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聖痕

「私はもう壊れてしまったの」


 夜半を過ぎた頃、ベッドの上で私は呟いた。どうしようもない空虚な気分が心を浸している。

 どうしてこう、人というものは独立した存在でいられないのだろう? 壊れてしまったという表現も、心が空っぽだという表現も、どこかで見聞きしたようなものだけど、間違いなく私の奥底から生まれてきた言葉だ。結局、私には独自性とでも呼べるものはなくて、誰かと聯関しなければ私は私でいられないのだろう。

 私、ワタシ、わたし。時々、何かに押し潰されそうになる。あの人々が私を迫害するのだ。それだけでなく、私は内側からも圧力を受けている。内と外、その間にある私は一定ではなく、曖昧な存在。曖昧なのに間違いなくこの苦悩する私だけは存在していて、私は私でいることから逃れられない。どこへ行けばこの苦しみから逃れられるのだろう? 縦か、横か。それとも奥の方? そうでないとすれば、過去か未来だ。

 そこまで行ったところで私は引き戻される。過去に言い訳を求めたところで、未来に栄光を求めたところで、今の私は何を得られるというのだろう。今の私でない私は私ではない、過去の私は既に死んだ私だし、未来の私とてやがて死にゆく私に過ぎない。今の私こそが私なのだ、こうして死を繰り返す私こそが!

 私は、ぽつりと呟く。


「やっぱり壊れてしまったのね、私は」


 圧潰してしまった心から、私が外に漏れていく。今やそこにもあそこにも私の眼がいて、私を見つめている。見ることと見られることを同時に行なったとき、私はがばっと身を起こした。動いていなければ本当に壊れてしまいそうだった。頭の片隅で主張を続ける妄想が膨らんでくる。私は勉強机の引き出しからカッターナイフを取り出す。カッターナイフを振り上げ、しかし、それを全力で振り下ろす勇気はなく、ためらいがちに左の掌に傷をつけた。ぷくりと血が浮かんでくる。私はそれを舐め、鉄の味に頭がくらりとした。右の掌にも小さな傷を。

 瞬間、妄想がぶわりと弾けて、天頂の声を聴いた。この汚らわしい傷が、何故こんなにも愛おしく清らかに感じられるのだろう? 不思議な根拠の無い陶酔の中で、私は、私は……






 冷蔵庫の扉を閉め、コップに注いだ牛乳を一気に飲み干す。陶酔の潮が引いた後はひどく喉が渇いて、だけど牛乳の後味はすっきりとしなかった。あと一歩のところで、私はあちらに行くことができなかった。恐ろしかったのだ、向こう側に行くことが。生きることから逃げ、死ぬことからも逃げ、そして残ったものは何だろう? 私には本当に何もないように思えた。壊れてしまったのではなく、私には最初から何もなかったのだ。

 コップを洗って食器棚に戻す。冬場の冷たい水道水が掌の傷に熱を送り込むような感触がした。私はまだ、生きている。そのことが感覚として理解できた。

 背後に人の立つ気配がした。母親だった。何もかもを把握しているような顔をして、実は何も知らないであろう母親。こんな醜い大人にはなりたくないと思う私もまた、とっくの昔に汚れてしまっている。逃げるようにして自分の部屋に戻ろうとした私の肩を母が掴んだ。ほんの一瞬のこと、二人とも直感した。私には母の感情が分かったし、母も私の気持ちを理解したようだった。そして一言、


「逃げてもいいのよ」


 私は、


「うん」


 とだけ言って頷いた。

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