1 孤独の終わりは森の中
青々と茂る木々を穏やかな風が揺らし、爽やかな緑の香りを運びます。
ちらほらと姿を見せる花たちはどれも見たことのないものばかりで、私の興味をそれはもうとてつもなくそそります。本来ならいちいち立ち止まって気が済むまで観察するところなのです、が――
お察しの通り、今の私にそんな余裕はありません。
「ええと……ごめんなさい。一度、いろいろ整理させてほしいのだけれど」
「いいよ!」
海辺を離れ、リーに導かれるまま森へと入り、初心者の足にも優しい獣道を歩いている途中。ふと目に入ったのは、お手頃なサイズ感の切り株です。
リーの了解を得て腰を下ろし、やや荒くなり始めた呼吸を整えてから私は切り出します。
「まず、私は――ライラ・アルテミシオンは死んでいない。生きている」
「うんうん」
「次に、ここはミラリ島。あなたは妖精のリー」
「その通り」
「それから――」
個人的にはこのあとが肝心要です。
こくん、と覚えず唾を飲み、ひと呼吸おいて口を開きます。
「――あなたは、母を知っているのですか?」
「うーん、とりあえずデスマスはなし!」
「……えっ?」
「シルヴィアそっくりの顔でカチコチの喋り方されるとむずむずするから、デスマスはなしー!」
「な、るほど……」
カチコチ、というのは、形式ばったとかそういう意味合いで捉えてよさそうですね。
リーにそのつもりはなかったでしょうが、予想以上の答えが返ってきました。
右も左も分からない場所で、(おそらく)母をよく知る相手に出会えた――その実感がようやく湧いてきて、強ばっていた肩から力が抜けるのが分かります。
「分かりま……分かっ、た。それで、その、あなたは母を知っているの……ね?」
「よしよし、いい調子いい調子。ちょっとずつ慣れていこうね。うん、もちろん知ってるよ――」
――だって、シルヴィアは娘ちゃんを……ライラを身籠るまでしょっちゅうここに来てたからね。
さらりと放たれた爆弾発言を噛み砕くのに、少しばかり時間がかかりました。
ぴちち、小鳥の囀りが軽やかに沈黙を彩ります。
「……来ていた」
「うん」
「…………しょっちゅう?」
「週に一回くらい?」
「………………どうやって⁉︎ ッゲホ、ゴホッ」
「おーおー、どうどうどうどう……」
背後に回った羽音、そして襟元を一房の髪がくすぐるような感触を鑑みるに、おそらく背中を摩ってくれているのでしょう。
私を最初に見つけてくれたのがリーでよかったなあ、とほっこりしつつ、数分ぶりおそらく八度目の深呼吸で鼓動を鎮めます。
「落ち着いた?」
「うん、ありがとう」
「どういたしまして。えっと、どうやってシルヴィアがここに来てたかだっけ?」
「ええ」
「どうやって……ど……どう……? え、っと、あなたと同じように、転移魔法を使ってだけど……?」
ピピーッ。混乱の種がまた増えたので、休憩の延長を要請します。
たった一言とは思えない情報量のため、先ほどより時間をかけて理解を試みることにします。
うんうん唸りながら考えに考えた結果、「私と同じように、転移魔法を使って」という短いフレーズから読み取れたのは以下の三点です。
・私は転移魔法で城からここへ飛ばされた
・母も転移魔法を使っていた(「しょっちゅう来ていた」=自主的に訪れていたと推測)
・母はとても強力な魔術師だった(転移魔法の使用には凄まじい量の魔力が必要とされている)
「……なんということでしょう」
一点目についてはもう、この際どうでもいいです。
問題は残り二点、というか主に三点目です。
世間話のように明かされたとんでもない事実を受け止めきれず、私は文字通りに頭を抱えました。
「ライラ? どうした? まだ体辛い?」
「ううん……世の中には、まだまだ知らないことがたくさんあるのね……」
「そりゃそうだよ、あたしからしたらシルヴィアもライラも赤ちゃんだもん」
「なるほど……なるほど、?」
これは、迂闊に踏み込まない方が良さそうな気配。一体何歳なのかしら、ふんわり想像するだけに留めておくことにします。
