幸子さんとメロンパンちゃん
幸子さんは、パン屋さんです。
そして、幸子さんのお店は、少し変わったパン屋です。
お店の名前は「うずら屋」といいます。
幸子さんの旦那さんが、昔飼っていた鳥の名前から付けられました。
この店は、商店街の中にあるのでも、デパートやショッピングモールの中にあるのでもありません。
営業時間は午前11時45分~午後1時15分くらいまで。お客様が来なくなったら、その日は店じまいです。
たった1時間ちょっとの時間で、パンがみんな売れてしまうなんて、と不思議に思う人もいるかもしれません。
いえいえ、そんなことはありませんよ。
育ち盛りの子供たちに、その子たちを指導して疲れきった先生たち。
そういった人たちがうずら屋さんを訪れて、たくさんのパンを買ってくれるので、幸子さんのお店は、いつも大繁盛です。
そう、「うずら屋」は、とある高校の中にある、購買のパン屋さんなのです。
コロッケサンドに焼きそばパン。チョココロネや揚げドーナツ。
幸子さんのお店では、いろいろなパンが売られています。
どのパンも、とってもおいしいんですよ。
けれども、幸子さんには不得意なことが一つだけ、ありました。
幸子さんは、メロンパンを作るのが苦手なのです。
メロンパンのことは、みなさんご存じですよね。
ふわふわのパン生地の上に、サクサクのクッキー生地が乗った、メロンのような形のパンです。
老若男女関わらず、みんな大好きなあのパンを、幸子さんはどうしても作ることができないのです。
そんな、ある日のことでした。
「メロンパン、ありますか?」
幸子さんが顔を上げると、女の子が立っていました。
垂れ目がチャームポイントの、可愛らしい子でした。
左胸元の襟には学校の校章と学年章がついています。
学年章の色は青色だったので、三年生の子だと分かりました。
また、その子の右胸元には、宇宙ステーションの形をしたピンバッジがついています。
三年生の中には、自分の好きな形のピンバッジをつけている人もいるのです。
宇宙方面に興味がある子なのかもしれないと、幸子さんは思いました。
「ごめんなさいね、メロンパンはここには置いてないの」
幸子さんは女の子に笑いかけました。他にどうしようもなかったのです。
すると、その子は少し悲しそうな顔をして頷くと、
「じゃあ、いいです」
そう言って、お店に背を向けて教室へと帰って行きました。
その背中が、幸子さんには少し寂しく見えたのでした。
「……メロンパン、か」
その夜、幸子さんは一人で晩酌をしながら、つぶやきました。
部屋の中は暖房が効いていて暖かでした。
しかし、メロンパンのことを考えると、幸子さんの心の中は、急に寒くなってしまうのです。
ふわふわのパンと、カリカリのクッキー生地のあの懐かしい組み合わせ。
けれどもその懐かしさはいつの間にか寂しさにすり替わってしまいます。
そんな時、幸子さんは、自分の心の淋しいところからすきま風が入ってきて、がらんどうの心の中を、冬の風がひゅうひゅうと吹き荒れるような気がするのでした。
メロンパン。
幸子さんの旦那さんが大の得意だったパンでした。
今でも旦那さんのことを思い出さない日は一日もありません。
でも、いくら思い出したって、写真の中の旦那さんは幸子さんのもとには、二度と帰ってくることはないのです。
幸子さんの旦那さんは、五年前にがんで亡くなりました。
旦那さんが健在だった頃、「うずら屋」は学校の中にあるパン屋さんではありませんでした。
「二人でずっと、町の人々に美味しい幸せを届けよう」
そう言って、二人は商店街の一角に小さなパン屋を開きました。
それはもう十年も前のことでした。
三年後に旦那さんの病気が分かって、その二年後に亡くなるまで、彼はパンを作り続けていました。
「僕がいなくなっても、みんなのためにパンを売ってくれませんか」
それが、彼の遺言でした。
旦那さんが亡くなってしばらくした頃のことでした。
商店街の近くに新しい高校が建つことになり、購買に出店するお店を募集し始めたのです。
幸子さんは迷わず応募しました。
