気味が悪いな
「ここが、月の中……」
アークは思わず口に出した。
グローリアから説明を受けても尚、信じられないという気持ちはぬぐえない。
環境こそ息の詰まるほど閉鎖的な洞穴ではあったが、光源が天井のどこにあるのかわからないくらいに明るく、まるで室内のようであった。
「地上を追い出された我々は、空に逃げました。ゼオルは空を飛べないことを逆手にとった作戦でしたが、それも賭けではありました」
「逃げられる確証もなく、月を目指したと言うのか」
「それくらいに、追い詰められておりました」
今まで空の果てに何があるかなどと考えたことはなかったが、月というものがこのような岩であるとはまだ信じられない。
「――それで、僕を天帝にして、何を企んでいる? 僕がお前らの思う通りに動くとでも?」
「何を企んでいる、と申されましても。我々は何も企んではおりません。あなたが天帝になること。それが、目的であり、手段なのです」
「意味不明だ。僕をさらうところで目的が達成されたのか?」
「左様でございます。それに、天帝であるあなたは天界でどう振る舞おうと害を為す者はおりませんし、行動を制限する気もございません。この天界において、あなたの好きにならないものはありません」
「地上に帰る、と言ったら?」
「帰られないことくらい、百も承知でしょう。では、私は別の用事がございますので、失礼いたします」
一礼したかと思うと、フッと、グローリアの姿が消えた。
誰も見ていないことを確認して、アークは地面に座り込んだ。
まるで雪崩のように信じられないことが連続で畳みかけてくる。
グローリアが裏切り、天界人が来て、リンが死んだ。
カーレッジの言っていた、負の感情を失うということの意味を、これほど実感することになるとは。
リンの死を慈しみたいのに、涙のひとつも出ない。
悲しくも辛くもなく、殺したグローリアを憎みたい気持ちもない。
理屈では、やり返した方がいいことはわかっている。
仇をとるべきだ。
だが、それとは別に、グローリアと対峙したところでどうなる、と考える自分もいる。
彼が死んでもリンは帰って来ない。
他のみんなは大丈夫だろうか、と思っても、真に心配する気持ちはわかない。
あの時、アークにできたのは、他の誰も殺さないために、さっさと引き揚げさせることだけだった。
本当なら、戦うべきだったのに。
そう考えても、後悔することもできない。
(……表層をなぞっているような感覚で気持ちが悪い。自分が自分じゃないみたいだ)
カーレッジは目的さえ忘れなければ大丈夫だと言っていた。
それは『目的くらいしか維持することができない』ということだったのではないだろうか。
アークは立ち上がって、天界の中を探索することにした。
とにかく、わからないことを少しずつ解消しながら時間が経つのを待とう。
そのために、まずはアリの巣のように張り巡らされた通路から覚えていかなければ。
カーレッジとゼオルが戦い始めて三日が経っていた。
息切れすらしていないゼオルと一瞬ごとに生き返りを繰り返すカーレッジの戦いに決着がつくことはない。
昨日から、キテラはその様子をずっと眺めていた。
昔はよくこうして喧嘩をしていた。
今まで一匹オオカミとしてやってきた勇者と、他人に生活の全てを預けていた魔王が一緒に暮らすことなんてすぐにできるはずもない。
子供みたいな理由でよく喧嘩をして、町をボロボロにして、そのたびにキテラ修復のために一昼夜を使っていた。
懐かしい気持ちに浸っていると、キテラの隣にアケディアが来て岩の上に座った。
「おばさん、ずっと見てるね」
「まあ、この先いつ見られるかわからないからな」
アケディアはふーん、と答えた。
「時間の使い方が優雅だね」
「ははっ、時間が無限にあるとね、感覚的な時間に対しては鈍くなるんだ。特に私は、一日や二日はすぐに過ぎてしまう。こうして生きて動いているものを眺めていると、それこそ一瞬だ。だから、普通の人に混じって生活することは難しい」
