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ランチへは夜会服のままで

 あなたがこれほどしたたかに酔ったのは、幼い娘を亡くしたあの日以来のことだったろう。若かりし頃の強烈な記憶が前提化し、そのために却って自明のものではなくなってしまう――そんな年代をあなたは迎えたのだ。

 酔いのために鉛色の瞼に塞がれたあなたの瞳は、とっくにその役割を果たせなくなっている。それでも何とか会場の隅までたどり着くことのできたあなたは、余分な椅子が集められて咬合しているところから一つ選び取って、上に乗っていた方の椅子に座り込んだ。近くを通りかかった気配に向かって、酔いを覚ますべく水を頼んだのだったが、運ばれてきたものが酒であったことに気付いたのは、最後の一滴まで飲み干した後だった。

 広々とした室内には楽団が招聘されて、シュトラウス家のワルツを演奏している。彼らの演奏がなければ、きっとその上を踊り歩く靴音や漣のような衣擦れが聞こえてくるだろうか。いや、敷き詰められたペルシャ絨毯の方が一枚上手かもしれない。あなたはそんなことを考えながら、ぼんやりと座っていた。

 しばらくして、あなたが引き剥がした椅子のもう片方に座る人物の気配がした。

「明日の演奏会にはお越しになりましたか?」

 その人物が男性であることは分かったが、あなたは自分よりも少し年上だろうなと予想をしただけで、瞼を押し上げようとする気力すら持てなかった。

「いえ、そのようなことは約束しかねます」

「どうして」

「今朝の予定だってまだ果たせていないのです」

 酔いつぶれた男に話しかけてくる相手がまともであるとは思われなかったので、あなたは適当にごまかすつもりで話していた。

「じゃあこうしましょう。目隠しをしてパリの方角を指差すのです。そうすれば、サンクトペテルブルクまでは明後日の距離だ」

「しかしね、私が目指しているのはキプロスなんだ。きっとそうなんだ」

 思わず真実が飛び出してきた。あなたは口を噤んだが、待っていたのは懺悔室で聴いたのと同じ沈黙だった。

「では、せめて目隠しを。私の身分を明かしてしまうと、これ以上は話せない」

 あなたは手に握らされたネクタイを顔に巻くと、彼の方へ耳を傾けた。

「いいですか、一度だけ言いますよ。……内務大臣を、シサツするのです」

「いやいや、それだけは、それだけはどうか――!」

 楽団の演奏が止まった次の瞬間、どこか別の場所から手が伸びてくる気配がした。

 その人物はあなたの後頭部を支えながら、顔の上を、お世辞にも綺麗とは言い難い色をしたタオルで拭ってくれた。

「随分と悪い酔い方をしましたねえ」

 それまで目隠しや重い瞼に覆われていると思っていたのが、タオルが離れていくと天井のシャンデリアが現れた。

「ここは……」

「宴会場です。もうコンテストは終わりましたよ」

 声の主に目を遣れば、掃除をしている年配の女性だった。周囲には同じ制服を着た数人の女性が立ち働いている。

「私は、今まで誰と話していたんだろう」

「さあ、夢の中の出来事ですから」

 女性は当たり前だという表情をして、それだけ告げると去っていった。

「そうか。……ああ、誰と話しているんだったかな」

 しばらくして、あなたには幼い娘を亡くした経験などないことが思い出された。あなたは鏡の前でそれを思い出し、そして、静かに涙を流したのだった。

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