もう手加減しないから
リンはハルワタートと共に、暗い通路を進んでいた。
道中で何人かの協会員を倒したが、枝分かれした道はなかなか最奥までたどりつかない。
彼を隊員に入れておいてよかった、とリンは噛み締めていた。
声を出さなくてもハンドサインである程度の意思疎通ができるのは、敵地に侵入するにあたって必須な技術だからだ。
闇に目の利くハルワタートが先を歩いていたが、急に立ち止まってリンへ待つように合図を出す。
何かいたのか、と見えにくい闇の中へ目を凝らすも、リンにはさっぱりわからない。
ハルワタートは、その場の天井を見上げると、何かを上へ打ち出して消えた。
縄か鎖か、自分の体を引っ張り上げたのだろう。
たとえ灯りがあったとしても気がつくことすら困難な縦穴が開いているようだ。
「……大丈夫だ。この辺にはもう敵はいない」
上から聞こえるその声に従い、リンも跳躍して、穴の壁に手足を張り出しながら、少しずつ上へ登っていく。
湿った石の感触を手に感じながら、穴の上までたどり着くと、そこはドーム状の空間になっていた。
「ここ、何?」
「わからない。だが、向こうに通路が続いている。まだ敵は見ていないが、奥にはいるかもしれない」
「どうするの?」
ハルワタートが眼帯を外す。
そこには眼球の代わりに水晶でできた義眼がつけられていた。
「サーチャーβ」
ハルワタートの背中から、小石ほどの大きさの眼球がまるで虫のように飛び出して周囲に浮かぶ。
その数は五十。
以前、彼から教えてもらったことがある。
この機械は一度に五十個の視界を得ることのできる装備なのだ。
動力源が魔力ではないため、感知するには視認するしかない。
加えてこの薄暗く湿った洞窟の中だ。
羽虫との違いを察せる者などいないだろう。
サーチャーは穴の奥へ向かって進んでいく。
「……いるぞ、敵だ。しかし、何だこいつらは」
ハルワタートが冷や汗をかいている。
彼に何が見えているのか、リンはもどかしい気持ちになった。
「サポート、頼める?」
「行くのか」
「そりゃ、もう今更引き返せないでしょ。敵にバレてない今以外、突撃なんてできない。それに、応援は頼んでるんだし、最悪時間稼ぎすればいいから」
戦闘に備えて呼吸を整える。
戦況を見極めるためにも、熱くなってはダメだ。
「気をつけろ、凄まじい数だ。僕が援護しよう。せめて、死なないように」
「ありがと。あなたのこと、信用してるからね」
ハルワタートがマントの機能を使って姿を消す。
リンは、さて、と氷結戦闘衣を起動する。
「第二段階、結晶展開」
リンの周囲に、魔力のこもった拳大の氷塊がいくつも浮かぶ。
(スタートの合図は、こっちから……!!)
向こうが仕掛けてきたのだ。
卑怯とは言うまい。
ドン、とリンは地を蹴って一直線に通路を抜けた。
その先は、さらに大きな洞窟の空間で、淡く光る人間たちの頭上に、リンは飛び出ていた。
無表情な顔で自分を見つめる無数の目に、リンは悪寒を感じたが、先手を打つべく、魔力を結晶へと込める。
「大氷結!」
リンの周囲へ無作為に飛び出した結晶が破裂し、その周辺数十メートルを一気に凍らせる。
ハルワタートの持っていた手榴弾からヒントを得た技だ。
これなら敵に直接当てる必要なく、凍らせることができる。
衝撃で吹き飛んだ敵の間に降り立ち、近くにいる人間を次々に気絶させていく。
しかし、妙な感覚は消えない。
なぜ彼らは驚きの声ひとつ上げずに、淡々と逃げ回っているのだろう。
襲撃を予見していたようには見えないところが、さらにその不気味さを引き立てる。
何か企んでいるのか、という疑念が脳裏にこびりついて離れない。
リンの拳に当てられた人間は、その超低温故に、気絶していなくともしばらく動くことはできない。
ひとりも逃がさないつもりで暴れまわっていると、突然、鋭く尖った殺気を感じて飛び退いた。
人の波の間を縫うようにして飛来した短槍が、リンの立っていた場所に突き刺さる。
目を凝らしていると、今度は背後に気配を感じて、リンは体を反転、裏拳を叩きこんだ。
キン、と甲高い音がして、リンの拳を受け止める。
「リヒト……!」
リンはその顔を視認しても尚、追撃を放った。
しかし彼も間合いをとって槍を構える。
戦闘時のリンの思考は、人間というよりも魔族に近い。
だから、物事をシンプルに捉えられる。
