051
「あはは、アダ名だから呼び捨てでいいんだけどね。
でも、シキちゃって面白いね! 一緒にゴハン食べようよ! いただきまーす!」
俺は少し離れた所から『リンリン』と『シキちゃん』のやりとりを眺めていた。
すると、胸ポケットからひょこっとテュリスが顔を出す。
「……リンはさすがやな。
サンの字もよう見とき、先に相手にアダ名を呼ばせることにより心理的なハードルを下げ、同じタイミングで相手の呼び方も親しいものに変えるというテクニックや」
確かに、リンはさっきまで『大西さん』と呼んでいたのに、今は『シキちゃん』に変わっている。
呼び方を変えるって結構勇気がいることだってのに、すんなりとやってのけるなんて……。
しかも、あの電波女相手にあっさりとランチ同席を承諾を得るだなんて……。
アイツは、コミュニケーションの化物なのか……と戦慄していると、呼びかけられた。
「……って、おーい、三十郎! なにボーッと突っ立ってんの、こっちにおいでよ」
「あ……ああ……」
俺が近づいていくと、
「ひゃっ!? こっこっこここ、寿さん!?」
シキはニワトリのように鳴き、明らかに身を固くした。
リンの時とは大違いだ。そんな反応をされると、隣に座れねぇじゃねぇか……。
しょうがないのでシキの正面に座ろうとしたが、
「対面はアカン! せめて斜め前や!」
胸ポケットから小声がしたので軌道修正。
カラアゲ定食の載ったトレイを、リンの正面……シキの右斜め前に置く。
「シキちゃん、また寿さんなんて呼んで……三十郎でいいよ。ね、三十郎?」
リンが気を利かせてくれたので、
「あっ、あ、ああ……」
俺は、それだけ答える。
しかし、シキは殻に閉じこもってしまったかのようにうつむいたままだった。
ウンともスンとも言いやがらねぇ。
「えーっと……あ、シキちゃんって本が好きなんだね」
俺とシキの間に漂う緊張と気まずさを察してくれたのか、リンは話題を変えた。
シキのトレイ、サバ味噌定食の前にはフェルトのカバーがかかった文庫本があって、それに目をつけたようだ。
「は、はひ……」
シキは下を向いたまま、こくり、と頷き返す。
「でも、食べながら読まないんだね。本好きな人ってそういう……食べてるときも本を読んでるようなイメージがあるけど」
「はっ、はひ……」
「どうして読まないの?」
「たっ……食べ……あの……読ま……食べっ、なくなって……しまっ、しまうので……本を……あっ、い、いえ、ゴハンを……ゴハンを読み……あっ、いいえ……」
じょじょにフェードアウトしていく声。
ただでさえ小さい声でソレをやられたら、もう聴力検査じゃねぇか。
しかも目も合わせようともしねぇ。
リンはずっと親しげな笑顔を向けてるってのに、ひたすら皿の上にある味噌まみれのサバに向かって話しやがって。
そんな無礼な態度で返した答えも意味不明だったのだが、リンは理解したようだった。
「ふぅん、そうなんだ……なら、ボクといっしょだね!
って、シキちゃんも食べなよ、食べながらのお話は平気なんだよね?」
「はっ、はひ、い……いたき……いた、だきます……」
シキは両手を合わせ、ただでさえ下げている頭をさらに深く傾け一礼したあと、おずおずと食事を再開する。
「ボクはおしゃべりしながら食べるのが好きなんだけど、こっちの三十郎なんて普段はずっとスマホ見ながら食べてるんだよ。
この前なんて間違ってスマホをかじってたんだから……いったい何を夢中になってやってたの?」
チラリとこちらに目配せするリン。
「えっ? あ、ああ」
俺は、それだけ答える。
「…………」
一瞬の沈黙。リンの視線が俺から外れた。
「し……シキちゃんは、スマホ使ってる? チャットとか」
「ち……ちゃんと……ですか?」
「チャット。スマホのアプリのことだよ」
「ごっ、ごめんな、さいっ……わわわっ、私、こういうのしか持ってなくて……」
シキはカツアゲでもされてるみたいに怯えながら、長椅子に置いていたポーチから何かを取り出した。
今時珍しい、二つ折りのガラケーだった。
「そうなんだ、じゃあ食べ終わってからでいいからさ、メアド教えてよ」
「はっ……は……はひ……」
その後のトークも、砲丸かと思うほど弾まなかった。
リンがどんな話題を振ってもシキは「はひ」しか言わねぇし、たまに喋ったと思ったら聞き取れねぇうえに、どもりまくっているので意味がゼンゼンわからねぇ。
砂漠のような不毛のやりとりを昼休みが終わる直前まで続けたあと、シキは何やら意味不明のことをブツブツことをつぶやきながら荷物をまとめ、山賊から逃げる異国の娘のように逃げ去っていった。
そして俺はなぜか、ロボットスマホから責めたてられていた。
「おおう、サンの字! なんで『ああ』しか言わへんねん!
せっかくリンがいろいろ振ってくれてんのに全部台無しにしおってからに!」
「だ、だって、急に振られたから……」
「急にボールが来たからみたいに言うなや!
おどれは会話のパスもロクに受け取れんのか!
どうせいつものように自分のことは棚にあげて、あの眼鏡女が喋らんことを心の中で責めとったんやろ!?」
ズバリ指摘され、俺は何も言い返すことができなかった。
「まぁまぁテュリス、最初はこんなもんだって。
三十郎もシキちゃんも、自分の思っていることを言葉にするのが得意じゃないんだよ。
でもこうやって毎日続けてれば普段みたいに話せるようになるって」
「毎日って……明日もやるのか?」
絶望的な気持ちで尋ねると、
「当たり前やろ!」「当たり前でしょ!」
揃って即答された。
「ボク、シキちゃんにメールしとくよ。明日も同じテーブルで一緒に食べようね、って」
スマホを取り出し操作を始めるリンの二の腕を、俺は掴む。ぷにゅっとしてる。
「もういいんじゃねぇか? あんな素っ気なかったんだ、アイツは嫌がってるかもしれねぇぞ」
画面をなぞっていた指が、ピタリと止まった。
「……それ、三十郎が言う? ボクにさんざん素っ気なくしといて」
「な……なんだよ、中学校の頃の話か? それ、今は関係ねぇだろ」
「じゃあ聞くけど、昔、ボクが三十郎に話しかけてたとき、三十郎はどんな気持ちだった? イヤだった?」
「……い……いや、イヤではなかったよ。むしろ……嬉しかった……かな」
「でしょ? だったらたぶん、シキちゃんも嬉しかったと思うよ。三十郎に話しかけられて」
その一言で、心の中に明かりが灯ったような気がした。
マッチ売りの少女がすがったような、幻かと思うようなかすかな光だったが……悪い気はしなかった。
「そうなのか……な」
「うん。多分だけど、そうだって!
それに、頑張って話しかけて、相手が心を開いてくれたときはすっごく嬉しいんだよ。
だからもうちょっとだけやってみようよ、ねっ?」
「……そんなに嬉しいもんなのか?」
「うん! これだけは間違いない、絶対にそう!」
「随分ハッキリ言い切るんだな」
するとリンは、ニッコリと音がしそうなくらいの笑みを浮かべる。
「エヘヘ、そりゃもう! だって、ボクが三十郎にナンパされたとき、メチャクチャ嬉しかったんだもん!」
マッチ売りの少女を照らすスポットライトのような、劇的な笑顔だった。




