2 絶景のちアンバランス
育ててくれた人々の尽力、そして掃除とダンスのおかげで、私はある程度の体力と筋力を獲得しました。屋敷の隅から隅まで綺麗にしても倒れませんし、ワルツを三曲分休まずに踊っても死にません。
風邪、喘息、時々流行病に悩まされ続けた幼少期と比べれば、目覚ましい進歩と言えます。
ですが、あくまでこれは極振りのマイナスがゼロになっただけに過ぎません。
「生まれたこと自体が奇跡」の状態から十六年かけて人並みの強さを持つ体になった、ただそれだけのことなのです。
何が言いたいかというと、
「っ、は、はぁっ……山、登ること、ぐらいは、教えてくれても、よかったんじゃ……?」
「…………ごめん。シルヴィアは飛んできてたから、つい」
「左様で、ございますか……はぁ、っ」
人生何が起きるか分からない、とはよく言ったものです。
まさか、ろくな準備もできないまま人生初の登山に挑むことになるとは思いませんでした。
通ってきた森と同様道がざっくり整えられていたこと、日差しがそこまで強くなかったこと、途中の泉で美味しい湧水を飲めたことが幸いしてどうにか登頂できましたが、はっきり言ってもうふらふらのへろへろです。
息苦しいのはひとえに私が限界寸前だからで、あたりの酸素が薄いわけではありません。むしろ空気はとても美味しく、吸って吐くごとに体が中から新しく作り替えられていくような感覚があります。標高が高くない山で本当によかった。
とはいえ背に腹は代えられませんので、生存に役立たないお行儀は一旦捨て置いて良いものとします。
半ば倒れ込むように木陰に横たわって目を閉じ、私は数十分ぶりに深呼吸を繰り返しました。……回数ですか? そんなもの、とっくの昔に数えるのをやめています。
「お詫びと言ってはなんだけど、落ち着いたらちょっとこっちに来てみて」
上体を起こします。
軽い眩暈が落ち着くまで待ちます。
投げ出していた脚を畳み、えいや、と踏ん張って立ち上がります。
たったこれだけの動作ですが、場合によっては失敗して再び地面とお友達になります。そんじょそこらの華奢で可憐なご令嬢の皆様とは訳が違うのです。
今回はどうにかそのまま立っていられたので、リーの声が聞こえた方向へ足を進めます。
やがて、私の視界に飛び込んできたのは――
「…………すごい、綺麗」
「でしょでしょ? ここ、この島で一番高いところなの。だから、まるごと見渡せるってわけ」
絶景、の一言に尽きました。
澄んだ空ときらめく海に抱かれ、視界に到底収まらない雄大な自然がいきいきと脈打っています。
あっちに海、こっちに森、そっちに川、越えていけば谷……といった具合で、世界に存在する全ての地形が集まっていると言っても過言ではないくらいにバラエティに富んだ景色。
故郷では天地がひっくり返っても見られない圧倒的な光景に、私はしばし言葉を忘れました。本当に心を奪われると、美しい、と思う気持ちを形にすることさえできなくなるのかもしれません。
「ふふ」
「ん、?」
「ううん。ライラにも気に入ってもらえてよかったなって思っただけ」
なんだか大人っぽく微笑んで、リーはぐうっと伸びをしました。
「よし! ライラも復活したことだし、いよいよここからが本番だね」
「本番?」
「そう、本番。何もこの景色を見せるためだけに山を登ったわけじゃないんだよ」
ぺちっと頬を叩き、リーは佳景に背を向けました。その視線の先には、だだっ広い草原が広がるのみです。
「ライラ」
「うん?」
「これだけ言っておく。――怖がらなくていいからね」
「……リー? それって、どういう」
最後まで言い切ることはできませんでした。
リーが静かに目を閉じると、白みがかった透明な羽に変化が現れました――まるで虹の雫を受けたかのように、七色に輝き始めたのです。
「えっ、な、何……⁉︎」
「ライラ、ちょっと手を貸して」
訳が分からないまま差し出した指先に、リーの小さなそれが触れます。すると、彼女の羽はますます眩く輝きました。呼応するかのように、あたりを吹き渡る風も強さを増していきます。
何が起きているのか。何が、起ころうとしているのか。
「……よかった。さっきの話で確信したけど、やっぱりあたしの勘に狂いはなかった」
「えっ?」
「あとで教えてあげる」
唖然とするばかりの私ににやりと笑いかけ、リーは改めて正面を見据えました。
