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しかも声をかけてやったってのに、うつむいたまま反応がない。
無視かよ……。
「え、えーっと……た、食べないの? シキちゃん」
いたたまれない表情のリンが声をかけると、
「ふっふふふ……ふみぃ! いたきます!」
完全に音量調整を誤った、悲鳴のような声をあげた。
まるで銃かなにかを突きつけられて脅されている者の反応だ。
それから錆びついたロボットみたいに、ギギギギと軋む音が聞こえてきそうなほどのぎこちない動きで、焼き鮭に箸をつけるシキ。
しかし手が震えているせいで、ザクザクと身に穴を開けるばかりだった。切り身だった鮭は、どんどんフレーク状になっていく。
ああ……こんな状態のやつを、口説くことなんてできるのか?
俺は嘆息しながら、今日のランチであるカツカレーにスプーンを突っ込む。
普段はルナナの弁当なんだが、シキと仲良くなるにあたって同じ学食のメニューのほうがいいという妖精のアドバイスに従い、昨日と今日は学食メシだ。
ここ学食のメシも悪くはないんだが、やっぱりルナ弁のほうがうまい。
たとえ冷えきっているというハンデがあったとしてもだ。
でもルナナはそぼろでハートマークを作るなんて古典的なことをしやがる。
普段は誰もいないところでメシを食ってるから何の影響もないんだが、なんというか、それだと折角のハートも浮かばれないのでもうやめろと言ったことがある。
……などと、ゼンゼン関係ないことに思いを巡らせたくなるくらい、隣の女子とのコミュニケーションは成立しなかった。
リンがどんな話題を振っても「ふみぃ!」としか返さないし、俺もがんばって話しかけ続けてるのにガン無視だ。
おいおい、昨日の夜の決意表明は何だったんだよ。
俺たちといっぱいおしゃべりするんじゃなかったのかよ。
一昨日よりずっと酷くなってるぞ、以前は一応返事はしてたのに、今はなんか迷子の仔猫みたいだ。
何を聞いても鳴くばっかりで……こっちも困ってしまってワンワン鳴きたい気分だ。
こりゃもう、口説くどころじゃねぇな……と緊急ミッションの達成を諦めかけたその時、
「おう、サンの字!」
耳元から刺すような声がした。テュリスだ。
シキとは反対側の肩にいるので、ヒソヒソ話であれば気づかれることもなさそうだ。
ヤツはどこから調達してきたのか、ゴキブリみたいな扮装をしていた。
触覚つきのかぶりものと、ツヤのある茶色い羽根みたいなのを背負っている。
「お前、なんだよその格好?」
「ワイが今からゴキブリになって、眼鏡女の背中に入るから、旦那が取ったれや!
そのドサクサで懐に入って、秘孔を突いたるんや!」
「秘孔を突くってなんだよ?」
「教えたやろ!? 相手を一発で惚れさせる言葉や行動をするってことや!
まだ知り合ったばかりの眼鏡女を口説き落とすには、吊り橋効果でドキドキさせて、秘孔を突くしかないんや!」
吊り橋効果……危険な状態のときに異性と一緒にいると、ソイツに惚れちまうってやつか。
危険を感じているドキドキを、恋愛感情によるものと勘違いするらしい。
「で、でも……ど……どうすりゃいいんだ?
なにをやって、なにを言えば、シキの秘孔を突ける?」
しかし妖精は俺の迷いを、「カーッ!」と痰が絡んだような声で一喝した。
「そんくらい自分で考えろや! 部屋覗いとったんやろ!?
思いつかへんのやったら抱きつきながら耳元で『なぁ……スケベしようや……』とでも言うとけや!
時間がないから、いくでぇ!」
「あっ、ちょっと待っ」
俺が止める間もなく妖精は飛び立ち、シキの後頭部に勢いよくぶつかった。
「あーっ! ゴキブリや! 超デカイゴキブリやでぇーっ!」
けしかけるように喚き散らしながら、そのままうなじを伝ってブラウスの後襟から背中に滑り込む。
「ふみっ……?」
シキは一瞬、なにが起こったのかわからない様子だったが、
「きゃあああああああああーーーっ!」
すぐに絹を裂くような声とともに、椅子を蹴飛ばす勢いで立ち上がった。
「やっ! やっ! いやあっ!? ごっ、ごきぶりっ!?
大っ嫌いなんです! だ、誰か! 取って取って取って! 取ってぇーっ!」
よほど苦手なのか、なりふり構っていない絶叫をあげる。
昨晩、部屋を視た時と同じ声で。
サーバーダウンちゃんってゴキブリ嫌いだったんだ……と錯覚するほどのアニメ声。
よく通る声は食堂じゅうに響き、遥か遠方にいるリア充軍団も何事かと覗いてくるほどだった。
「いやあ、誰か! 誰か! 助けて! お願い! 助けてぇぇぇ!」
衆人の注目を一身に浴びているとも知らず、封印していた地声で助けを求めるシキ。
まるで火だるまになっているかのように、身体をよじらせ暴れている。
眼鏡はズレ落ち、三つ編みのほどけた乱れ髪を獅子舞のように振り回す。
折り目正しくキッチリ着こなしていたブラウスは見る影もなくはだけ、裾がスカートの上からはみ出している。
このままではストリップでも始めかねない勢い……かなりパニくっていた。
「お、落ち着いて! シキちゃん! 取ってあげるから……キャッ!?」
止めに入ったリンをも跳ね飛ばし、俺にまで体当たりをしてくる。
よろめきそうになっちまったが、そんなこともおかまいなしに、シキは俺の胸に顔をめり込ませるほどの勢いでしなだれかかってきた。
押し倒されそうになっちまったが、なんとか踏みとどまる。
腕の中のシキは……触れば火傷しそうなほど上気しきった頬で、俺を見上げていた。
水を張ったように潤みきった瞳……銀河を秘めた、全てを吸い込むような瞳で、俺を見据える。
その開ききった瞳孔は、地味を体現したような眼鏡っ子のものではなく……今をときめくアイドル声優、秋冬ハルカのものだった。




