私への当てつけ
祖父の話をしながらしばらく歩くと、小さな診療所が見えてきた。
「本当にここですか?」
なんと小さなところだろう。
高名な人間なのだから、もっと大きな病院に入院していると思っていたルフレオは驚きのあまり、つい口走っていた。
失礼であることに気がつき、慌てて口を閉じるも、リンがため息をつく。
「すみません。病院の大きさとお医者さんの手腕は別の話ですよね」
「いや、あなたの感覚は正しいわ。王都じゃこんな小さな診療所はないでしょう。それに、いくら腕が良くても設備や病床の問題もあるだろうし」
「いえ、そういうわけじゃ……」
思った以上に深くとられてしまい、恐縮する。
「とにかく入りましょ。ジャイジルさんも待っていることでしょうし」
診療所の扉を開けると、一気に雰囲気が変わった気がした。
空気感というか、匂いというか、上手く言い表せないが、とにかく外とは別の空間のように思えた。
診療所の中は簡素なベンチのある待合室で、奥はまた別の扉があり、右手にはカウンターがあり、その奥には棚に並ぶ薬瓶が見える。
そこから、ひとりの老婆が布で手を拭きながら出てきた。
「はいはい、お客さん? ――おや、アークかい」
「こんにちは、フルトン先生。ジャイジルさんのお見舞いにきました。こちらはお孫さんのルフレオさんです」
ルフレオは慌てて会釈する。
優しく柔らかな笑みを浮かべているこの女性がこの診療所の医師なのか。
「はじめまして、ルフレオさん。ジャイジルさんは先程目を覚ましていましたよ。ささ、こちらへどうぞ」
フルトンについて、奥の扉から廊下へと進むと、個室のベッドで上半身を起こして本を読む白髪の祖父がいた。
以前よりも痩せて、目の周りは特に深く窪んでいる。
しかし、青い目だけは健在で、ルフレオに気がつくと、視線を向けて不機嫌そうに片眉を上げた。
「……教えたな、フルトン」
「当たり前じゃないですか。最後くらい家族と過ごしなさい」
フルトンは怒ったように言う。
どうやら祖父は何も知らされていなかったようだ。
「お爺ちゃん、身体はどうなの?」
祖父はフン、と鼻を鳴らした。
「どうもこうもない。もうじき死ぬ」
「そんなこと言わないでよ」
「言わなくとも死ぬ。生まれたからにはいつか死ぬものだ。それほど特別なことではない」
頑固者の祖父は、そう言って視線を本へと戻す。
ルフレオは呆れて頬を膨らませていると、アークがジャイジルへと紙袋を差し出した。
「ジャイジルさん、これ、いつものです」
ジャイジルは「ん」と短く返事をしてそれを受け取る。
「それ何が入ってるんですか?」
「お菓子ですよ」
「お菓子!?」
ルフレオが大きく反応すると、ジャイジルは煩わしそうに睨んだ。
「うるさいやつだな。何を食べようと俺の勝手だろ」
「いや、でもお爺ちゃん、お菓子嫌いだったじゃん。甘いものなんて脳が溶けるとかわけわかんないこと言って」
昔、誕生日にお菓子を焼いてあげたことがあったが、その時も食べることなく突き返された。
受け取ってくれなかったことは悲しかったが、祖父が甘いものを嫌いなことを知っていたのに、自分がそうしてしまったこともまた、ショックだった。
そんなことを思い出し、少しムッとして、何を食べてるのか暴いてやろうという気になった。
「だいたい、何のお菓子食べてるの? 私のお菓子は食べなかったくせに」
「おいよせ」
ルフレオは無理矢理祖父の元から袋を取り上げ、中を見る。
中に入っていたのは、ふたつのスコーンだった。
しばし、言葉を失った。
なぜならスコーンは、自分が祖父の誕生日に作ったものの、食べてはもらえなかったお菓子だからだ。
「返せよ」
手を伸ばすジャイジルから、ルフレオは一歩離れた。
怒ってますよ、という顔をしていると、ジャイジルは、大きなため息をついた。
「なんで? 私への当てつけ?」
「違う、そうじゃない」
「お店のは食べられるけど孫の作ったものは食べられないってこと?」
年輪のように刻まれたシワが歪む。
それを見て、少し言い過ぎたかと怯むと、ジャイジルは話し始めた。
「聞け、ルフレオ。あれは、俺も悪かった」
「俺も?」
「……俺が、悪かった。死ぬ間際になって、一番後悔していることと言ってもいい。――だから、どうしても食べたくなってな。アークに頼んで買ってきてもらっている」
ジャイジルは話しながら恥ずかしくなったのか、窓の外へ顔を向ける。
