそこには介在しており、一概に責められない事情も在ったのである。


まず蜀の太子がどんなに優秀で性格の良い奴だったとしても、劉備の血が流れているという唯一無二の点だけでも曹操にとっては見過ごせない理由と為るのだ。


そして自分に楯突く輩は決して許さない。あの陳宮が良い例である。それでも途中からでも非を認めて従う奴には寛容な人物であるが、仲達の様に毎度、虚仮(コケ)にする輩は睨まれる事になる。


先に述べたが、司馬懿自身は曹操を為るべく避けており、積極的には絡んでいかない。結果的に粛清される羽目になった楊修の様に自分の能力を殊更に誇示しないし、賢く控え目な位置取りを貫き、程好い距離感を(たも)っている。


つまり黒子に徹していた訳だが、きらめく才能というものは抑えていても、自然と外に漏れ出てしまうらしい。特に曹操の様な稀代のカリスマには喩え隠しても、隠し通す事は出来ない様だ。


"才在る者は才在る者を知る"といったところで在ろうか?要は似た者同士なのである。曹操の様に自分と同じ臭いを嗅ぎ分ける事の出来る者にとっては、司馬懿が幾ら幾重にも煙幕を敷いて居ても蟷螂(とうろう)(おの)で在った。


当の司馬懿もそんな事は重々承知の上で在ったのだろうが、自分の命を守る為である。人は誰しも命懸けで事に当たる場合には無駄な事だと判っていても人事を尽くす。


否…尽くさずにはいられないのだ。所謂(いわゆる)、"人事を尽くして天命を待つ"という事で在ろう。


実際、彼は何度も殺意に駈られて司馬懿を殺そうとしたが、その都度上手い具合に逃げられてしまった。或いはやむを得ず許した事さえある。


それでも太子の曹丕(曹操の次男)を支えて教育し、見事にあの天才・楊修を相手に競り勝ち、三男・曹植を退けたのだから実力は折り紙付きだ。


曹操にとっては殺意と安堵が入り雑じった複雑な心境で在ろう。殺してやるという気持ちと、殺さなくて良かったという安堵の繰り返しという訳である。


それだけ司馬懿が有能な虎狼(ころう)という事なのだ。




例えばである。ここに絶対的なカリスマを持つ独裁者が居たとする。そして彼はある日、有能な男を見つける。彼は想う。是非とも彼が欲しい。


けれどもその男に会った瞬間、彼は気づく。男がこの自分を凌駕出来る唯一の存在で在る事に…。


彼はその瞬間から殺意を抱く。今のうちに殺してしまいたい。禍根は残しては為らないのだ。


今この時にこの男を始末しなければ、近い将来必ず自分を脅かす存在に成る。そう成ってからでは遅い。


そしてこの男に力を与えてはならない。力がまだ想う様に発揮出来ない今で在れば確実に始末出来るだろう。


けれどもその才能が理解出来るがゆえに惜しい。もっともっと育てたい。成長したこの男の実力を(じか)に見極めてみたい。


駄目だ。殺しては駄目だ。でも殺さなければ、この男はいつか必ず(やいば)を向ける。それは絶対避けねば為らぬ。


(かせ)()めて飼い馴らそうか…否、こいつは影で密かに研ぎ澄ませたその牙で、きっと(くさり)を喰いちぎるに違い無いのだ。


あぁ…どうしよう。殺すべきか活かすべきか。




恐らくは、曹操の心の中ではそんな(せめ)ぎ合いが在ったのではないだろうか?


それが殺意となり、実際に何度も殺そうとしたのであるが、その都度未遂で終わったのだ。


時に逃げられ、時にはぐらかされ、彼自身が許した事さえある。そして両者の介在の無き偶然の産物…人は運と呼ぶものによりその命が長らえる事すら在ったのだ。


こうして司馬懿は太子候補に過ぎなかった曹丕の教育係をしながら、彼を太子に擁立するのに貢献した。勿論、決定したのはあくまでも曹操である。


しかしながらこの曹丕という人は、かなり強いトラウマを抱えていた人であり、父親である曹操を酷く恐れていた。彼は特有の繊細さを持ち合わせており、それは常識では図れなかった。


彼は父親の傍に近寄ると、極度の緊張の余り、痙攣(けいれん)や軽い発作を起こす。その口唇は震えて言葉を()む。オドオドする態度は見苦しく情けなく見えた事だろう。


普段は勇気があり、聡明で的確な判断が出来るこの男も、余りにも偉大な父親を持ったがゆえに、それを畏怖し、憧れ、その高みには到底届かぬ自らに失望してしまった節が在るのだ。


この乖離(ギャップ)こそが、この居たたまれない痙攣や発作の原因と為っていたのではなかろうか。


そんな彼の苦悩を救い、助けた司馬懿は曹丕にとっては掛け替えの無い師であり恩人である。


きっと彼が将来、王に為れば司馬懿の身は安泰であり、かつ欲しいままに権力を牛耳る事が出来る事だろう。


司馬懿にとっては、最早その機会を待てば良いのである。そうと決まれば、曹操が生きている間は都・許昌の中枢に居ない方が安全なのである。


彼は上手く手を回して、宛城太守に逃げ延びていた。曹丕に権力が移るまでのひとときの安らぎを得たかったのかも知れない。


ところが蓋を開けてみると、少し彼の思惑は外れる事になった。漢江の氾濫により(はん)城と襄陽城の民を急遽、救う手立てが必要になったのだ。


彼は荊州方面軍司令長官である曹仁の命で、宛城付近に救援物資を持って急行し、避難民の受け入れ態勢を瞬く間に完了してしまった。


そして避難民が落ち着いたら、当面の受け入れ先に送れる道筋まで構築しており、やる事に無駄が無かった。


曹仁には感謝され、多くの避難民にも喜びで迎えられた彼はまた名を売る事に為るが、それと同時に二つの大きな気掛かりが彼の心を支配する事になる。


ひとつはまた曹操に目を付けられかねない事である。そしてもうひとつは曹仁に感銘を与えたという蜀の太子・劉禅君の存在であった。


彼は実際に河辺で船上の劉禅君を眺めている。まだほんの子供にしか見えないのに、荊州の避難民の救助を敢行したのだ。


しかも人の命に境など無いと、魏の領地に踏み込む事も躊躇せず、堂々と曹仁とも渡り合い、その結果、多くの民の命を救ったのである。


彼は感動と同時に、そこに畏怖の念も感じていた。将来の禍根と成る存在の誕生の瞬間に立ち合った事を自覚し、懸念していたので在ろう。


そして突然、降って湧いた様な、河川整備の実施命令である。それは曹仁からもたらされた命令では在ったものの、裏で曹操の息が懸かっている事は明白な事実であった。


『(ღ •̀ 艸 •́ *)あの劉禅君も河川整備を進めているという…』


司馬懿はヒョンな事から巻き込まれる形で、二つの懸念と同時に対峙する必要に迫られた事になる。こうして司馬懿の参戦により、河川整備計画はまた新たな局面を迎える事に為るのだった。

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