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箱庭と精霊の欠片 すくうひと  作者: 日室千種


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帰還1

 神殿を出たのは、夜中、細い弓形の月が高い空に引っかかっている時分だったと思う。

 今は、今はいつだ? ——馬上で腹持ちの良い堅焼きのビスケットを噛み締めていたら、うとうととして落ちかけ、馬に叱られて起きたところだ。

 月があったはずの場所には、今は目を焼く眩さの太陽があり、見上げた拍子にくらりと血が下がった。

 これは駄目だ。いよいよ、駄目だ。気がかりをそのままにするから、こうも消耗するのだ。解決しておくべきだ。

 落ちかけても手放さなかった残りを口に放り込み、ガツガツ噛むことで目を覚ますと、セウスはついに決心して馬を促し、少し離れた木陰の主君の元へ向かった。


 ここは、王都から街道沿いに南下し、大小合わせて六つめの町を見下ろす丘の上だ。ようやく行程の一割というところ。予想はしていたが、裏道を駆け上ったひと月前に比べ、進みは格段に遅い。

 王都を日の出の開門と同時に飛び出てひた走ってきたが、二十を超える騎馬が街道を走るには要所で検問を通らねばならず、商隊などと行き合えば、道の譲り合いにも減速が必要となる。そも、街道は途中の深い森や山を迂回する形に敷かれているので、道のりは裏道の二倍に及ぶ。

 だが、王都を脱した神官たちは、街道を通る以外の選択肢を持たない。その足取りと行動を確認するため、街道沿いの町の様子を知っておきたい。その手段として、歩みは遅くとも街道を進み、必要と思われる町に騎士を残して行けるようにしたのだ。

 もうひとつ、領地からの通信と行き違わないためもある。ちょうど今しがた、主君宛の軍事用通信馬と首尾よく行き合ったところだ。主要な大領主の最優先通行許可標を掲げた人馬は、街道脇の専用路を走ることができるため、悪路もあり得る裏道より確実に速度を出せる。国家が戦時下であれば伝馬制の使用も許可されるが、今は平時、緊急連絡は必ず街道を走るのだ。

 ところで、その通信兵がもたらした手紙を読んでから、主君がなにやら、黒雲を背負っている。

 昨日アンダート伯爵家に赴く前にも領地から手紙が届き、それを読んだ時から不穏な気配だったが、あれは通常の通信便だった。今回は軍事用の通信便を利用して、王都を発った自分達と途中で行き合ったということは、領地ではおそらく前回の手紙から二日、あるいは三日の間に、何か、緊急事態が起こったのだろう。

 だが、主君から騎士たちに、特に何の言葉もない。

 ということは、セウスたちが知る必要のないこと、なのだろう。

 これまでも、全ての情報を共有してきたわけでもない。必要と判断されたときには、当然、説明ももらえるはずだし、主君が下すその判断に、なんの疑いも持つはずはない。

 のだが。

 ことこの事態に関しては、このまま放置してよい気がしない。

 セウスが近寄ってくるのに気がついているはずなのに、主君は腕を組み目を閉じて、いかにも拒絶の雰囲気だ。

 お側に仕えて十余年。少年時代も知っている者として、断言しよう。

 ここまで、不機嫌が透かし見える状態の主君は、初めてである。


「クラーク様」

「なんだ」

「通信では、なんと?」


 腕も解かず、目も上げないまま応じる主君に、出過ぎたことを敢えて問う申し訳なさをおして、問いかけたのだが。聞こえなかったのかと思うほどに反応がない。

 沈黙が、なぜか、そわそわと腹の底をくすぐった。

 一旦声をかけたからには、もはや躊躇う意味はない。だんまりの主君にも、とにかく押し続けるほかはない。


「領地の公の問題というわけではないことは、わかっているつもりです。ですが、では奥様に何かありましたか? もしや、すでに神官らが屋敷にまで押し寄せて、言いがかりをつけていたり? ……しかし、それならこうして街道を進み続ける必要はもはやなくなり、裏道を駆け下るでしょうし。

 ——では、いったい?」

「…………」


 沈黙を続ける主君は、しかし此度は、話す内容を考えているような素振りだ。やがて、胸の奥からごっそりと空気を押し出すような息を吐いたのに、不躾だとはわかっていながらも、驚いてしまった。

