8 黒く染まる入り江(1)
山の麓の「なんでも屋」が開業してから、しばらく時が流れ――いつの間にか、ミラリ島にも夏が来ていました。
「ごめんください。先日ご依頼いただいた、『なんでも屋』のライラとリーです」
「まあまあ、いらっしゃい。こんなところまでよく来てくれたわねえ」
地道な宣伝が想像以上の効果を発揮し、ありがたいことにお客さんは(ついでに、私が使える魔術の数も)少しずつ増えていっています。
いつの間にか島のあちこちに知り合いができていて、こちらが驚いてしまったくらい。
「ご無理なさらないでください、茶葉と茶器の場所を教えていただければ支度は私が……」
「何言ってるんだい、お客にお茶の準備なんかさせられないわ」
もちろん、暇な時・ほどほどな時・忙しい時の落差はかなり大きいです。
ある一週間は毎日「聖域」と小屋を往復し、次の週は一日おきに依頼を解決し、その次の週は毎日どこかしらに箒を飛ばしてへろへろになり……
そんな具合で、スケジュールこそ安定しないものの、とても充実した日々を送ることができています。
「――では、失礼して……『ヒール』」
「…………あれまあ! なんてこと、あんなに痛かった腰が一瞬で楽に……」
「本当ですか? よかった……腰痛って、長引くと本当に辛いですからね」
「ええ、ええ、そうなのよ。起き上がるのも億劫で、毎日憂鬱で仕方なくて……ああ、本当にありがとう。これでまた元気に働けるわ」
「どういたしまして」
今日私たちがお邪魔しているのは、照りつける日差しに色濃い緑が活気付く、小屋から程近い森……の、地面の中。
ノーム――主に土の中で暮らす小人のおばあさんから、「持病の腰痛が悪化したから診てほしい」という依頼を受けていたのです。
「それにしても、まさか私らと同じ背丈になってまで診察しにきてくれるとは」
「あはは。うまくいくか心配でしたが、お家を壊さずに済んでよかったです」
「ひょっとして、胸のポケットに入っているのがリーちゃん?」
「はい。私と大きさが変わらないのは落ち着かないから、自分も小さくしてほしいと言って聞かなくて……」
「なるほどねえ、ふふふ」
ひょいと顔を出してぶんぶん手を振っていますが、もはや小さすぎて話し声が聞き取れません。地上へ戻り次第、私共々早急に元に戻す必要がありますね。
「ライラちゃん、リーちゃん、今日は本当にありがとう。お礼なんだけれど、本当にこんなささやかなもので大丈夫?」
「夏野菜の種、に、栽培のこつをまとめたノートまで……!? ささやかなんかじゃないです、すごくありがたいです! 帰ったら早速植えてみますね」
「うん、そうしておくれ。何か分からないことがあったら、いつでも聞きに来てくれていいからね」
「何から何までありがとうございます。……あ、お野菜なんですけど、収穫できたらお裾分けしに来てもいいですか? ご迷惑でなければ」
「いいのかい? 嬉しいねえ。そうしたら、私が料理してあげよう」
「わあ! それじゃあ、なおさら頑張って育てないと」
今後の楽しみがまた増えました。ありがたいことです。
やりとりが落ち着いたところで、来た道を戻る――厳密に言えば、地中深く掘られた穴を上へ上へと登ることしばらく。
腰がすっかり良くなったから動き回りたい、ということで、おばあさんも地上まで見送りに来てくれていました。
「……うう」
地中にしばらくいると、木漏れ日すら眩しく感じられるようです。
若干のふらつきをやり過ごし、私とリーの体を元の大きさに戻し、急激に視点が変わったことでまたも生じたふらつきをやり過ごしたところで、ようやく依頼終了と相成るわけです。
「改めて、今日は本当にありがとう。気をつけて帰るんだよ」
「こちらこそ、いろいろとありがとうございました」
「おばあさんもお大事にね!」
「それでは、失礼しま――」
「ああ、そうだわ」
「はい?」
くるり、ぐらぐら、ぴたり。
返しかけた踵を押しとどめ、私は屈んでおばあさんと視線を合わせました。
「この間ねえ、お友達と久しぶりにお茶をしたんだけれど」
「は、はい」
「彼女が言うには、最近東の入り江の様子がどうもおかしいんですって」
「東の入り江……」
「おばあさん、お友達は他に何か言ってた? どんな風におかしいとか」
おばあさんのご友人が言うには、(おそらく)一週間前の地震をきっかけとして、少しずつ入り江の水が濁り始めているらしく。
地震自体はさして珍しいものではありませんが、海水に変化が起こる前例はあまり知られていないのだそうです。
