第一章・ミネルバ発進! Ⅳ
Ⅳ 音響通信
「まもなくパラリス諸島です」
航海士が報告した。彼の頭脳の中では、艦の速度と方角、航行時間や海流の影響などといった数値計算が、常に正しくインプットされて艦の位置を正確に把握しているのであろう。
コーヒーをすすっていたフランソワは、そのカップを給仕係りに返しながら下令した。
「潜望鏡深度まで上昇してください」
「了解。深度十八メートルまで上昇する」
「メインタンク、ブロワー」
浮上するミネルバ。
「深度十八メートルです」
「よろしい」
潜望鏡をセットするフランソワ。
艦体から海面に向かって伸びる潜望鏡。
「潜航の準備をしておいてください」
「了解。潜航準備」
副長が配下に潜航準備をさせてから尋ねる。
「なぜ再び潜航準備を? 補給部隊の基地なのでしょう?」
「海上がどうなっているかは判らないでしょう? 今は連邦の占領体制下にあります。昨日使えた補給基地が占領されて今日は使えないということもあります」
「なるほど……」
潜望鏡を覗きながら言う。
「三時の方向に艦影。……海上駆逐艦だわ」
「味方ですね。連邦が海上艦艇を持っていないでしょうから」
「忘れたのですか? 絶対防衛艦隊が降伏の意思表示をしていたのを、今や同盟軍は連邦軍に味方する我々の敵だということです」
「そんな……」
「こちらに高速で向かってくるわ。気づかれた。潜航開始! 深深度潜航」
「潜航開始! 深度三千メートル」
「潜航開始」
「深度三千メートル」
再び沈み行くミネルバ。
「参ったわね……。補給なしとはね。現在の食料の備蓄は?」
「三日分しかありません」
航行に必要な燃料の心配はないし、戦闘を極力避けて逃げ回っていれば弾薬が乏しくても大丈夫だろう。しかし食料はそうはいかない。
「パッシブソナーを、0.75Khzにセットして探知開始」
「0.75Khzですか?」
「かつて地球の海に生息していたザトウクジラが、仲間同士で交信すると言われている歌の周波数帯です。40hzから5Khzの間の周波数帯ですが、海水中を遠くまで伝わります。機械的に繰り返されているような音源があったら、即座に報告してください」
フランソワは、パトリシアから教えられた音響通信を思い出したのだった。
かつて、士官学校においての模擬戦闘で、敵に傍受されないように、濃厚な星間ガス中で音響通信による指令を行ったと言う。
今回のミネルバに対する極秘通信にこの0.75kHZの周波数によるモールス信号電信を実施することを伝えられていた。今時、モールス信号は廃れていて、通信士の資格研修や試験にはその項目はない。つまりモールス通信技術を修得している通信士はいないということである。また逆にいえば敵に傍受されることもないということだ。
アレックス・ランドール率いる艦隊のすべての通信士と司令官には、このモールス信号技術の修得を義務付けられていた。通常の通信が行えない特殊な環境でも、モールス信号さえ修得していれば、何らかの形で指令を伝えられることが可能な場合があるからだ。
海水中では、光通信も電磁波による通信も出来ないが、極超長波の音波なら地球上のどこへでも伝播が可能である。ゆえにメビウス部隊の暗号通信の一つとしてこの周波数帯によるモールス信号が採用された。
「艦長! それらしき音が入感しています」
ソナー手が叫んだ。
すかさずソナー手のところへ飛んでいくフランソワ。
「イヤフォンを貸して」
ソナー手が耳に当てているイヤフォンを受け取って自分の耳に当てるフランソワ。
「みんな静かにしろ! 音を立てるな」
音が良く聞き取れるようにと副長が気を利かせた。
音を立てないように身動きを止めるオペレーター達。
多種雑多な雑音の中に、確かにリズミカルに響く音源が微かに聞き取れた。
「間違いないわ。モールス信号よ。雑音をカットできますか?」
「お待ちください。イヤフォンを一旦返して頂けますか」
「はい、どうぞ」
イヤフォンを返してもらって、変調装置を操作して、雑音の部分を消去するソナー手。
「OKです。前より明瞭になったはずです」
といいながら、イヤフォンを再びフランソワに返す。
フランソワは、イヤフォンを当てて、聴覚に神経を研ぎ澄まして、その信号を読み取った。
「ホクイジュウゴド、トウケイヒャクサンド、シューマットグントウヘムカヘ、1300」
それを繰り返していた。
「北緯十五度、東経百三度、シューマット群島へ向かいます」
「そこに補給基地か補給艦がいるということですか?」
副長が尋ねる。
「たぶんね。潜航状態のままで行きましょう」
「了解しました」
向き直って指令を出す副長。
「進路転進! 北緯十五度、東経百三度のシューマット群島へ向かう。面舵三十五度、深度そのまま」
「面舵三十五度、深度そのまま」
「コース設定します。北緯十五度、東経百三度、シューマット群島」
イヤフォンを返しながら、ソナー手に言うフランソワ。
「モールス信号の勉強をしてもらわなくちゃいけないわね」
士官学校でたばかりのソナー手やその他の通信士はモールス信号の研修を受けていないからだ。
「判りました。教えてください」
素直に答えるソナー手だった。
深海底では通信不能だと信じていたから、実際に音響通信による指令受信が行われたことに感心していたのだ。
「いいわよ」
元の艦長席に戻るフランソワ。
「艦の状態、すこぶる良好」
艦橋にいるすべての士官達が、新艦長のフランソワ・クレール大尉に対する印象を新たにしていた。
若いがやり手の作戦巧者ということを知ったのである。
第一章 了