まどうひと 3
クラークの父親は、十年前に亡くなったと聞いている。
クラークには姉と妹が一人ずつで兄弟はなく、その父にも兄弟はなかった。クラークは十年前には、まだ王都にて王太子殿下の側近として仕えていたため、しばらくはマーズが名代として領地を取り仕切っていたと聞いて、ミリアンネは驚いた。
セーヴィル辺境伯領は、国境付近の広大な領地を持ち、かつては隣国との最前線となっていたが、隣国との不戦条約が成って以降は、流通の要であり、またその後の採掘事業の成功により様々な鉱物資源が豊かだ。
一方、人相手の戦いは数十年と起こっていないが、前人未到の険しい自然が領土内に点在し、その自然由来の「自然らしからぬ」獣たちとの戦いが頻発するそうである。
ミリアンネが幼少時から見てきた、父や姉の国を動かすほどの政治力もミリアンネの想像を絶するが、マーズは、領地経営や領地内の政治と別に、獣たちの討伐すら自ら指揮したというから、また凄まじい。
ミリアンネは夕食時にマーズから聞かされた、簡単な領地の経緯に、心から驚嘆していた。
「お義母さまは、すごいのですね」
「幼少時から、娘であっても、ある程度はそういう教育をされるのでね。特別なことではないのよ」
辺境の地では、驚くことではないらしい。
「勉強不足で存じ上げませんでした。……けれど、領主代理として上に立つ重圧と合わせて考えれば、やはり、どなたでもできることとは思えません」
「あら、そんなに正面から言われたのは、初めてだわ。ありがとう」
夜の晩餐には、ほかに、臣下に嫁いだクラークの姉であるテレサが、夫を伴って駆けつけてくれたという。テレサは妊娠中で、かなり前に張り出したお腹をしているが、身軽に立ち振る舞っているのはやはり、辺境の女性として体を鍛えていたからだろうか。
ミリアンネは、自分がこれからこの地で女性と出会うたびにそんなことを考えるだろうと悟った。それは、決して自分には手の届かない別世界の存在を見るような気持ちで。
価値観の違い。
相容れない環境。
そんな思いに、ぼんやりと囚われていたから。
だから、テレサが話を振ってきたとき、予防線を張ってしまったのかもしれない。
「ミリアンネさんは、素晴らしいテラリウムを作るのですって?」
「テラリウム? 知らないわ。それは何なの、テレサ?」
「お母様、ご存知ないの? この頃は王都でも大人気なのよ。——テラリウム。箱庭のことよ。小さな容器に、草や花を閉じ込めたもの。ミリアンネさんは、その人気の作家だと聞いたわ。王家の方々だって、なかなか手に入れられないそうよ。それはもう、ものすごい人気で。
でも、想像がつかないわ。ここら辺では、鉱物を加工する技術くらいはあるけれど、そこまで緻密なものは作れない。そもそも、そんな発想がないしね。大変な手先の器用さが必要なのでしょうね」
「そんなことは。……私は、テラリウムを作るのが好きなだけですから。部屋で集中していると、時間を忘れてしまうくらいで。幼少時からあまり外出もせず、ずっと作っていたら、少し上手にできるようになっただけです。そんな、特別なことは何もないんです」
確かに王都の貴族は、こぞって褒め称えてくれていた。けれど辺境の地の女性たちに、魅力的に映るものだろうか。ミリアンネには、まるで自信はなかった。
ふふふ、っとテレサが笑った。
「お母様と同じことをおっしゃっているわ。あら、なんだか、お嫁さんと姑で、気が合いそうじゃない?」
思わずマーズを向いて、目が合う。にこりと笑いかけられれば、ミリアンネも自然と頬が緩んだ。
「そういえば、この家にはもう一人、妹がいるはずなんだけど」
他意ない様子でテレサが切り出したので、どきりとする。
けれど、テレサの視線はマーズを向いており、この晩餐に参加していないことの説明を求めているようだった。
「またアメリのところよ。あの子も、もう少し子供らしさが抜けてくるといいのだけど」
「甘やかしすぎなのよ」
気安く、テレサが責めるのに、マーズもそうね、と苦笑いをしていた。
「ミリアンネさんも、アメリのところに無理やり連れて行かれたのでしょうね。輿入れの最中になんて。さぞ気を揉んだでしょう。わがままでごめんなさいね。きつく、叱っておきますからね」
「いえ……」
叱ると言いながら、その目は愛おしそうに細められていた。
母親とは、細々と叱ることで愛情を伝えようとするものと、愛情ゆえに強くは叱らず自然に任せて見つめるものと、様々であるらしい。ふと、自分の母を想う。
きっと、どちらの母も、いついかなる時も、子供のことを案じている。
「あの、私がアンガスを発つとき、ロジエンヌさまは少し体調を崩されていたみたいなのに、置いてきてしまいました。申し訳有りません。気にはなったのですが」
「ああ……」
懺悔する気持ちで言い出せば、意外やマーズが、苦く眉を寄せた。
「あの子は風邪をひきやすくて。気にしないで、ミリアンネさん」
「そうよ、一日寝たら、治ってしまうようなものよ。それに、妹になるんだから、ロジエンヌでも、ロジィでも、呼び捨ててやってちょうだい」
確かに、ベッドの上とはいえ、重篤そうには見えなかった。
初めて会った夫の家族として、置いてきてしまったことが気にかかっていたのだが、家族がそういうのであれば、問題はないのだろう。
ミリアンネは、このときこの城で初めて、胸の底から息ができたように思った。