そして、この高校の購買を引き受けることとなったのでした。
今、旦那さんが亡くなって、五年が経とうとしています。
幸子さんは、ずいぶんと頑張りました。
お昼はパン屋で働き、夜はほかのお店でパートとして働いています。
パン屋の盛況もなかなかなものです。
しかし、メロンパンだけは、ダメでした。
パンの生地を作ろうとすると、旦那さんの顔が浮かんできてしまうのです。
クッキーの生地をつくろうと、専用のバターを買おうとするたびに、あの優しい声が耳に蘇るのです。
そして、幸子さんは涙にくれて、結局パンを焼くところまでたどり着くことができないのでした。
次の日、またあの女の子がお店にやってきました。
幸子さんはあの子をこっそりと「メロンパンちゃん」と呼び始めていました。
もちろん、本人には秘密です。
「……チョココロネ、ください」
メロンパンちゃんは言いました。その顔が少し寂しそうに見えたのは、幸子さんの気のせいでしょうか。
「はいはい、チョココロネですね。120円です」
そう言って、幸子さんはパンをトングでつかんでビニール袋に入れました。
「やっぱり、メロンパンは、無いんですね」
メロンパンちゃんがぼそっとつぶやくのが聞こえました。
「メロンパンが好きなの?」
幸子さんが尋ねると、彼女は小さくうなずきました。
「……弟が、大好きなんです」
「へえ、弟さんがいらっしゃるのね」
幸子さんが相槌を打つと、その子は微笑みました。
「はい。中学三年生です」
「あら、思ったより大きいのね」
幸子さんは驚きました。もっと低い年齢を予想していたのです。
お姉さんに頼んでメロンパンを買ってきてもらうなんて、今時の姉弟にしては仲が良いのですね。
「実は、私と弟、ダブル受験なんです。私は大学受験、弟は高校受験」
「あら、まあ。お二人とも大変なのね」
メロンパンちゃんは幸子さんの差し出したチョココロネを受け取りながら言いました。
「もし運がよければ、弟が来年ここに来ます。そのときはよろしくお願いします」
そう言って、メロンパンちゃんは教室へと帰って行きました。
その夜から、幸子さんは練習を始めました。
何の練習って?
もちろん、メロンパンを作る練習ですよ。
「……あの姉弟さんたちが頑張っているのに、私だけがのらりくらりしているのは、何だか恥ずかしいもの」
だそうですよ。
「さてと、まずはクッキー生地を作らなくちゃ」
幸子さんは腕まくりをして台所に立ちました。
手には旦那さんが書いていた秘伝のレシピノート。
ふわふわサクサクのメロンパンが出来上がる、魔法のレシピが詰まったノートから、幸子さんはメロンパンのレシピを探しました。
そして、
「泣きませんように」
心の中で、つぶやきます。
<クッキー生地>
バター(常温に戻す)
砂糖
溶き卵
薄力粉
ベーキングパウダー
「ふむふむ、それじゃ、やってみましょうか。拓也さん」
旦那さんに呼びかけて、幸子さんはバターをボウルに入れました。
「バターに砂糖を入れて、よく混ぜてっと」
砂糖入りバターはあっという間に白っぽいクリームになりました。
「溶き卵を加えて、更によく混ぜるのね」
いい感じに混ざったら…
「次は、ベーキングパウダー」
まだ、加えるものがありますよ、幸子さん。
「振るっておいた薄力粉を加えて、ヘラでさっくり切るように混ぜ合わせる……って、薄力粉振るうのを忘れてたわ」
そら、言わんこっちゃない。
幸子さんは大急ぎで粉を振るって、ボウルに入れました。
そして生地を練らないように注意しながら、木べらとゴムベラを駆使して混ぜます。
「塊になったら、ラップに包んで棒状に伸ばし、冷蔵庫に入れて冷やす……っと。よし、完了!」
そして、ここからが本番です。これからパン生地を作らねばなりません。
クッキ生地だけでは、メロンパンはできませんからね。
幸子さんは更にノートを読み進めます。
<パン生地>
強力粉
薄力粉、
スキムミルク
ドライイースト
サラダ油
バター
豆乳
きび砂糖
「メロンパンに豆乳ですって。拓也さんらしいわね」
旦那さんのことを思い出しても、不思議と涙は出ませんでした。
