おちるひと 4
あの時は、口を出せなかった。けれど今は、マーズがそのことを咎めるはずがないと、そう信じることのできる今は、少し、踏み込んでもいいだろうか。
ミリアンネはゆっくりと、言葉を選んだ。
「大人でも、子供でも、誰でも、大好きなものや大切なものを、大事にしていいんですよ。無理に諦める必要はないと思います。……まあ、その、普段の生活との兼ね合いは考えなければなりませんけど」
よく実家でも、夜更かしを見咎められて寝台に追い立てられたり、食事をおろそかにする罰として硝子の器の購入を差し止められたりはしたものである。
「私を思ってくれてのことです。だから、皆が大事にしてくれるなら、自分でも気をつけないと、と思うようになりました。それでも、譲れない時は、私は譲りません。夜中にしか採取できない材料は、夜中に取りに行くんです!
その代わり、わかって欲しい相手には、わかってもらいたいと思います。自分の大事なものが、誰かの大事なものになれば、それが一番ですよね。私、すごく、わがままでしょう?——クラーク様は、私がテラリウムに寄せる気持ちを、見守ってくれました。やめてしまおうとした時も。続けようと思った時も。全部そのまま、受け入れてくださった。
そんな方だから、実家を離れてここへ来るのも、不安はなかったんですよ。そして、お返しというわけではないですけど、クラーク様が今何をなさっていても、それが彼の判断なら、それを見守り受け入れようと、決めています」
背後で大人たちが身じろいだのがわかった。一番近くにいる彼らには、知っておいて欲しかった気持ちだ。かといって、おもむろに切り出せる話題でもない。ロジエンヌの問いかけは都合が良かった、といえば、申し訳ないが。
「ちょっと、わからない。アメリの言うことと、違いすぎて」
ロジエンヌが眉を下げた。
「でも、大事なことなんだと思う。……ねえ、クラーク兄様は、貴女のテラリウム作りを認めてらっしゃる、ということね?」
「ええ、もちろん! こんなに素敵な作業部屋をいただけるとは、思っていませんでしたけど」
ひと月ほど、作業部屋の存在すら知らないままだったが。それは置いておく。
ロジエンヌは、つられたようにちょっと口の端を上げたが、すぐに目線を落とした。
「……私、部屋に戻るわ」
「そうですか。またいつでも来てください。あと、これを」
持ち帰らせようと、硝子の箱を渡そうとすると、ロジエンヌはまたも両手をさっと背後に隠した。けれど、拒否はしない。ミリアンネの顔と箱庭とを、何度も交互に見た。
「もう少し、見たくはありませんか? 欠片が元気なので、たぶん、ロジエンヌさんと波長が合うんです。お部屋に置いていただけたら、この箱庭にとっても具合が良さそうです」
「あ、えっと、こ……怖いわ。綺麗なのに。落としちゃったら」
「なら、後で届けてもらいましょう」
十を数える間、少女は固まって。
そして見る間に、ふにゃふにゃと表情を崩した。
「……ありがとう」
「どういたしまして」
ところどころ夫に似た風貌の中、幼げな青い目が緩むのが、可愛くてならない。思い切り撫でて、抱きしめて、構いたい。そんな衝動を覚えたのは、周囲に自分より年下の存在のなかったミリアンネには、初めてのことだった。
そういえば王宮から屋敷に下がるたびに構ってくることの多かった姉は、もしかしてこんな気持ちだったのだろうか。自分は、こんなに愛らしい反応はしなかったと思うけれど。
ともあれ妹とは、構い倒したくなる生き物らしい。
小さな背中を見送る胸が、きゅんきゅんした。
ミリアンネがぼんやりと初めての種類のときめきを味わっている間に、レーヌがどこからか侍女を呼び、ロジエンヌへと箱庭を言付けた。
「ミリアンネ様からの貸与品です。これは、同じ重さの宝石と同じ価値があると、ロジエンヌ様付きの侍女に申し伝えて。後で、取り扱いについて説明を聞きにくるように、とも。マーズ様には、あとでミリアンネ様からご説明されます」
