①直也と亜紀
水面から深く、深く更に深く……
そうして菊地は、沈んでいく。
肉体はとうに消え失せ、魂……いや、精神の僅かな欠片となって、深い水の中へと沈んでいく。
彼は今、何時とも何処とも見当の付かない空間に、独りで居る。いや、彼が自らの存在に気が付いた瞬間、周囲に小さな鬼火に似た何かが浮遊し、彼と同じように沈んでいくのが見えた。
(……夢? いや、違うな。俺の義体は寝る事を殆ど必要としない)
覚醒すると同時に、菊地は自分が異常な状態である事を認識する。全身義体の人間は、常人と違って長時間の睡眠はしない。脳が身体制御に必要な、幾つもの神経的負荷から解き放たれた結果、短時間の睡眠のみで済むようになったのだ。
その副産物としてメラトニン等の睡眠誘発物質を使わなくとも、全身義体のサイボーグは自らの睡眠をコントロール出来るようになった。つまり、安全な状態になるまでは短時間の睡眠で脳の一部分だけを休ませ、状況が改善された時に脳全体を睡眠状態にさせる。
その代わり、オーバーヒートと呼ばれる突発性の睡眠状態が極めて稀に引き起こされる時もある。そうした際は、戦闘時ならば脳波モニタリングシステムが検知し、覚醒を促して目覚めさせるのだが……
(……ならば、今の状態は……モニタリングシステムが検知しない、未知の状況だってのか?)
菊地はそう判断したが、覚醒しているにも関わらず、眼を覚まさないのならば……状況によっては、死んでいるのと同じである。
(……まあ、騒いだって仕方ない。そのうち目覚めるだろう)
しかし、菊地は慌てなかった。
一度と言わず、何度も死線を掻い潜ってきた身である。今更何が起きようと、不思議ではなかった。
そう思い、腹を括ると恐怖は感じなくなる。とりあえず現状をもう少し理解しておこうと周囲に再び意識を向けた瞬間、
(……直也?)
不意に、意識の中に懐かしい声が響いてきた。
「……その声は……亜紀なのか?」
菊地は亡き妻、亜紀の名を呼ぶ。すると相手の声に滲むような温かさが加わった。
(……覚えていてくれたのね、ありがとう……もう、死んでしまっているのに……私)
その言葉を聞いた菊地は、複雑な気持ちになる。まるで、既に死んでいる相手を何処かで生きているかもしれないと、自分が信じているように感じたからだ。
「……忘れる筈無いだろう? そんなに心配だったか」
少しだけ矛盾を感じつつ、まるで亜紀と再会している風に話し掛けてみる。夢の中なら納得するが、全身義体の彼は確実に覚醒出来る。思考のトリガーさえ引ければ強制的に薬剤投与を……と、思ったものの、このぬるま湯に浸かるような会話が、止められなかった。
(心配? う~ん、そうね……貴方はもう、大丈夫よ。復讐に全てを投げ打ってきた頃とは違うから……)
妙な実感を伴う亜紀の言葉に、菊地は苦笑する。そんな事は無いと否定しようにも、復讐したいと思うだけでは意味は無く、彼女を喪ってからの自分には、随分としがらみが増えているのも又、事実なのだ。
「そうだな……色々面白いモノを見てきたからな。俺と一緒に空を飛んでるコンビが居るんだが、腹を空かせると力が出せなくなるシルヴィでな、コイツがまた食い意地が張ってて……」
菊地が面白可笑しくカズンの事を伝えると、亜紀は生前と変わらぬ快活さを見せながら、
(へえ……そんな娘と一緒なの!! 素敵じゃない! ……でも、それじゃあ私なんか、霞んじゃうわね……)
しかし、やはり女心はそう簡単に変わらないのか、拗ねたように言葉を濁してしまう。そんな亜紀の様子に菊地は少し慌てながら、
「いや、そんな事は無いぞ……勿論、今でも君を想う気持ちに変わりは無い!」
そう告げてみるが、やはり亜紀の機嫌が直る訳もなく、
(……そのシルヴィさんって若い娘なんでしょ? はあ、私もそんな頃があったのに……)
「……。」
亜紀が呟くと、思わず彼も黙り込んでしまう。
(……ま、仕方ないよね。私はもう死んでしまってるんだから……でも、直也……貴方はまだ、生きているの)
そう切り出した亜紀の光が菊地の周りをグルグルと回転しながら目の前で停まり、
(だから……まだ、やらなければいけない事が沢山あるわ……また、会いましょう……)
(……カズンちゃんにも宜しくね、直也……)
亜紀がそう告げた瞬間、単調で無情なアラームと共に覚醒促進剤が投与されて、菊地は強制的に目覚めさせられる。
声にならない何かを叫びながら、菊地は急速に狭まっていく闇の世界から、光に溢れる空間へと吸い寄せられて……
(……水面……? ここは……)
全身を包む冷涼な水。現実に引き戻された菊地は、最前まで沈んでいた川の中に居た。
(……時間は……十秒? たったそれだけか……)
脳内クロックで確認してみても、僅かな時間だけ、彼は現実とも夢ともつかない世界に居た。そこで亜紀と何か言い交わしていた筈なのに、殆ど何も覚えていなかった。しかし、最後に交わした言葉だけはハッキリと覚えていた。
(……でも、何故……亜紀はカズンの名前を知っていたんだ……)
もし、彼女が幽霊だったなら、カズンの名前を知っている筈はない。いや、もし知っていたなら何処でそれを……?
そうして暫しの間、幾度も思案を巡らせてみても、答えは出なかった。
(まあ、いいさ。今は帰ろう……)
静かに川面へと浮かび上がった菊地は、身体から水の雫を滴らせながら川岸に揚がると、全身を振るわせて水滴を撥ね飛ばし、何事も無かったように闇の中を抜けて進み、廃兵院の建物の中へ消えていった。