それに、失礼ながら今はそれどころではありません。
何とはなく空を見上げると、私の肩に落ち着いたリーもそれに倣いました。
「そっかあ。あの子、ライラには黙ってたのか」
過ぎ去った時間に思いを馳せる、夕焼けのように寂しくも温かな声音が胸に沁みます。
母と過ごした日々が、楽しかった記憶が、ふわりふわりと脳裏を掠めては消えていきます。
……いけません。長らく思い出していなかったこともあり、うっかりじーんと来てしまいました。
さすがに初対面の相手の前で泣くわけにはいかないので、ぎゅうっと目を閉じてやり過ごします。
「……夢にも思わなかったわ。みたい、って思ったことはあったけれど、まさか本当に魔術師だったなんて」
「ん……もしかして、ライラだけじゃなくて、王国に住んでる人間全員知らないとか言う?」
「そうだと思う。もっとも、父は知っていたかもしれないけれど」
「ふむふむ……なるほどね。沈黙と魔法を使い分けて、自分の正体を上手に隠してたってわけだ」
ぱたぱた、ぱたぱたぱた。
どこへ飛ぶでもなく羽を動かしたリーは、徐にこちらを見上げました。
「きっと、ライラを守りたかったんだね」
「……守る」
「そう。強い魔術師の子供だって分かったら、間違いなく外国の悪い奴から目をつけられるから」
「そういうもの、なの?」
「そういうものだよ」
物心つく前に攫い、本人に魔力があれば『自分の国の』魔法使いとして、なければ貴重な研究対象として育てる。
リーが淡々と語るおぞましい内容に耳を傾けている最中、おのずと思い出される記憶がありました。
あれは、私が八歳の時――母からありとあらゆる文字を習い、その全てを覚えた時のことです。
『いい? ライラ。あなたがたくさんの文字を読めることは、私とあなただけの秘密よ』
『はい、わかりました。でも、どうして?』
『そうね……“私はこんなにたくさんの文字が読めるんだぞー!”って大声で自慢する人と、誰かが困った時に“それはこうやって読むんだよ”ってさっと教えられる人。どっちがかっこいいと思う?』
『……困っているだれかを、たすけられる人』
『よーし! あなたならそう言うと思ってた。ライラはきっと、かっこよくて優しい、とても素敵な大人になるわね』
途切れ途切れ、口から勝手にこぼれでるままの拙い昔話を、リーは静かに聞いてくれました。
どこか遠くを見るつぶらな瞳は、心なしかほんのり潤んでいるようにも見えます。
「ちゃんとお母さんしてたんだなあ、シルヴィアのくせに」
郷愁と親愛がたっぷりこもった、とても優しい声です。
ほろほろと私の頬を伝う雫が、足元に咲いていた白い花へ落ちて露になりました。
ああ。
私、ひとりぼっちじゃなかったんだ。
少ししょっぱい、でも息苦しくない、不思議な静寂でした。
視界の端から端へと流れる雲をいくつか見送った頃、よし! と声を上げたリーが私の肩を離れ、くるりと回って満面の笑みを浮かべました。
「そろそろ出発しよう、ライラ。センチメンタルはまたあとで」
「そう、ですね。行きましょう……」
花を踏まないように立ち上がったところで、はたと気づきました――
「……行くって、一体どこに?」
どこからか、聞くのが遅い! と叱責する声が聞こえた気がします。至ってその通りです。
今後は最低限の危機感を忘れずに行動しよう、そう密かに固く誓う私の内心を知ってか知らずか(おそらく後者でしょうが)、リーはさらに笑みを深めました。楽しくて楽しくて仕方がない、とでも言いたげです。
「それは……」
「それは……?」
「もちろん、着いてからのお楽しみ!」
「ですよね〜!」
辿り着いた先で、自分の運命が大きく動くことになるなんて――
この時の私は、知る由もありませんでした。
さらりとしか表記していませんが、プロローグ時点でライラはだいぶ酷い目に遭っているので……ここから先は(山こえ谷こえではありますが)幸せになってもらいます。ふっふっふ。