とつぐひと 2
「こちらをお忘れでは? 兄君から託されたとおっしゃっていたではありませんか」
「あ、そ、それは。う、うん。そうね」
妹だという声が、少し上擦ったのは、誰の耳にもはっきりと聞き分けられただろう。
「失礼して拝見しても?」
「あ、ああっ、、、、えっと、はい、どうぞ」
ウェイが書面を確認しているのだろう。しばらくの沈黙の後、少しお待ちください、と言い置いて、馬車のステップに上がり、失礼、と窓だけを小さく開けた。ウェイの口元だけが見える程度だ。
「ミリアンネ様。騎乗した若い女性二人、クラーク様の縁者を名乗られております。こちらの書面は、しかし、任命状などではなく、お父上のサリンガー侯爵からセーヴィル辺境伯様へ、ミリアンネ様が無事出立されたことと、アンガスに着くおよその日程のお知らせの手紙です。ただし、確かに本物。——また、セーヴィル城にて辺境伯様が確認した旨の記録のサインがございます。……いかがいたしましょう」
「本物の、妹君だ、ということ?」
「私の拝見する限り、そうでしょう。ただし、いたずらの過ぎる、お子様のようですが。執務室から、手紙を拝借してしまう程度には」
なるほど、とミリアンネは扇を手に取り、意味もなく振ってみた。
「公式なお迎えではなくとも、妹君を無視するわけにはいかないわね。お話ししてみます。このまま降りてもいいのかしら」
「……まず、私がご用件を伺い、後ほど改めて席を設けることをご提案いたしますので。しばらくお待ちを」
了承を返すと、ウェイは満足そうに優しく笑み、窓を閉めた。
安心して任せられる有能な副執事を旅路の供に付けてくれて、お父様には感謝ばかりだ。往復で二十日あまりとはいえ、彼は侯爵家にとってもなくてはならない存在のはず。当初は彼の父でもある筆頭執事のレイモンドが同行に名乗りを上げていたのだが、直前に腰を痛めてしまったのだ。ウェイは、年寄りの冷や水だの、予定調和だのと言って、妹のように見守って来てくれたミリアンネを送る役に、積極的に意欲を示してくれたと聞いた。
頼れる者が周りにいることに、ひとまずは安堵したミリアンネだったが。
「のちほど? 町の宿屋で? とんでもないわ。ここは、このアメリの夫、クラークの従兄弟でもあるジェスの拠点の一つなの。ぜひ、このまま、彼の館においでいただきたいのよ。ゆっくりしていただきたくて、アメリに準備してもらっているの。
町の宿屋なんて! この町には、これほど大勢を留め置く規模の宿屋なんてないわ。面白いことをおっしゃるのね、ミリアンネ様は」
うふふ、と無邪気な風だが、まるで準備していた台詞を読むかのような声には、いろいろと刺を感じる。けれどその言葉は、ミリアンネの無知や浅慮を嗤うようでいて、同時にアメリやその夫の拠点であるアンガスのことも軽く見下げていることになっていることには、気づいているのだろうか。気づいていないのかもしれない。
——いやいや、もしかすると本当に、常識というものが、ここと王都とで、逆立ちしたほどに差異がある、のかもしれない。もしそうなら、それは、面白いと思えば面白い、のかしら。彼女のいう通り。
ミリアンネは疲れた頭で穏便に納得できそうな理由を探してみた。が、すぐに無理に気づいたので、事なかれ主義で処理することにした。
とりあえず、このままウェイに任せよう。
「これはご高配を。ただ、両家当主間で打ち合わせのないお屋敷への滞在は——」
「——差し出がましく口を挟んで申し訳ございませんが。ロジィ様のたってのお願いとあって、夫も私も、ミリアンネ様には心安くご滞在いただきたいと考えております。この館には、クラーク様もよく立ち寄られますので、ご安心ください。それに、湯殿が自慢ですの。どうぞ、お気兼ねなく、旅の疲れをお流しくださいませ。……町の宿では」
静かな声なのに、人に聞き入らせるなにかがある。
ミリアンネですら、このアメリという女性がどんな人物かを見たくなったほどだ。正面から会うのではなく、あくまで遠くから、覗き見る程度で構わないが。
「これほどの数の馬車を停める余地がないのは本当です。活気はありますが、小さな町ですので。その点、館の車寄せであれば、すこし窮屈ですが、すべて停めていただけます。安全のためにも、ぜひ、どうぞ。大きな隊商が町に寄る時にも、同じように、館にお招きするのです」
「重ね重ね、お気遣いありがたく存じます。しかし、旅程では本来、明日にはクラーク様の元に辿り着くはずの花嫁行列です。一度居心地の良いお館に寄せさせていただくと、日程に遅れが生じましょう。私どもは、日程を違えることはできません」
「あら。先に町に入られた御家の者は、確か数日滞在用の宿を探しに、町に入ったと思いましたけれど」
「念のため、私の独断で向かわせた、無駄になるかもしれない下調べでございます」
「ロジィ様のご厚意を、お断りになると?」
「クラーク様の、ご意向もございますので」
両者、穏やかで花を愛でるような声なのに、火花の幻覚が見えるようだ。
ウェイの予防線も、理由あってのことだ。貴族が貴族の家に立ち寄れば、一泊だけで出立するのは失礼となる。このまま彼らに従って館に出向けば、必然、エルコートへの到着は、三、四日遅れることとなるのだ。
ミリアンネは、正直なところ、彼らの屋敷へ立ち寄るのは面倒だ。気楽に宿で休んで、さっさと目的地へ向かいたい。それくらい、くたびれていた。
けれど、彼女たちも引き下がる様子はない。
屋敷に招くことに、一体どういう意図があるのだろうか。
それが見えない限り、申し出を受けて屋敷に向かう決断もし難いのだが。
どちらにせよ、ウェイの立場ではそこまでの判断はできないのを彼女たちも知っていて、あえて声高に馬車の傍らで話をしているのだろう。
はあ、と息を吐く。
仕方なく、渋々、ミリアンネは立ち上がった。レーヌが、ベールを整えてくれる。
疲れ云々を別としても、本来の性質と、引きこもりに近い生活をしていたせいで、そもそも初対面の相手と会うこと自体が億劫なのだ。出て行きたくはない。
出れば道端での問答が長引くし、今更の御大将登場のようでさらに嫌だ。
だが、ミリアンネが出るまでは結論が出なそうである。
息を大きく吸って、吐いて。
時機を見計らったレーヌが馬車の前壁を内からこつこつと叩き、御者が飛び降りて扉を外から開けてくれた。