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「……旦那、なにやっとん?」


 最大の非常事態だというのに妖精はノンキだった。

 俺の目の前を飛蚊症の幻のように漂っている。


「なにって、リンに見つかっちまったじゃねぇか! 覗いてるのがバレるだなんて、聞いてねぇぞ!」


「いや、バレてへんよ」


「なに?」


 リンに注意を戻すと、舞台女優のような大仰な動きで肩を抱いていた。

 真っ平らのはずなんだが、胸を隠そうとしているようだ。


「ここは女子のシャワー室だよ?

 それにまわりには、警備の人がいっぱいいるはずなのに……。

 命の危険を顧みず、こんな所に忍び込んでくるだなんて……。

 そうまでして、ボクに会いたかったの……?」


 その芝居がかった一言で、リンの意識はこちらにはないというのがようやくわかった。


 俺に気づいたように見えたのはただの偶然……目の前のリンは、何やらひとり芝居をしているようだった。


 ……こういうの、よくやるよな。


 電気の紐を相手に大立ち回りをするのに始まって、風呂では必殺技の練習、そして布団の中ではヒロインとの逢瀬……。

 誰しもが歩む、甘美な妄想の道。この上では、誰もがヒーローで、誰もがヒロインになれるんだ。


 特にすることのない場所であればあるほど、捗るんだよな。


 リンが今繰り広げているシチュエーションとしては、シャワーの最中に俺が忍び込んできた所なんだろう。 

 なんで俺が、命をかけてまでリンに会いにいっているのかわらねぇが。


 リンは、本人がすぐ側にいるとも知らず……空想で生み出した俺に対し、警戒するように身体を縮こませていた。

 しかし透明の俺は問答無用とばかりに肉薄し、いきなりタイルにダンと手を突いたようだ。


 「キャッ」と首をすくめるリン。

 そして見えない俺の手によって、アゴを持ち上げられたかのように……クイッと上を向いていた。


 一体なにをやっているのかと思ったが、


「リンのヤツ、三十郎から壁ドン顎クイをやられている妄想中のようやな」


 妖精の解説で理解した。


「三十郎って……やっぱり、やる時はやるんだね……。

 最近のキミは、小学生の頃みたいにギラギラしてる……。

 そんな子供みたいなキミは、一体ボクになにをするつもりなの?」


 また、やけにクサい台詞だ。


 それに対してエア俺が何かを言い返したのか、リンは訝しげな顔になる。

 しかしそれも一瞬だけで、心を許したかのように寄り添った。


「えっ、ボクとキス……したいの? ……うん、いいよ。

 結婚はおあずけだけど、キスくらいだったらいつでもしてあげる。

 三十郎のキス専属になってあげてもいいよ。

 三十郎がキスしたくなったら、ボクにするの……。

 朝の通学路でも、お昼の教室でも、夕方の校門でも……。

 いつでも、どこでもいいよ……うちの学校でもやってる子、いるでしょ?

 それと同じ……」


 我が校のスクールカーストにおいて上位のカップルは、多くの人が往来している通学路でも、時には授業中であっても平気でチュッチュしている。

 どうやら、それをしたいらしい。


「したくなったらいつでもしていいよ。

 水を飲むみたいに気軽にボクを抱き寄せて、チュッ、って!

 そのかわり、ボクもしたくなったらするよ? 三十郎に飛びついて、チュッ、って!

 ……いい? いいの? へへっ、決まりね!」


 リンは照れ隠しをするような笑顔でペロッと舌を出したかと思うと、


「じゃあまず、最初の一回……ん……っ」


 キス顔を、背伸びするように近づけてきた。

 またしても偶然に、見ている俺にキスをねだるような形になってしまう。


 俺は俺で、まるで吸い込まれるかのようにリンに顔を近づけていた。

 無意識のうちに、アヒルみたいな口になって。


 ふと視界の隅に、妖精が入り込む。


「……旦那、なにやっとん?」


 本気でVRゲームを遊んでいる人を案じるような表情をされて、俺は我に返ってしまう。

 とっさにバンダナを引き上げてしまった。


「……あれ? どないしてん急に?」


「い……いや、視るのはもういいかな、と思って」


「ふぅん、でもなんでそんな茹でダコみたいな顔になっとるん?」


「ちょ、ちょっとシャワーの熱を感じたのかな?」


「はぁ? ……まぁええわ。それより次はシキのほうを視てみよか」


 妖精がそれ以上突っ込んでこなくて助かった。


 俺は火照りを感じる顔を隠すように、再びバンダナを降ろす。

 広がった世界は、またしても狭かった。


 あたりはタイルばりの、湯気たちこめる小部屋だった。

 まさか、風呂……!? と期待に満ちて湯船のある方を見ると、あのシキが、ちょうど身体を沈めている所だった……!


「おっ、ついにシキの風呂場まで視れるようになったんやね!」


 これには俺以上に、テュリスも食いついていた。


「風呂場みたいなプライベートスペースは視るのが難しいんや! いちばん難しいのはトイレやけどな!

 たいして仲良うなってないうちから視ると、アタリのエロゲーみたいになるんやけど……そうなってへんってことは、大進展やでぇ!」


 アタリのエロゲーってはよくわからんが、鮮明さとしてはじゅうぶんだ。

 リンほどではないが、PS3クラスの表現力はある。


「これは……シキが俺に好意を抱いているといっていいのか?」


「せや! まぁ、彼女にできるほどの好意かどうかわからんけど……。

 風呂がこれだけ鮮明に視えるのはなかなかやで!

 これやったら、貸し切りの混浴に誘っても一緒に入ってもらえると思うで!」


 シキと、混浴ができる……!?

 俺は胸の高鳴りを抑えつつ、湯船を覗き込む。


 ガン見されているとも知らず、入浴の気持ちよさに「はぅ~」と安堵のため息をついている、無防備なアイドル声優……!

 いま俺は、ファンにとっては天変地異が起きても観ることのかなわないモノを、目の当たりにしているのだ……!!

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