ルフレオの頬を、一筋の涙がこぼれた。
ジャイジルがそう思っていたこともだが、あの頑固な祖父が、こうして昔の行いを悔やんで取り戻そうとしている姿が、なぜだか悲しくなった。
ずっと、強いままでいて欲しかった。
後悔や懺悔とは無縁な祖父であって欲しかった。
ルフレオにとって祖父は太い根を持った大樹だったのだ。
病気になって、小さくなった祖父は、人間だった。
自分と変わらない、ひとりの人間。
がっかりしたとも違う、空虚な感覚を持った。
もう、強くて頼れる祖父はどこにもいないのだ。
ルフレオは涙を拭うと、祖父に向けて言った。
「……お爺ちゃん、私がスコーン焼いたら食べてくれる?」
「……ああ」
「わかった。うんと美味しいの、作るね」
不意に、ルフレオはいつのまにかアークとリンが部屋にいなくなっていたことに気がついた。
なんともまあ、気の使い方が上手い人たちだ。
「それにしても、お前がアークと知り合いとはな」
「知り合いっていうか、さっき会ったばったかりなんだけど。お爺ちゃんはどこで知り合ったの?どう考えても子供とは会う機会ないじゃん」
「星導教会にいてな。あれでなかなか勤勉で見所のあるやつだ。大導師からも可愛がられている」
「大導師さまからって凄い人なんだね。でも、なんか分かる。みんなに好かれてそうだよね」
「人の手助けを得ることが上手いのだろう。だから、能力以上のことも成し得ることができる。人の上に立つための才がある、と言い換えてもいい」
「そんな大げさな」
「そうでもない。事実、王都の人間でもほとんどが顔見知りだ。あの年でそこまでの縁故を持っているなど、想像できまい」
ルフレオは舌を巻いた。
あの普通そうな少年を、決して人を褒めることのない祖父がそこまで言うとは。
「……ん? あの子、よく王都に行くの?」
「一年に二、三度らしいが、俺も詳しくは知らん。アークの義母があまり外部からの干渉を望んでいないからな」
「庇護欲の強い人なの?」
「見た限りでは。このフェルガウには王都で大成を為した人間が多く住んでいる。この診療所のフルトンだってそうだ。王宮の看護隊長で、広間に肖像画もあるくらいの立派な人だ。しかし、それでもあの家には干渉できない。ここはそういうところなんだ」
「何?偉い血筋なの?」
「――勇者の血筋だ」
ルフレオは返事に詰まった。
勇者の位は、どこぞの貴族とは少し事情が異なる。
人類史に名を刻む勇者カーレッジは、誰もが学校で習う英雄だ。
彼は地位も名誉もいらぬと王へ告げ、小さな土地をもらって暮らしていた。
その土地については詳しく習うことはなかったのだが、ここが、その勇者の眠る土地だったのだ。
「王都の学者連中なら誰もが知っていることだ。しかし、ここへ移り住むには複数の厳しい条件がある。金では解決できない、人格の保証がな。俺を含めて、勇者カーレッジを神聖視する者はたくさんいる。その膝下で、最後を迎えたいんだよ」
「お爺ちゃんがなんでこんな田舎に来たがったのかわかったよ。でも、そっか。アークくんって、勇者の子孫だったんだ」
「それでも、普通の子供だがな」
普通の子供が、王都で学者たちと縁を繋ぐことなんてできようか、とルフレオは思って笑ったが、ふと、ひとつの疑問が浮かんだ。
「じゃあ、ご両親が、ここの首長?」
「いや、両親はいない。病気ですでに亡くなっている」
「え、それって、今の首長、アークってこと…?」
まだ成人もしていなさそうな子供が、この聖域とも言えるフェルガウの首長なのか。
「そうだ。しかし、権力を行使するタイプでないのはお前も感じただろう。あの子は、自分の人徳だけで成り上がることができる人間だ」
「それは、そうだけど、でもなんで王都の会議には来ないの? 見たことがないんだけど」
「さっきも言ったが、義母がいる。政治に関わらせたくないという方針なのかもな」
だからと言って、王の招集を断る権利を持つわけではないだろう。
「させたくないで通るものじゃないでしょ」
「その義母は、おそらく、王よりも立場が上なんだろ」
「わけわかんないんだけど。王は最高位じゃないの?」
「今はな」
ジャイジルは、それっきり口を閉ざした。
何か知っているのだろうとは感じたが、話す気はなさそうだった。
ルフレオは思案して、その日の夜、宿で炊事場を借りることにした。




