058
誰もが憧れる顔が、間近にある。
女神とも崇められた、神々しいほどに整った顔が。
そして選び抜かれた男しか触れることの許されない身体を、抱いている。
まさしく女神ともいえる、同じ人間でないと確信できるほどの柔らかい身体を。
そして、熱でうなされているかのような一言、
「た……たすけ……て……!」
熱い吐息が、俺の鼻先にかかった。
おそらく昼のおしゃべりに備えて口臭予防を執拗にしたのだろう、強いミントの香りがした。
俺は、女の子の魅力がぎっしり詰まったものを一気に浴びているせいで、意識を手放しそうになっていた。
状況が状況だったら、ミュータントに変貌していたかもしれない。
が、必死に自我を保ち、当初の目的を遂行する。
乱れていたブラウスの背中から手を突っ込み、妖精を探す。
シルクみたいな触り心地の柔肌。
一瞬、ブラのホックに触れたような気がして即死するかと思ったが、なんとか妖精を掴み出した。そのままズボンのポケットにしまう。
「よ、よし、取ったぞ!」
しかしシキの耳には届かなかったのか、俺を突き飛ばすようにして離れていった。
「もう、いやあぁぁぁーっ! なんで、なんで誰も助けてくれないのぉっ!?
誰か、助けぇて! お願い! お願いだからぁっ!」
洗脳から解き放たれた怪物のように、さらに狂ったように暴れはじめる。
とうとうテーブルの側からも離れ、イノシシのごとく壁に体当たり。
そのまま泥遊びするかのごとく壁面に身体をこすりつけ始めた。
もう完全に我を忘れているようだった。
「シキ! もう大丈夫だ! ゴキブリは取った!」
「シキちゃん! 三十郎がゴキブリ退治してくれたよ! だからもう落ち着いて!」
俺とリンが揃って呼びかけたのだが、駄目だった。
壁をゴロゴロと転がりながら、
「あぁん……ううっ……うわあああああああーーーーーーーーーんっ!」
とうとう幼子のように泣きじゃくりはじめた。
イヤイヤをするように振り乱す顔。
真珠のような光の粒が、目の端からあふれ出る。
それは、はらりはらりと花びらのように散り落ち、宙を舞う。
ぴちょんと床に落ち、ミルククラウンのようなしぶきをあげた。
女の……涙。
それは、ひとつぶで大爆発を起こす、ニトログリセリンのような存在。
それは、四十六億年前から変わらない、絶対不変の最強兵器……!
俺の足元から大噴火が沸き起こる。それはキノコ雲となって、俺の頭で渦を巻いた。
「し……シキィいいいいいいいいいいいいいいいいいいーーーっ!」
俺は呼んだ。いや、吠えた。女の名前を。
呼ばれたヤツは、ピタリと硬直した。
いいや、この食堂じゅうにいる全ての者が石化した。
コカトリスの咆哮を聞いた村人のように。
そして、シャックリの最頂点みたいな引きつった顔で、俺を見た。
俺はシキに挑みかかると、その顔の間近に、掌底を叩きつける。
ズダアァァァァンン!
壁を突き破るほどの轟音が、食堂じゅうを揺らす。
「…………!」
息を呑む声が、そこら中からした。
シキは魂を抜かれて蝋人形にされてしまったかのように、呆然としている。
俺は、その細いアゴを人さし指と親指で挟むと、クイッ、と上を向かせた。
濡れ光る長い睫毛と、限界まで見開く澄みきった瞳。
水面のように、俺の顔が映り込んでいる。
きっと俺の瞳にも、ヤツの顔が映っているはずだ。
だが、もう吸い込まれない。吸い込むのは、俺のほうだ。
「お前、かわいい声してんな。その声、もっと聞かせろよ……マイクならここにあるぞ」
……世界はしばらくの間、静寂に包まれていた。
シキの顔はただでさえ赤かったのだが、オーバーヒートしたようにボンッと一気に赤熱。
笛吹ケトルのように、ピィーッと耳から水蒸気が噴出しているかのようだった。
「は……はふぅぅ~……」
長風呂でのぼせてしまったかのような表情を浮かべながら、ずるずるとへたり込んでしまうシキ。
ノックアウトされたような、その顔を見おろす。
しかし……まだだ。まだ終わりじゃねぇ。続きがあるんだ。
俺はしゃがみこむと、シキの身体を抱き上げた。
いわゆる「お姫様だっこ」というやつだった。
「ふ……ふにゃぁ~」
シキは抵抗しない。されるがままだ。
俺は、惚けきったままのお姫様を抱え、食堂の出口へと向かう。
背後から従者のように、リンがついてくる。
誰もが、俺を見ていた。
スクールカーストの最底辺の男どもも、キョロ充のやつらも、最頂点のイケメンやギャルまでもが、俺の歩みを目で追っていた。
昼休みの食堂という、この世で一番やかましい空間は、俺たちが出ていくまでは、どこよりも静かだった。