「ん? おばさんって人間が嫌いだからひとりで暮らしてるんじゃないの?」
「それもある。でも、一番の理由はこれだよ。丸一日、動く何かをじっと眺めていると不気味だろう?」
「たしかにね」
掃いて捨てるほどの時間を持っているせいか、使うことに鈍感になりすぎている自覚はある。
感覚的にはついこの間アケディアを拾ったような気がしているが、すでに何年か経過していることも、定期的に日付の確認をしていないとすぐにわからなくなってしまう。
「私も自分の時間を人に分けてあげられたらなって思うよ」
「似合わねえこと言ってるなあ。っていうか、誰にだよ?」
「君にだよ。分かっているだろう。君はもう何年も生きられない。今のように最適化された環境であったとしても、だ」
アケディアの顔を見ると、ただただ訝しむような表情をしていた。
キテラも長い間生きてきたから、死ぬ人はたくさん見てきた。
しかし、近しい人が死ぬところに携わるのは、カーレッジ以来だ。
こればかりは、何百年生きようが、平気に済ませられるものではない。
「僕が死ぬのが悲しいか?」
冗談めかして彼が言う。
そんなことは言うものじゃない。
キテラは出そうになった言葉を飲み込む。
一度口に出し始めたら、とめどなく言葉が溢れて、一言で済むはずはない。
そもそも、死んでもいいと思っているのなら、初めから引き取ったりなどしていないだろう。
そうは思っても、彼にそういう気持ちはあまり伝わっていないのだ。
――なぜなら、そういう扱いをされてきたのだから。
空間を繋げる魔法を作ってしまったばかりに犯罪組織に利用され、死をちらつかされながら生きていく気持ちなど、キテラにもわからない。
きっと、自分のことを他人がどう思っているかなど、気にしたことはないのだ。
本当は、もっと早く教えてあげなくてはならないこともたくさんあった。
町で大勢の人と同じようには暮らせないが、幸福に暮らしていくための手段はたくさんある。
限られた時間で言葉にするにはあまりに口下手な自分の能力を恨めしく思いながら、ため息をついて、絞り出すように言った。
「……悲しいさ」
「ホントかよ。意外だな」
「私とて人間並みの感性は持っているつもりだが」
不意に、カーレッジの腕が飛んできて足元に転がる。
眉ひとつ動かさずそれを見ていると、アケディアが鼻で笑った。
「絶対嘘だ」
「何を――」
また言い返そうとした時、何か巨大なものが頭上に影を落とした。
「やっと見つけた!」
まだ地面へ到達する前のアトルシャンから、ブレインは飛び降りた。
衣服がボロボロになったゼオルとカーレッジ、奥にはキテラやアケディアもいる。
ブラドやゴートたちは先にアトルシャンへ乗ってもらっているため、これで主要な人員は全て揃ったことになる。
「何やってたんですか!? 随分探しましたよ!」
ゼオルやカーレッジはポカンとこっちを見ている。
周囲の地形を見るに、おそらくずっと小競り合いをしていたのだろう。
アドレナリンが過度に出ており、思考が働いていないのだ。
「ばか! 町で大人しくしていてくださいって言ったのに! 早く行きますよ!」
「どこにだ?」
何もかもを忘れたような顔をしたゼオルがそう聞く。
それに対してブレインは少し苛ついて大きな声を出す。
「月!!」
「月って……」
ゼオルはカーレッジの方を見る。
「やっと準備が済んだか。お前がいてくれて助かった。オレさまたちだけじゃ、天界へ行くのは苦労するからな」
アトルシャンが砂埃を舞い上げながら着陸する。
表面の装甲が動き、四角い穴がぽっかりと口を開いた。
それを前にして、カーレッジが言う。
「すぐに行くのか?」
「ええ、どうしましたか?」
「ちょっと待ってろ」
カーレッジは振り返って、後ろからついてこようとしているキテラたちに声をかけた。
「本当に行くのか?」
「帰って来られるのかい?」