そして、第一声から続いた軽妙な語り口が嘘のように、厳粛さすら感じる声音でこう告げたのです。
「時は来れり。目覚めよ」
何の話? とはとても聞けない、ぴんと張り詰めた空気。
息を殺して待つしかない私の耳を、ふとある音がくすぐりました。
それはまるで、大地がリーの呼びかけに返事をしているかのような――
「っうわ、え、ええ……⁉︎」
「よっっっっしゃあ!」
どうしてそんな風に思ったのか考える暇もなく、轟音と共に地面が震え始めました。
揺れと表するほど大きなものではありませんが、いち人間の不安を煽るにはいささか十分すぎます。勘弁してくださいお願いします。
情けない声を上げる私と対照的に、拳を突き上げたリーはくるくるとご機嫌に飛び回ります。
一体全体、何が起きているのか。
混乱、恐怖、それから抑えきれない好奇心で、もう胸がはち切れそうです。
湧き上がる諸々を逃すべく、予想外の登山であちこち擦れてしまったスカートの裾をきつく握りしめた――その、瞬間。
「ど……っ、なに、何なの……?」
しゅるるる、と、導火線が削れていくような音に顔を上げます。
草花以外何もなかったはずの大地に、これまた七色の不可思議な図形――目を疑うほど巨大な魔法陣が描かれ始めていました。
巨大とはいかほど、と問われれば、大聖堂を三つ納めても余りあるほどの大きさだと答えます。
目にも留まらぬ速さで組み上がるそれを呆然と見つめる私の頭に腰掛け、リーは心底楽しげな声色で言いました。
「そろそろ目を瞑った方がいいよ」
「えっ⁉︎ 何ですか⁉︎」
「そろそろ、目を瞑った方が、いいよー!」
「わ、分かった!」
魔法陣が完成に近づくにつれて吹き荒れる風の勢いも増し、痛っ、痛い、ここまで来るともう痛いです。絶えず頬を叩かれているようです。
ついさっきまであんなに優しくしてくれたのに、豹変もいいところです。
倒れないように精一杯ふんばりながら、リーの助言に従い私はきつく目を閉じました。
すると、あれだけ荒れ狂っていたのが嘘のように、ぴたりと暴風が止みました。それからーー
「まだ開けちゃだめ! あたしがいいって言うまでそのままだよ!」
「はい!」
ーーリィン、もしくはキィン、でしょうか。
擬音にし難い、純度の高い金属を打ち鳴らしたような硬く美しい音がひとつ聞こえたあと。
なぜだかぶわりと背筋が粟立ち、びりびりと痺れのようなものが全身を駆け巡り、呼吸の仕方を一切忘れ。
瞼の向こうが、真っ白になりました。
○
「……ラ」
温かい。
「……イラ」
それから、ひどく懐かしい。
「ライラ、」
久しく忘れていた、この感覚。
世界で一番安心できた場所。
「ライラ」
たくさん迷惑をかけたし、時には厳しく叱られた。
でも、最後にはこんな風に、いつも温かく私を抱きしめてくれた――
「……お、かあ、さま、」
「ライラッ!」
「ぅわ、あ、ひゃいっ⁉︎」
十中八九耳元付近を飛んでいるのでしょう。リーの呼びかけが鼓膜に直で突き刺さり、不意を突かれた私の悲鳴は見事に裏返りました。
ついでに、さっきまではっきりと感じていたはずの温かな何かもあっさり消え去りました。今となってはさっぱり思い出せません。
「もー、呼んでも呼んでも応えないから気絶したかと思ったじゃん。要らない心配させないでよね」
「ご、ごめんなさい……」
「ほれ、もう目開けていいよ」
そうだ巨大魔法陣。そうだなんかすごくいい感じの音。そうだ豹変した暴風。そうだきらっきらなリーの羽。
にわかに飛んでいた数分間の記憶が怒涛の勢いで流れ込んでくるのを感じながら、私はゆっくりと瞼を上げました。
下ろしました。
「えっなんで? 眩しい? あ、やっぱりさっき気絶してた?」
「どうしよう。十六年も付き合ってきたのに、自分の目が映し出すものを信じてあげられない」
「幻じゃないって納得できるまで見つめてみたら?」
「……それしかないか」
ぱちり。
おそるおそる目を開けた先には、
「……ねえ、リー」
「はいはい」
「あれは……箱?」
「なわけあるかい! 昇降機だよ昇降機」
「しょ、しょうこう……?」
「昇って! 降りる! 機械! 略して昇・降・機!」
一般的な体格の大人が三人くらいは収まりそうな、木造の箱……ではなく。
魔法陣のサイズ感に対してあまりにアンバランスな昇降機が、ぽつりと佇んでいたのでした。
ようやっと話が動き出します。やったぜ。