それどころか、少し前に流行っていた塩麹を入れてみてもいいかもしれない、と思えてしまう余裕まで、幸子さんにはあったのです。
それがなぜなのか、幸子さん自身にも分かりませんでした。
さて、お話に戻りましょう。次はパン生地を作ります。これは基本のパンと同じ方法です。
「うずら屋特製のパンレシピの出番ね」
一次発酵まで出来上がった生地をガス抜きすると、次は整形の作業に入ります。
「今日は試しに十個くらいは作ってみましょうか」
幸子さんはつぶやいて、生地を十等分して丸めました。
そして硬く絞った濡れ布巾をかけて、生地を休ませます。
知っていましたか?パン生地にも学校みたいに「休み時間」があるのですよ。
その間に、クッキー生地の整形にも取り掛かります。
生地を十等分し、直径15㎝くらいの円の形に伸ばします。
「さて、ここからが大事なドッキング作業」
クッキー生地とパン生地を、しっかりとくっつけるのです。
不意に、旦那さんの声が幸子さんの耳の奥に蘇ります。
「パンとクッキー。ふわふわとサクサクっていう全く違う二つのお菓子が合わさった、奇跡。それがメロンパンなんだ、と僕は思うんだ」
拓也さんは生地をこねながら言っていました。
「人との出会いもおんなじだよね。性格も考え方もまったく違う二人がであってこそ、楽しい思い出が生まれるんだ」
「僕らもメロンパンなんだよ、きっと。幸子は甘くてキラキラしているクッキー」
あなたはふわふわもちもちのあたたかなパン。
「二人で奇跡を作り出すんだ。これからもね」
……それなら、パンと離ればなれになってしまったクッキーは、メロンパンにはもう二度となれないのかしら?
幸せな奇跡を起こすことなんて、もう叶わないのかしら?
ねえ、教えてよ。拓也さん……
ひんやりとした感触で、幸子さんは我に返りました。
目の前には大きな捏ね板。そして手には十分に休ませたクッキー生地とパン生地。
「まだまだ。最後までちゃんと作らなきゃいけないんだから」
幸子さんは大きく深呼吸をして、休んでいたパン生地をもう一度ガス抜きして丸め直しました。
そして、パンをクッキー生地で覆い包みます。
優しく、でもしっかりと。
「よし。なんとか包めたわ」
グラニュー糖をたっぷりつけたあと、クッキー生地の表面にナイフの背で、メロンの模様をつけます。
「これがないと、メロンパンだって分かってもらえないかもしれないものね」
そして、天板に並べ、二次発酵です。
生地はさながら魔法のように、どんどん膨らみます。
予熱したオーブンで15分位焼いたら……
時間は飛ぶように流れていきます。
三年生の人たちはいつの間にか卒業し、あっという間に新しい年度が始まったのです。
それは、入学式の翌日のことでした。
「チョココロネ、ありますか?」
幸子さんが顔を上げると、男の子が立っていました。
左胸元の襟には学校の校章と学年章がついています。
学年章の色は青色だったので、一年生の子だと分かりました。
そして、特徴的な垂れ目。どこかで見覚えがあります。
もしかしたら、と幸子さんは心の中でつぶやきました。
その子はニコニコとしながら幸子さんを見上げて、言いました。
「去年は、姉がお世話になりました。新しいメニューを作ったんですね」
男の子が見上げる先には、「新メニュー登場!うずら屋特製メロンパン」と書かれていました。
「メロンパン、僕大好きなんです」
やっぱり。幸子さんは心の中でつぶやきました。
「それは良かった。お姉さんは今は何をしていらっしゃるの?」
幸子さんがそっと尋ねると、男の子は恥ずかしそうに答えます。
「姉はK大学の物理学科に進学しました」
「まあ、すごいじゃない」
K大学といえば、宇宙の研究で有名な国立の大学です。
「今日は姉の命で、彼女の好物のチョココロネを買いに来たんです」
「お姉さんによろしく言っておいてね。今日は特別サービスでメロンパン付けちゃうわ」
パンが二つ入った袋を受け取りながら、男の子ははにかみました。
教室に向かって歩き始めた男の子の後ろ姿を見て、幸子さんはそっとつぶやきました。
「これから三年間よろしくね、チョココロネ君」
〈了〉