王の近衛兵であるはずのリヒトが、このような怪しげな場所にいる理由など、どうでもいい。
ここにいる以上、彼も敵だ。
「いずれはお前ともやり合うつもりだったが、まさか初戦からとはな」
「裏切ったの?」
「お前が裏切らせたんだろ!」
リヒトが怒りを露わにして叫ぶ。
「意味不明だし、邪魔だから眠っててくれない?」
「やってみろ!」
少し時間はかかりそうだが、他の者はハルワタートに任せてもいいだろう。
援護してくれているのか、周囲の敵をハルワタートの弾丸が仕留め続けている。
リンも腕を上げて、戦闘態勢をとる。
リヒトの武術は、王都で普及している槍術だ。
目の前にいる彼を見ても、特別変わったところはない。
間合いは彼の方が広いが、懐に入ってしまえばこちらのものだ。
「行くぞ!」
いつもは待ちが主体の彼が、槍を構えて突進してきた。
脅威となるような速さでもなく、リンは引きつけて躱すと、槍の穂先に手をかけ、勢いを殺しながら彼の体を自分の近くへ引き込む。
正確な鳩尾への一撃で、リヒトの体は、くの字に折れ曲がる。
「がぁっ……!!」
この一撃は、ダメージを与えるためのものではなく、呼吸を乱すためのものだ。
息が吸えなければ、次の攻撃を放つこともできない。
リンは流れるように足払いを放ち、リヒトから地を奪った。
背から地面へ落とし、握った拳で鉄槌を鎖骨へ振り下ろす。
ゴキ、と軽快な音と感触がした。
「私の勝ち。次立ったら、もう手加減しないから」
鎖骨を折られては、腕が上がらずまともに槍など振れない。
しかし彼は、浅い呼吸を繰り返しながら、四つん這いになってでも立ち上がった。
「……勝ち、だと? 手加減、だと? いつまでも調子に乗ってんじゃ――」
立ち上がった彼を、躊躇なく殴り飛ばす。
「二度は言わないわ。……立つな」
もう、立てるダメージではないはずだ。
彼はそれでも、立ち上がる。
「だから、俺は、グローリアさまに着くことにした。人間の体じゃ、お前には勝てない」
彼の体を、光の粒子が包む。
肩甲骨の辺りに集まったかと思うと、そこから四本の細長い腕が生えた。
「リン! 俺は人間を超えた! お前を殺す!」
「……純粋にキモいわそれ」
リンも天界人の魔法というものは軽くしか聞いていないが、光の力で魔法とは違う発想の現象を引き起こすらしい。
それにしても、悪趣味だ。
それぞれに光から生まれた四本の槍を握り、彼は前傾姿勢になってリンへと走り出した。
リンにしてみれば、たかが四本だ。
魔族にだって腕が四本ある連中はいる。
そういう奴らを相手に訓練を繰り返していたのだから、恐れは感じていない。
槍を躱し、すれ違いざまに殴って凍らせる。
所詮は腕なのだ。
槍が浮いて襲い掛かってくるわけではない。
二本、三本と躱し、一気に本体まで踏み込む。
四本目が頬をかすめて、浅い切り傷が入るも、怯まない。
リンは懐に入り込むと、指先で切るようにして、目つぶしを放った。
氷の刃は指を覆う程度でそれほど長く伸ばせないが、眼球程度なら傷つけられる。
彼は、目を覆って丸まった。
その隙を見て、リンは彼の顎を殴り上げる。
血の飛沫が、辺りに散った。
――やりすぎだとは思わない。
これは試合ではないのだから。
目の潰された彼は、出鱈目に暴れ始めた。
振り回す四本の腕で、周囲にいた彼の仲間でさえ、紙屑のように飛んでいく。
「リン! よくも! よくも俺の目を!」
「人間を超えたやつが視力失ったくらいで文句言わないで」
「アアアアア! まだだ! もっと! もっと力を!」
光の粒子が、より強く発光して彼の体を覆う。
もはや、対称性などなく、体のあちこちから腕を生やし、槍を持つ。
「バカ……」
増やせばいいというものではない。
見るからに、腕同士が絡まりあい、干渉し合っている。
これではまともに戦うなど夢のまた夢だ。
「殺したくなかったけど、殺さないと止まらないみたいだし、それ以上人間離れした姿も見たくないし……」
氷結戦闘衣の段階を、もうひとつ上げる。
『第三段階』は持続性が極端に短い。
これで決めてしまわなければ、逃げることもできない。
「俺と戦ええええええ!」
叫ぶ彼に向かって、リンは跳んだ。
腕が絡まり合い、動けなくなった彼に、正面から拳を叩きつける。
「――『氷華』」