 本当に、普段は感情の振れがほとんどない方なのだ。いや、当然、怒ることも苛立つことも、喜ぶこともある。だが表層に出る感情は淡白なもので、行動や判断に感情が影響を及ぼすところは見たことがない。おそらくそれは、長じては辺境の軍を率いることになる身として、幼少期から身につけたものだろうが。

 さきほどの仏頂面も、深いため息も、騎士たちは誰も見たことがないだろう。

 息を吐いてなお、三呼吸ほど言葉を溜めて、そして、主君は少し聞いて欲しい、と言った。


「俺は妻を、俺の知る最も安全なところに置いてきたつもりだったのだが。妻にとっては、心休まる場所ではなかったかもしれない。彼女は」


 その後にわずかな間があったので、セウスは、それはもう、怒涛のように妄想した。

 「彼女は、放置されて酷いと怒っている」のだろうか。あれほど箱庭のために奔走していたのだ。それは言われても困るだろう。だが、主君もまめに手紙の返事を書いていたように思うが。いやしかし、割と朴念仁の主君である。手紙で言葉をどれほど費やしたのか、怪しいかもしれない。奥様にとってはまるで足りなかったのかもしれない。けれど実際、奥様の身が安全であるなら、些細なことだろう。王都の土産もなく領地へ戻ろうとしているので、夫婦の安寧を取り戻すのには少し時間がかかるかもしれないが、領地へ戻って神官らを蹴散らしたら、新婚の時間を少し取って、ゆっくりじっくり愛を囁いては、いかがでしょうか!

 それとも、もしかして、よくある嫁入り後の大問題といえば、であろうか。「彼女は母や妹に冷たくされている」のかもしれない。だが母君のマーズ様が嫁をいびるのは、全く想像できない。妹君のロジエンヌ様は、主君を慕っているので多少ツンケンはするだろうと、容易に想像がつく。そんなところも可愛らしく思えてしまうのだが、そんなことを言っては嫁の味方は誰もいなくなってしまう。主君の立場では、ひたすら奥様の味方をすればよい、いや、しなければならない。それが最も適切な解だと、身の回りの女性陣が言っておりましたがいかがでしょうか!

 それともそれとも……。

 そこで主君が、青い目の端でセウスを眺めて、くっと小さく笑いをこぼした。


「セウス、お前も何か言いたそうだな」

「そ、あ、いえ、私は独り身で、何か言えるほどの経験は……」


 はは、と主君が笑う。雲が晴れるようで、肩の力がするりと抜けた気がした。

 セウスは目を何度か瞬いた。

 そこに、爆弾が落とされた。


「母が、侍女頭のアジーナの任を解き、屋敷の一室に蟄居させたそうだ。妻に侍女をつけず、相応しい扱いをせずにいたという」

「アジーナ殿が?」


 あの、主家第一のご夫人の話とは思えなかった。


「昨日届いたミリアンネからの手紙には、乗馬を毎日練習していて、ようやく少し楽しくなってきた、と書いてあった。体を動かすのは苦手だと聞いていたから、その意図がわからず、訝しく思った。もともと楽しく感じないのなら、乗馬を彼女がやる必要は何もない。

 先ほど届いた手紙で、詳細がわかった。きっかけは母の善意らしい。母が彼女に馬を贈った。そして、アジーナの差金で、彼女は馬屋の掃除から餌やり、馬具の手入れまで、二週間、馬屋で見習いが如く働かされていたそうだ」


 母が怒っているようで、軍事便にあるまじき詳細な手紙が来た。と主君が淡々と語る横で、セウスは頭の毛がすべて逆立つかと思った。


「奸婦めが」


 唸る。主君の妻を敬わなければ、もはや不忠の臣ではないか。

 はるか遠い地へと嫁に入り、しかし夫はすれ違いで王都へ出向いて一月も会えず、嫁入り先では侍女頭に蔑まれ辛い仕打ちを受けるなど。れっきとした侯爵家の御令嬢が、耐えられるものではないはずだ。主君が希っての成婚のはずだが、これで奥様の心が離れでもしたら、主家にとってはどれほどの不幸となるだろうか。

 アジーナは、もともとセーヴィル辺境伯家の家臣の令嬢で、同じく家臣へ嫁いだが、夫は数年前に他界した。今は家を離れ、マーズの補佐として、また、主君の従兄弟のジェイ・スコットに嫁いだアメリ・スコットの母として、辺境伯領内ではそれなりに強い影響力を持っている女性である。