真剣な表情の客分の令嬢から恐ろしげな説明を受けて、緊張に強張りながら侍女が去る。
ルークが、転ばないですかね、と軽口を言った。
「ミリアンネ様は、作り上げた箱庭についてはあまり執着がないようですよ。たとえ途中で壊れても、怒ったりはしないでしょう。ただ、貴重な作品がひとつ、世の中からなくなりますけど。完全に。永久に!」
「本当に、精霊が住んでるんでしょうかね」
「さあ、私には大変残念ながら見えません。ミリアンネ様によると、噂が広がっているのは姉君による営業戦略のせいだ、ということですけど」
「誇大に煽ってるってことですか?」
ふふ、とレーヌが微笑んだのに、ルークが眉を上げた。
「箱庭を手にいれた人たちが、つぎつぎと不思議な体験をして、幸せを得る。さて、それが一度や二度しかないのなら、誇大に吹聴していると取られるかもしれませんけど。根も葉もない噂ではなく、事実確認ができる程度の話は、この五年で二十三件でした。
どうでしょう。少ないでしょうか?」
「……少なくは、ないですね。もっと驚いたのは、貴女がその数字を把握していること、ですが……」
「あら、つい。語ってしまって。でも、ミリアンネ様ご自身は、噂がどれほどのものか実感はされていないようですね。そんな、王宮の雀がさえずる、といった程度ではないのですけれど」
「はあ」
ルークが、あやふやな返事をしたのに、ちらりと温度のない流し目が送られる。思わず身を引いたところに、こつり、と靴を鳴らして、レーヌが一歩、踏み込んできた。
ふわりと、花のような香り。顎の下あたりから、人形のように長い睫毛の揃った涼しげな目が、睨むように見上げてきた。囁く息さえ、甘いようだった。
「……おわかり? 王侯貴族がこぞって欲しがるテラリウムです。けれど作者は、れっきとした侯爵家令嬢。まして、欠かせない材料として、サリンガー侯爵家領特産の硝子工芸があるので、国王陛下だって囲い込むことなんてできない存在です。無益な貴族間の牽制がミリアンネ様を害することを憂いたサリンガー侯爵様の嘆願により、王陛下と王妃陛下が連名で、ミリアンネ様には自由意志での制作だけを許すという正式なご意向を三年前に表明されました」
「ご意向、ですか」
「ええ、ほぼ、命令です。『精霊の箱庭』、『幸運のテラリウム』の崇拝者たちは、みな、作品に一層手が届かなくなったことを憂え、同時に、稀代の作り手の身の安全と、彼女の自発的な創作の保証がなされたことに、歓喜したものです」
その中に、確実にレーヌも含まれたのだろう、とルークは口元が引きつるのをなんとか抑えた。
「けれど、それが保証するのは、あくまで表面上のこと。
ミリアンネ様には、崇拝者と同じくらい、敵もいます。その作品を狙って、あるいは作り手として働かせたくて、あるいは……崇拝と同じくらいやっかいにも、作品を憎む人だって。王都では、貴族たちがこぞって互いを監視していたようなもので、均衡が取れていました。
けれど今回、セーヴィル辺境伯が、その稀代の作り手を、まるっとうまいこと合法的に手に入れてしまった」
「いや、ちょっと、言い方が憎々し過ぎないですかね……」
「私は、ミリアンネ様が幸せであれば、よいのです。けれど。——ゆめゆめ、油断なきよう」
失礼、とレーヌがミリアンネを手伝いにいった。
隙のない背中。貴婦人としても、その有能さからも、非常に得難い存在であることは間違いない。なぜそんなレーヌが、王宮を辞してまでこのセーヴィル辺境伯に来たのか。辺境伯の騎士としては、気になるところであったが。
常にごく冷静、冷淡でいながらも、ミリアンネの世話を焼く姿は甲斐甲斐しく、テラリウムを語る時はぐらぐらと熱い。
なるほど、絶賛推しだったからか。
ルークは深く、納得した。他には何の説明もいらない。




