002
部屋の扉を引き開けると、人の良さそうなタヌキ面の女が突っ立っていた。
ゆるく編んだ長髪が、エプロンの上からでもわかる恥知らずな巨乳にかかっている。
毎日顔を合わせていても胸に目を奪われるコイツは……綺月月菜。
俺んちの居候だ。幼いころオヤジが引き取ってきて、我が家で家族のように一緒に暮らしている。
ルナナは両親のいない孤児だったんだが、実をいうと俺にも母親がいない。
妹が生まれてしばらくしてから家を出て行ったんだ。理由は知らねぇ。
オフクロは家を出るときに俺と妹のことをルナナに託したらしく、そのせいでルナナはやたらと母親面してきやがるんだよな。
でもコイツ、オッパイだけは超一流。
本来であるならば、俺のゴハンのお供として最適のはずだった。
だったんだが……長いこと一緒に居すぎて、女というより肉親としか見れなくなっちまったんだよなぁ。
まぁ、早い話……コイツは何の役にも立たないということだ。
心の中でディスられてるとも知らず、ルナナは春の陽射しのようなホンワカ笑顔を浮かべている。
俺が部屋から出たのが余程嬉しいのか、しかしそれの何が嬉しいのか、
「あーっ、サンちゃんだー、うふふ」
ハチミツがしたたるみたいな、甘ったるい声で喜んだ。
「……何が『あーっ、サンちゃんだー』だ。お前が呼んだんじゃねぇのかよ」
「あっ、そうだっけ、えへへ」
コイツはいつも薄ら笑いを浮かべているというのに、そこに笑い声まで加わると暑苦しくてしょうがない。
これで高校教師というのだから世も末だ。
盛大な溜息を顔に吹きかけてやると、ルナナは突風を浴びたように目をショボショボさせた。
そのアホ面を押しのけるようにして部屋を出る。
すれ違いざま、胸のぽよんとした感触が肘を包んだ。
花が揺れたような、いい香りが広がって鼻腔をくすぐる。
……石鹸だろうか?
それがトリガーとなって、俺は起想する。
『俺の三角コーナー』と比肩するくらいの謎を。
……同じ石鹸を使ってるはずなのに、なんで女ってこんなにいいニオイがするんだろうか?
トイレの後ですら芳しいと知ったときは、かなりのショックを受けた。
アレは入場料を取ってもいいレベル。
天国は地獄の底にあるというのは本当だったんだ……と、ルナナの直後に入ったトイレでひしひしと感じたものだ。
世のお父さんたちのトイレ直後……そのニオイといえば世界3大悪臭に数えられ、蛇蝎のごとく嫌われるというのに……。
世の中というのはマジで不公平という概念で出来ているらしい。
なんてことを考えながら階段に向かっていると、芳香が追いかけてきた。
「それとね、それとね、サンちゃん、今日はお誕生日でしょ? ご馳走いっぱい作ってるから楽しみにしててね」
連休で浮かれててすっかり忘れてた。今日は5月5日だったのか。
「そうか、でも今日は部屋で食べるから、晩メシは部屋に持ってこい」
俺は階段を降り、1階のリビングに向かいながら答える。
孤高の俺は、食事を自室でとりたい派の人間。大規模アップデートの直後ならなおさらだ。
背後から「ええっ、そんなぁ、せっかくのお誕生日なのにぃ!」と悲痛な叫び。
子供かよ……と呆れたくなるようなルナナの抗議に、応えたのは俺ではなかった。
リビングの隣にあるダイニング、さらに奥にあるキッチンからの声だった。
「いいじゃん別に、誕生日くらい好きにさせてあげれば」
思わぬ助け舟……このサバサバした声は、今年で小学四年になる万美。
我が妹は、幼妻のようにキッチンに立っていた。
ルナナとお揃いのエプロンを着けているが、あんなにはしたないほどの胸はなくて、お兄ちゃんはひと安心。
ヘアゴムで仔鹿の耳みたいにふたつに分けた髪型は、糞女予備軍みたいでいただけないが……俺にとってはかわいい妹だ。
「三十郎はゴハン抜きにしちゃって、バンビとお姉ちゃんでぜんぶ食べちゃおうよ」
助け舟の正体は泥舟だった。
前言撤回、かわいくねぇ。悪魔の化身みたいな妹だ。
「そういうわけにはいかないわ、バンビちゃん。せっかくサンちゃんのお誕生日なんだから……あ、いいこと思いついちゃった」
ルナナは祈るように指を絡め合わせ、頬に当てる。
コイツはロクでもないことを思いついたときはいつもこのポーズをとるんだ。
「今日はサンちゃんのお部屋でパーティしましょうか」
……出たよ。
かつて俺がネトゲにハマりすぎて部屋から出てこなくなったとき、コイツはダイニングテーブルを俺の部屋に持ち込んで、メシを一緒に食いだしたことがあるんだ。
それにたまりかねて、俺はメシだけは家族と一緒に食うようになった。
まったく……コイツはおっとりしてるくせに変な発想力と行動力があるのがウザいんだ。
「やっぱりここで食べます」
さっそくダイニングテーブルを運び出そうとするおっぱい女を、俺は押しとどめる。
「え、そう?」とちょっと残念そうにされてしまった。