初めて聞く話に、私は思わずリーと顔を見合わせました。
「特に依頼は届いていない……ってことは、考えられる可能性は三つだね。一つ目、そもそもあたしたちのことをよく知らない」
「……うん、それも十分あり得るわね。二つ目、私たちのことは知っているけれど、依頼を出すほど困っていない」
「そして、三つ目は――」
――依頼を出したくても、出せない状況にある。
自然と声が揃ったところで、このあとの予定は決まりました。
「おばあさん、教えてくれてどうもありがとう。気になるので、少し様子を見に行ってみます」
「そうかい、気をつけて行くんだよ」
「はい! それではまた」
「お大事にー!」
喚び出した箒に乗って、向かうは東の入り江――挨拶と宣伝のために行って以来一度も足を運んでいない、人魚をはじめとした水棲の皆さんが暮らす場所です。
「地震で水が濁る……って、なんだか妙な話ね」
「うん。変。確かにそこそこ揺れたけど、物が倒れるとかそういう感じじゃなかったから余計に」
「うーん……とにもかくにも、実際に見てみないことには始まらないか」
「全速前進!」
途中で休憩を挟みつつ、それからサンドイッチもしっかり食べつつ――材料はどれもこれも、今までの依頼の報酬としていただいたものです。ありがたいことこの上ありません――飛び続けること体感一時間。
山越え谷越え川を越え、ようやく見えてきたその景色。
あれやこれや予想していたどれとも違うその様子に、私たちはしばし絶句してしまいました。
「こ、れは……濁ってる、というよりも……」
「見事に真っ黒だねえ」
インクを瓶ごとひっくり返したかのように、陸地に囲まれた部分の海水が黒く染まっていたのです。
さらに不思議なのは、あくまで「くぼみ」の部分だけが色づいていること。それより先の海面はいつも通り透き通っているので、余計にその異質さが際立ちます。
「どう? イヤ〜な気配とかある?」
「ううん……それは大丈夫だと思う」
「よし。じゃあ、降りてみよっか」
手頃な岩場に着陸した私たちは、ひとまず黒い水面を観察してみることにしました。
「……さらさらだわ」
「うん。本当に水の色が変わっただけって感じ」
「ゴミがたくさん捨てられたせいで川や海が汚れたとか、そういう話なら聞いたことはあるけれど……もし似たような理由ならもっとこう、水自体がドロドロしてくると思うの」
「そんな汚し方をするヤツはこの島にいないよ」
「うん、それは私にも分かる。だからこそ、原因の探り方が分からないというか」
インクをぶちまけた、というか、絵の具を水に溶かしただけにも見える奇妙な光景。
寄せては返す暗い波が、岩壁にぶつかってざばんと砕けていきます。
「うーん……長生きの誰かが寝込んじゃったかね?」
「ああ……そうね、そうかもしれない」
精霊に愛された場所ことミラリ島では、ただ普通に暮らしているだけでも体に魔力が取り込まれていきます(「魔術」として使いこなせるかどうかはまた別の話です)。
当然、長く生きれば生きるほどその生きものが宿す魔力は多くなり、周囲の環境に影響を及ぼしかねない量になることもあるのです。
……以上、全てリーの受け売りでした。
「潜る必要がある、のかしら」
「かもね。変身……は、まだ覚えてなかったっけ?」
「うん。まだ水の色以外は異常ないみたいだし、一旦戻って……リー?」
ふと岸辺を振り返ったリーが、そのまま固まりました。
倣って岸辺を見やると、その理由はすぐに分かります。
「……打ち上がってる、よね」
「うん」
「ライラにも見えてる?」
「うん」
「何が見えるか、せーので言ってみない?」
「分かった。……せーの、」
人魚。
「…………いやいやいやいや!? えっなんで!?」
「リーが分からないのに、私に分かるわけないでしょ! とにかく早く助けないと……!」
どたばたどたばたと岩場を抜けて、波打ち際にぐったりと横たわる人魚のお姉さん(実年齢は分かりませんが)のもとへ急行します。
両の肋のあたりにある鰓が動いているのを見るに、気を失っているだけのようで一安心。しかし、リーの反応が示す通り、そもそも人魚が陸にいることが驚きなのです。
「このお姉さんから話を聞けば、黒い水について何か分かるかも」
「ん。まずは『ヒール』をかけるところからだね」
指先に灯った白い光が、いくつもの粒に変わって流れ出ていきます。
その全てがお姉さんの体に吸い込まれて消えた、その時――
「ん……っけほ、こほ、っ」
固く閉ざされていた迷える人魚の瞼が、ゆっくりと開きました。