まるで空気までも凍ってしまったかのような、巨大な氷の華となって、ようやく彼は静かになった。
「あんたの家族は、なんとかして生活していけるように頼んでみるから……」
リンは氷の表面に手の平で触れて呟いた。
戦いに憑りつかれたような男だった、と息を吐いて周囲を見回す。
たくさんいた人の群れが、いなくなっていたことに気がついたのは、その時になってだった。
「……どうなってんの」
そういえば、ハルワタートの銃の音も聞こえない。
ここには、自分とリヒトしかいない。
戦っているうちに場所を飛ばされたのだろうか、と景色を見ても、暗くてよくわからない。
「ハルワタート!? いないの!?」
声は空しく響き渡り、返事はない。
「――誰もおらんよ」
リンは声のした方を見る。
地面が光を放ち始め、その相手を照らす。
「大導師グローリア……!」
「混血の娘よ。少々場所を移させてもらった。こいつが、どうしてもお前さんとやり合いたいと言うのでな」
「それなら、もう終わった」
グローリアの姿が消え、凍ったリヒトの隣へと移動する。
これがアークを連れ去った魔法か、とリンは警戒して距離をとって拳を構えた。
「まだ、終わってはおらんよ。人を凍らせることができても、光を凍らせることは、誰にもできない」
「……何を言ってるの?」
完全に氷の中に閉じ込めたはずのリヒトの体が光を放っている。
グローリアはそれを誘導するようにして地面へ触れる。
すると氷を突き抜けてそこへ降り立った、光の粒子が、人の形を作り出した。
「光の戦士リヒトよ。あれはお前の宿敵だ。さあ、戦え」
「あれは、敵……」
状況を理解していないのか、リヒトは頭を抱えていた。
「何、だ。誰、だ。俺は、戦う?」
「そうだ。戦え、リヒト。そのためにお前は妻子をその手で殺したのだろう」
「妻と、子……。ヘレンと、リディア……。俺は、力を得るために、ふたりを……」
「全てはあいつを殺すため。わかるか、リヒト。やつは仇だ。殺せ。さあ、殺せ!」
リヒトは光輝く槍を構えて、リンを見つめている。
形態が変わったからといって、リンはまだそれほど脅威を感じなかった。
――それは、間違いだった。
脅威も危険も感知することすらできず、腹部から流れ出る血液を見て初めて、大きすぎる死の影に、気がつくことができたのだ。
「……え?」
光となったリヒトは、まるで雷のような速さで移動していた。
リンは迎え撃つ形で拳を振るっていたが、タイミングはあっているはずなのに、相手の反応が早すぎて空を切ってしまう。
肉体がないというだけで、これほどまでに差が出るものなのか。
リヒトは、怒りも笑いもしなかった。
淡々と、接近と後退を繰り返し、拳の間合いの外から槍での攻撃を続けている。
(ヤバい……。これ以上、血を流したら……)
リンの氷結戦闘衣は血を食って魔力を生み出す。
流血した端から傷を凍らせているが、段々と体が重くなってきている。
このままでは失血死も時間の問題だ。
「ねえ教えて! アークは無事なの!?」
「心配せずとも、彼は我々にとっても大切な人物だ。安心して死ぬがよい」
リンの懐から一体のサーチャーが飛び立つ。
安全を保証できるかどうかはわからないが、これでアークがまだ生きていることはわかった。
ハルワタートの元へアレが帰れば、こちらの場所も割り出せるだろう。
「アーくんの無事もわかったことだし、じゃあ、せめて、あいつだけは私がやっておかないといけないってことよね……」
空中に浮かんで様子を見守っているリヒトを見て、リンはため息をついた。
こんなところで使うことになるなんて思わなかった。
しかし、助けられる可能性のあるうちでよかった。
アークが死んでいたら、なんて想像もしたくない。
「リヒト、あんた、私に本気で戦ってほしがってたから、見せてあげる。最初で最後の本気よ。最終段階、全力稼働」
――『最終段階』。
その名の通り、最終手段だ。
氷結戦闘衣の安全装置を取り外し、決壊した洪水のごとく血を食う。
一度発動したら、途中で止める方法は、ない。
リンの周囲に濃い霧が漂い始める。
何かを感じたのか、リヒトはリンめがけて突撃した。
霧に触れた次の瞬間、リヒトの光の体が、氷塊となって地面に転がった。
「光は凍らないって言ったわね。それ、間違いよ。光すら飲み込む氷結世界の恐ろしさ、とくと味わえ」
リヒトは氷を割って復活を測る。