「わかんねえ」
「だったら行く。それにアケディアがいれば行き来はできるだろう」
「そうじゃなくて……」
カーレッジは言葉を選ぶように小さな後頭部を掻く。
「危険の心配なら無用さ。少なくとも今の君よりは私の方が強い」
「怖え思いしてもか」
「恐怖なんて感情は遙か昔に捨ててきたよ」
「冗談はやめろ」
そう言ったところで、キテラがカーレッジの肩に手を置く。
「――君はまた、私を置いていくのか」
その目には怒りの色と恐れの色が同時に浮かんでいた。
カーレッジの返事も待たず、キテラはアトルシャンへ入り、ブレインの前を過ぎていく。
その後ろを、アケディアもついて行った。
「良かったんですか?」
「……仕方ねえだろ。あいつ、オレさまよりも頑固だからな」
カーレッジもアトルシャンに乗り込んで行く。
彼女でも押し切られることがあるのか、とブレインは感心してその後ろ姿を見る。
「ゼオルさん」
「うん?」
「顔色、戻りましたね」
ゼオルは不敵な笑みを浮かべてフッと笑った。
「アークは誰のものでもない。天界なんぞに渡してたまるか」
「その意気です。さあ、行きましょう。まだ二、三日かかりますからね」
「三日もかかるのか? 月と言うのは空に見えるあの月だろう?」
「距離はそれほどありませんけど、月は周ってますからね」
「どういう意味だ。月が動いているというのか?」
「あの、詳しい話はあとでしますから早く乗ってください。新しくわかったこともいくつかありますから」
ブレインは質問を続けようとするゼオルの背を押して、アトルシャンに押し込む。
全員が乗ると、アトルシャンは再び浮上し始めた。
ブレインは、ブラドたちも含む全員を、ひとまずは作戦会議室に集めた。
中心にあるホログラムや巨大な液晶の電源などは切ってあるが、今回久しぶりに使うことになる。
ほとんど全員が物珍しそうに設備を見ている。
この世界にはない技術で作られているため、見たこともないのは当然だろう。
床板の一部が開き、各々が立っているところに丸椅子がせり出してくる。
「みなさん、席についてください。それでは早速、作戦と情報の共有を始めたいと思います」
ブレインは液晶に月面の様子を映しだした。
灰色でクレーターだらけの表面に、光る海が見える。
それを拡大すると、天界人が縦横無尽に這いまわっている様子が分かる。
まるで生き物の死体に沸いた蛆のようだ。
「うへぇ……気味が悪いな」
ゴートが目を細めて言う。
「彼らは虫のように機能的な動きをしています。警備のようにも見えますが、ボクたちのように外から直接敵が来ることを予測している様子はありません」
「なぜわかる?」
カーレッジの問いに、ブレインは別の映像を見せる。
「これは隕石が衝突した時の映像ですが、彼らはクレーターに集まって、その傷を修復しています。おそらく、自分たちの住処を直すためだけに表面を這いまわっているのでしょう」
反応を見て、ブレインはさらに別の画像を出す。
月の断面図だ。
「これは月の断面です。ロストワンたちから聞いた天界人の性質を元にシミュレートして作ったので、実際とは異なる場合がありますが、共通する法則があります。彼らの巣は十層からなっており、小部屋と小部屋を繋ぐ通路が無数に存在します。アークくんはおそらく最も奥の、一番大きな部屋にいると思います。天界人はどうやらアリと似たような習性があるらしく、今回、アークくんが連れ去られたのも、何らかの理由で女王アリが不在となったからだと思われます」
「自分たちが王にはならないのか?」
「ゼオルさん、そこなんですよ。天界人は女王を除くと、オスの個体しかいないんです。アリの場合なら、他のメスが女王になることはありますが、今回はそれもできない。と、なると他所からさらってこなくてはなりません」
「ちょっと待て、アークは男だろう。いくら可愛らしい顔をしているからと言って――」
「そう。だから、この説は不自然です」
