さよなら
十五日後、フェルガウのはずれの古屋敷には、たくさんの人が訪れていた。
通いやすいように、ゼオルが森を焼き払い、新たに道を敷いた。
倒壊の危険があった屋敷も完全に取り払い、地下へ続く階段を囲うようにして、新しい屋敷を魔法で作った。
出入口では、ゴートがやる気なく入場者からチケットの半券を受け取っている。
客の流れはそのまま地下へと続き、客席はすでに満員、席が足りずに立ち見が発生しているくらいの有様であった。
普段からみんなに奉仕してきたリンのためなら、と足を運んでくれる人がこれだけたくさんいたのだ、とドルジが感動のあまり涙ぐんでいた。
アークは、舞台の袖でマリーと話していた。
これから、二時間もの間、マリーはたったひとりで歌劇を行う。
楽器やそれを演奏できる人間はこのフェルガウではあまり見つからず、それこそピアノくらいのものであったが、それだけでも音があると違って見える。
「もうそろそろですよ、マリーさん」
開始の時間を告げると、マリーは不敵な笑みを浮かべていた。
緊張など欠片も感じていなさそうに、堂々としている。
「何も問題はないわ。わたくしの歌を聞いて、感動しなかった人間はいないもの。今までも、そして、これからもね」
自信を裏づけられるだけの実力は持っている、とその表情が物語っていた。
アークは袖の奥へと下がった。
もうそろそろ幕が上がる。
今日限りの、彼女のためだけの舞台が始まるのだ。
屋敷の外で、ゴートは座り込んでいた。
歌には興味がなく、地下のような辛気臭いところでじっと座っているのも苦痛だったため、進んで外の警備を買って出た。
その役目は、アークが言うには誰でもいいわけではないらしい。
「……なるほど。なるほどな」
ゴートは小さく呟きながら立ち上がり、腰についた土を払った。
亡霊につられて亡霊が集まって来るかもしれない、と聞いていた。
森の中の地面が盛り上がり、腐った体を持つ死者たちが、続々と起き上がってくる。
ゴートは『鋼鉄の戦神』の呪文を唱えて、自身の周囲に四本の剣を浮かべる。
そして、まだ完全には立ち上がる前の死者へ向けて剣を飛ばし、軽々と頭を粉砕する。
しかし、すぐに起き上がり、頭のない体で、よたよたとゴートへ向かってくる。
「すごい生命力だな。生き返って来る死体なんてものは初めて見たぜ」
周囲を覆う敵の数は、おおよそ三十といったところだろうか。
「合法的にぶっ殺しまくれる久しぶりの機会だ。公演が終わるまでの間、付き合ってもらうぜ」
ゴートの剣が、日の光に反射して、鈍い輝きを放った。
マリーの歌劇は、滞りなく終わりを迎えた。
決して大きいとは言えないこの劇場は、家族や友人らを招いて舞台の練習をするために父に作ってもらってものだ。
しかし、設備はすべて一流の本物、今ここに座っているお客さまたちも、一流の本物だ。
舞台に立っていると、この空間に存在するすべてが一体となっていく感覚がする。
客がいなければ、芸は完成しない。
マリーは幽霊としてよみがえって、ずっとひとりで唄っていた。
しかし、ここから出ることのできない霊の体では、その声は誰にも聞こえることはなかった。
この女性が屋敷を訪れてくれて、嬉しかった。
そして、少し欲が出た。
もっとたくさんの人に声を聞いてほしい。
叶うことのない願いだと思っていたが、少年のおかげで、私はここで歌えている。
そう、私はここにいる。
身体が朽ちても、歌は朽ちることはない。
永遠に、人々の心に残り続ける。
その身に万来の拍手を受けながら、マリーは礼を言おうと、袖からこちらを見ていた少年の方を向いた。
「――――っ!」
その後ろに立っている両親の姿を見て、息を飲んだ。
両親は微笑んで、そして、満足したように霧散する。
マリーは唇を噛み締めて、涙を流した。