しかし、その端から体が凍る。
ばらけた光の粒子は凍らないかもしれないが、人の形をとろうとすれば、その瞬間に固まる。
さらに、リンはリヒトを包むようにして、球体の氷を発生させた。
破壊を防ぐため、バラの花弁のように、氷の壁が何十にもそれを囲う。
「『永久凍球』。その中で、あなたは永遠に氷結と融解を繰り返し続ける」
昔、無限に再生を繰り返す砂の魔族と戦った時に思いついた技だ。
これから逃げられた者はいない。
リンはグローリアに向けて歩みを進め始めた。
「次は、お前だ」
「わしは凍らされるのは御免なのでな。逃げるとするよ」
踵を返そうとしたところへ、リンは飛びかかった。
「――なるほど。先に足を凍らせていたのか。時間の使い方の上手いやつだ」
話しかけた時に注意をそらして、地面に氷を伝わせていた。
どうやって移動しているかはわからないが、ただの老人相手を始末するだけなら、五秒もいらない。
リンが着地と同時に踏み込んで、拳を振るおうとした時、突然頭部に衝撃を感じてぐらついた。
「ぐ……」
グローリアはいつの間にか、光でできた金槌を持っていた。
その金槌で殴られたのか、リンの頭部は、右半分が砕けていた。
氷結戦闘衣が血を吸い続けているせいで、頭部は魔族のように氷になっており、血は出なかった。
「ほう、その装具を使っている間は、魔族の方へ寄っているのか。父親に似ている」
彼が何を言っているのか、頭に入ってこない。
早く殺さなくては。
「もう無理じゃよ。この通り、脱出した」
グローリアは、瞬きをする間に、場所を大きく移動している。
早いなどというレベルの話じゃない。
「待て……」
急いで走ろうとしても、頭が半分吹き飛んでいるせいか、まっすぐ動けない。
気持ちが悪い。
天と地が回転して、自分が今どこにいるのかわからない。
少し時間を置いて、猛烈な寒気が襲ってきた。
血を失い過ぎた証拠なのだが、もう、それすらもわからない。
(あれ……。眠ってた……?)
たしかに横たわっているのに、地面の感覚がない。
「あ……う……」
声が出ない。
手も動かない。
(立たないと……)
地面から光が発せられていて、岩の色が見える。
――思えば、長いオマケだった。
あの時、町の人間に嬲られ、生きていることすらわからないほどに惨めな人生を送っていた。
ゼオルは助けた気などなかっただろう。
幼いアークに気に入られたから、屋敷で育ててもらうことができた。
リンに対して、ゼオルは恩を着せるようなことを何も言わなかった。
アークに『同年代の子供』という玩具を与えた感覚だったに違いなく、リンは自分で恩返しの方法を考えなくてはならなかった。
アークとゼオルの関係を羨ましいと思ったことはない。
ずっと自分は一線引いて立っていた。
姉のように慕われたって、自分は家族じゃない。
血のつながりだけが家族ではない、と幸せな人は言うだろう。
たしかにそうだ。
しかし、実感として、それを受け入れるのは難しいものだ。
アークですら、それは感じているはずだ。
だから、付き合い方も考えないといけない。
だから、好きだなんて、言ってはいけない。
アークと結婚できたら、本当の家族になれたのに。
毎日一緒に、食卓を囲んで、ブラドの手料理なんかを食べて。
たまには、料理をしてみるのもいいかもしれない。
あまり多くのことはできないけれど、アークはきっと喜んでくれるだろう。
ゼオルは、きっと建前を言うことなくダメ出しするだろう。
それは、リンにとって幸せな光景だった。
誰に言われたわけでもなく、自分で一緒に暮らすことを禁止したせいで、がんじがらめになっていた。
無意識に、自分のような人間は幸せになってはいけないと思っていたのかもしれない。
今となっては、全て泡沫、夢の話となってしまった。
――ひとつひとつ。
体の機能が停止していくのを感じる。
冷たく、固くなっていく。
呼吸が長く、浅くなる。
指先も動かなくなってきた。
その無力感が、今はなぜだか心地いい。
溶けていく本能に体を預けようとした時、頬を何かが撫でた。
ほとんど残っていない視力で、自分の傍らに屈むアークの姿を見た。
それは夢か幻か。
――いや、どっちでもいい。
最後に見られる景色としては、最上じゃないか。
リンは静かに目を閉じると、二度と意識を取り戻すことはなかった。