 事前の受け入れ準備時には、まったく匂わせもしなかった不満を、嫁入りしたての無力な女性に隠れて向けていたとは。家臣としても、人としても、恥知らずもいいところである。

 セウスは、一月という長い間、耐え難きを耐えてきただろう奥方に、同情の念を禁じえなかった。


「奥様のご心中、いかばかりか」

 だが、返った返事に、ざっくりと切り捨てられた心地がした。

「妻の心は、わからん」


 驚愕に、滲んでいた涙もひっこんだ。


「そこは今、あまり気にしていない。また、アジーナの所業は腹立たしいが、もっとも責任が重いのは母と、俺だ。これはセーヴィルの屋敷の管理の問題だ。これまで内向きは母に任せきりで、不便も問題もなく来たが。代替わりの時には多かれ少なかれ起こる問題があることを、まったく想定しなかった。俺の、責任だ」


 いや、それはそうでしょうけどーーーー!

 夫として気にすべきことは、主君が今、まっさきに脇においた、奥方の心、ではないでしょうか!?!?

 セウスはあまりのことに、開いた口が塞がらなかった。あまりに力が入らないので、物理的に顎がはずれたかと思った。それを見咎めて、主君は首を傾げる。


「俺は何か、おかしなことを言ったか?」


 主君の目を覚ませる機会、とばかり、セウスは掌底で自分の顎を叩き上げて嵌めた。究極の力技。


「つかぬことをお尋ねしますが……」

「なんだ」

「奥様とは、恋愛結婚でしたよね」

「ああ、俺が求愛して、応じてもらった」


 主君の! 耳が! 赤い!

 自分の顔も熱くなるのを感じながら、苦手分野だと自他ともに認識している領域に突入するための根性を振り絞った。


「奥様が辛い思いをして、もし、実家に帰られたりしたら、どうなさるんです?」

「? 辛い思いをしなくて良い環境を整えて、迎えに行くが」

「えっと、奥様が、その、辛すぎて嫌になったから、と、その、離婚を申し出られたら。いや、その、嫌な想像かもしれませんが、そうなったら嫌だから頑張ろうと思えるというか、万が一を想定して動くべしというか。結婚に安心は禁物だ、って幼馴染の姉が言っていまして! その、捨てられたらどうしようとか、不安は尽きないとよく聞きますよ? クラーク様も、そんなことになったら、お嫌でしょう?」


 きょとん、とする主君は、少し幼く見えた。


「そんなことになったら? ——想像したことがない。わからない」

 くしゃり、と主君が髪をかき混ぜた。そこに見えるのは、虚勢でも、苦痛でも、誤魔化しでもなく、ただ、困惑だろうか。

「離婚に見合う理由があれば、やむを得ないかもしれないが。それを俺が今ここで想像する意味があるか? 妻の心は、妻にしかわからない」


 主君、実は、本物の朴念仁だった??

 セウスはもはや言葉を継げない。


「妻の身を守るために、できる限りの手を打った。迎え入れる屋敷は完璧に整えてあったし、護衛のために精鋭を側に付け、家臣にも周知し、屋敷の主である母に託した。妥協はなかった。

 だが、アジーナや屋敷の皆に、俺の意志が浸透しきっていなかったこと、そしてそれを見抜けなかったことは、俺の力不足だ。ほかにも、屋敷や領地内で、俺の想定外の不備があるかもしれない。その場合、神官たちがどういう手段をとってくるかによって、妻や屋敷の護りが足りない可能性も出てくるだろう。

 その対策を、考えていた。つい思い詰めていたらしい、心配をかけたな」

「な、なるほど。承知しました……」


 黒雲の正体は、妄想したような色恋人情がらみの悩みなんぞではなかったようだ。セウスはすごすごと持ち場へ戻った。そろそろ出立の時間だ。

 そのとき、早駆けの馬が町からこちらへ走ってくると、兵の一人が知らせに来た。

 遠目でも、それが先ほど送り込んだ騎士だとわかる。そしてもう一人は。


「遅かったっすねー」


 文句を言いつつも満面の笑み。ゼアだった。セウスはすでに驚く気力を持ち合わせていたなかったが、どうやら、灰からは蘇っていたらしい。

 やや困惑気味の騎士と並び、それぞれが体の前に、蠢く大きな袋を乗せている。


「ああ、嫌な予感」


 セウスは思わず呟いた。



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