ロストワンから聞いた話はそのようなものだった。
他種族のメスであっても子を成せることは天界人であった頃の勇者カーレッジが証明している。
だから、天帝の血筋が欲しいのであれば、アークと何者かに子を作らせて育てるということが最適解ではないだろうか。
しかし、他に誰か連れ去られたという話は聞いていない。
「――剣がある」
カーレッジが口を開いた。
「天空の剣の力はお前らも知ってるだろ。変質の力でやつらは――お前らが言うところの――女王を作る」
「アークが女にされると?」
ゼオルが身を乗り出して言う。
「いや、剣は帝の血筋にしか使えない。本来なら帝が孕ませたいやつを選んで女にするために使うものだ」
「複雑な王政ですね」
「あくまでオレさまが見た時の話だが、実権を握っているのは天帝。二番手が天界の女だと思えばいい。だが、女だけいれば個体は増やせるから、天界人の意に沿わない天帝の存在は邪魔になる。だからまあ、アークが何らかの方法で丸め込まれて女を作り、交尾さえ終わればその時点で殺されるだろう。生まれる子供は種族的に男が確定してるし、血筋は絶えないからな」
「こ、交尾!? ア、アークがそんなバカなことをするはずがない!」
狼狽えた様子のゼオルが握りこぶしで机を叩くと、そこを中心にヒビが走った。
「それはどうだか。女さえいればアークを抑えつけて無理矢理子供を作ることだって不可能じゃ――」
「黙れ!」
ゼオルがカーレッジの頬を叩くと首がねじ切れて頭が吹き飛ぶ。
冷静に考えてみれば異常な状況だが、カーレッジがグロテスクな死に様を晒すことに、もはや誰も反応しなくなっていた。
「……とにかく、話を続けます。向こうの目的を考えるには、ボクらには情報が足りません。なので、これからやることだけを考えましょう」
次に出した映像は月とアトルシャンだ。
「今航行中のアトルシャンですが、強行突破形態を持っています」
説明しながら、アトルシャンが変形して巨大な杭のようになる様子を見せる。
無数の金属チップが形を作り出し、その表面には高エネルギー障壁が薄膜のように張ってある。
強固な守りを持つ宇宙戦艦ですら貫通できる、突貫兵器だ。
「敵陣を単身で強行突破するための形態で、その防御力には自信があります。まず、この形態で近づきながら牽制しつつ月面に穴を空けます。そこに、アトルシャンごと突っ込んで、皆さんを月の内部に直接放出します」
月の内部で先端を開き、無理矢理そこに出口を作る。
「その間、アトルシャンは大丈夫なのか?」
ゴートが当然の疑問を言う。
強引な侵入者を一斉に排除しようとすることは容易に想像できることだ。
「はい。この船にはグーラさんやホスロウ、とっておきの試作品たちもいますから、皆さんが帰ってくるまで守るのは造作もないことです。もしもの時のためにボクもここから離れられないので、実行部隊は皆さんにお任せします」
ゼオル、カーレッジ、ゴート、キテラ、アケディアの五人に向かって、ブレインは言った。
「天界人は恐ろしく強いぞ。そこの阿呆の夫婦はともかく、ゴートやアケディアはここに残った方がいい」
ゼオルは見下すような声色ではなく、真摯にそう言った。
「何言ってやがんだ。ここまで来てよ」
ゴートが当然のようにゼオルへ噛みついた。
「……正直に言おう。死者が出てはアークが悲しむ。我は誰も死んでほしくない。だから、できればここに留まっていてほしい」
「柄にもねえこと言って、おれを舐めてんのか?」
「違う。文句ならあとでいくらでも聞く。こらえてくれないか」
「ハッ。――お前は?」
ゴートがアケディアを見ると、肩眉を上げて首をかしげた。
「何か話でもしてた? 聞いてなかったんだけど」
「だとよ」
ゼオルにも分かっているはずだ。
ここにいる者で大人しく部屋でじっとしていられる人間なんていない。
「……わかった。どうにか死なずに済むように、さっさとアークを取り返して帰るぞ」