これほど幸せなことがあるだろうか。
すべての物が、自分の歌と共に存在する。
なんという美しい世界だろう。
幕が降りて、マリーは言った。
「ありがとう。わたくしのために、これほど尽くしてもらったこと、いくら感謝してもしきれないわ」
「いえ、こちらこそ、素敵な歌をありがとうございました」
「そう言ってもらえると、唄った甲斐があるというものだわ」
マリーは胸を張って言う。
ひとりの満足も、百人の満足も、価値は変わらない。
等しく尊いものである。
「この娘の体、約束通り返すわね」
「もう、いいんですか?」
そう聞いて、マリーは笑った。
「おかしなことを聞くのね。取り返すためにこんなことをしたのに」
「リンさんの体を返してほしいのは本当ですけど、だとしてもあなたをないがしろにしていいわけではありませんから」
少年は優しい表情を見せる。
マリーはどきっとして、口を尖らせた。
「……ふーん。あーあ、わたくしが生きていればあなたにせまったものですけど。残念ね」
「あはは、お世辞でも悪い気はしませんよ」
「……可愛くないわね。なんだか手慣れてる感じ」
「すみません……」
神妙そうにする彼に、マリーはフッと笑う。
「じゃあ、わたくしは逝くわ。両親も待っていることですし。会う機会は、もうないでしょうけど、もしまた会ったら、今度は何かお礼をさせてもらうわ。――――さよなら」
マリーは、自分の体がふっと軽くなる感覚がした。
音が消え、視界が霞み、すべてが白い光に包まれる。
思考が、水に溶けた絵具のように、広がっていく。
カーテンコールもない世界で、マリーの意識は幕を閉じた。
劇が終わると、客と入れ替わるようにしてゴートが控室へ来た。
「おい、終わったのか」
その様子を見て、ゼオルとブレインが眉をひそめる。
「なんだお前。臭いぞ」
「これ何の臭いですか?」
「山の中から腐った死体が生えてきたんだよ。なんだったんだあれは」
「死体? 死体が動くわけないだろう」
ゼオルが馬鹿にしたように笑う。
「本当だって! アークに聞いてみろ!」
「帰ったらお風呂入りましょうね」
「お風呂には入りたくない!」
「臭いですよ」
「ううううう!」
ゴートが唸った。
風呂に入るのはあまり好きではない。
石鹸が目に入ったりして痛いからだ。
「さて、我々は帰るぞ。あとのことは護衛隊にすべて任せてある」
「リンさんは大丈夫だったんですか?」
「アークが何も言ってこないということは、大丈夫なのだろう」
そう言うと、ブレインがむっとした。
「……もう少し、気にかけてやってはいかがですか?」
「何を言うか。これでも充分に気にかけている」
「ゼオルさん、人を心配する気持ちが無さすぎるんですよ。アークくんと差がありすぎます」
ゼオルは何も言葉を返さず、ただ肩をすくめた。
リンはマリーがいなくなると気絶して、そのままドルジに担がれて帰った。
目を覚ましたのは、すっかり月が真上にあがるころである。
何があったのかはアークから聞き、書面にまとめられた報告書も読んだ。
しかしながら、まったく覚えていない。
すっきりとしない気持ちを抱えたまま、窓から外を眺めていた。
(もったいないことをしたなあ)
今一番悔やんでいることは、それほど立派な歌劇を、この目で見ることができなかったことである。
二度と聞くことのできない、悲劇の歌姫マリーの歌声。
屋敷の情報に載っていなかったとはいえ、誰も彼女の名前を知らないというだけでも驚きであったし、あの著名な女性に体を乗っ取られたのは、まったく嫌ではなく、むしろ誇らしくもある。
「あー、悔しい……」
いくら悔やんでも、時間は戻らない。
夜空の星を見上げていると、ふと、心の中に歌が響く。
無意識に口から流れ出し、夜闇に消えていく。
それは、耳に心地よい、透き通るような恋の歌であった。