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後輩の女医を喜ばせるために結婚式を延期した彼。私は彼の犬猿の仲の医師と結婚した

作者: 熾星
掲載日:2026/10/15



 三浦圭吾とは十五年来の付き合いで、恋人同士になってから七年になる。


 花守中央総合病院の同僚たちは、私たちが今月結婚式を挙げる予定だったことを知っている。そして、圭吾にやけに懐いている若い女医、小野寺莉奈のことも。


 莉奈をめぐって、私たちは何度も喧嘩した。そのたびに折れるのは私で、温かいスープを持って圭吾に会いに行けば、いつの間にか仲直りしたことになっていた。


「美月さん、誤解しないでくださいね。圭吾先輩とは、ちょっと仲がいいだけですから」


 医局の休憩室で、莉奈は圭吾の白衣を羽織り、彼の肩にもたれて笑っていた。


 圭吾は彼女のためにみかんを剥き、白い筋まで丁寧に取り除いている。


 結婚式まで、あと十日。


 それなのに圭吾は、莉奈との賭けに乗って、式を一か月延期すると一方的に言い出した。


 私はバッグからマンションの鍵を取り出し、テーブルに置いた。


 圭吾はまだ知らない。


 数時間前、私は久世彰人と市役所に婚姻届を提出していた。


 久世彰人は、同じ病院の脳神経外科医。


 圭吾が昔から、何かにつけて張り合っている相手だった。



1



「美月さん、昨日は救急が続いて、もうくたくただったんです。圭吾先輩が肩を貸してくれたから、少し休ませてもらっただけですよ」


 莉奈は悪びれた様子もなく笑い、圭吾に身を寄せた。羽織った白衣の胸元には、彼の名札がついている。


 私は休憩室の入口で、二人を見つめていた。


 昨夜、共通の友人から動画が届いた。


 バーで撮影されたもので、ソファに座った圭吾が数人の友人に囲まれていた。隣には莉奈もいる。


「圭吾、本当に結婚式を一か月延ばすのか? 美月に怒られるぞ」


 友人にからかわれ、圭吾はグラスを揺らして笑った。


「怒りたきゃ怒ればいいさ。あいつの家が大変だったとき、支えたのは俺だからな」


「でも、別れるって言われたら?」


「十五年の付き合いだぞ。七年も付き合って、今さら俺から離れられるかよ」


 圭吾は酒を一口飲み、付け足した。


「正直、ちょっと飽きてきたけどな。放っておけば戻ってくるよ」


 私は動画を三度見返した。


 父の会社が倒産した頃、圭吾が支えてくれたのは確かだ。生活が苦しく、勉強とアルバイトに追われていた私に、彼は温かい食事を届けてくれた。


 その優しさを忘れたくなくて、喧嘩のたびに私が折れてきた。


「美月さん?」


 莉奈が白衣の襟元を引っ張った。


「聞いてます?」


 圭吾もようやく顔を上げた。


「何しに来たんだ? 午後は研究会議だろ」


 私はマンションの鍵をテーブルに置いた。


「これ、返すね。荷物はほとんど運び出したから」


 圭吾は鍵を見るなり、呆れたように笑った。


「またその手かよ。前は荷物をまとめるって騒いで、今度は鍵まで返すのか?」


 彼は鍵をこちらへ押し返した。


「莉奈はまだ仕事に慣れてないんだ。俺が面倒を見るくらいいいだろ」


「結婚式まで賭けに使う必要があった?」


「酒の席の冗談だって。大げさなんだよ」


 圭吾は時計を見た。


「もういいだろ。今夜は帰るから、何かあっさりしたものを作っておいてくれ。最近、胃の調子が悪くてさ」


 いつもの口調だった。


 以前なら、夕飯の献立を考えながら買い物へ向かっていただろう。


「これからは自分で作ってね」


「……何だよ、それ」


「別れよう。残った荷物は業者に取りに行ってもらうから」


 圭吾の顔が険しくなる。


「莉奈の前で、そんなに俺を困らせたいのか?」


 私はバッグを肩にかけた。


「もう決めたことだから」


 休憩室を出ると、背後で椅子が鳴った。


「美月! 今日出ていったら、一か月は俺から連絡しないぞ!」


 そのままエレベーターへ向かった。


 病院の外では、黒い高級車が送迎スペースに停まっていた。運転席の窓が下がり、久世彰人が顔を見せる。


「美月、お疲れさま。乗って」


 助手席に座ると、彰人は温かい水を渡してくれた。


「後悔してる?」


「結婚のこと?」


「うん」


 私は窓の外へ目を向けた。


「まだ実感が湧かないだけ。後悔はしてないよ」


 昨夜、圭吾の動画を見たあと、私は一人でマンションにいた。


 結婚式の招待客名簿やホテルの資料がテーブルに広がっている。圭吾に電話しても出ず、あとから届いたのは、友人と飲んでいるから邪魔をするなという短いメッセージだけだった。


 何気なくLINEを開くと、彰人の投稿が目に入った。


『家族から結婚を急かされています。お互いの生活を大切にしながら、一緒に暮らせる相手がいたらいいなと思っています』


 私はしばらく迷い、彼にメッセージを送った。


『久世先生、私じゃ駄目ですか?』


 送信した途端、顔が熱くなった。


 彰人と圭吾は何年もライバル関係にある。学会や院内研究で競うこともあり、圭吾は彼の話になると決まって不機嫌になった。


 私と彰人の接点は、ほとんど仕事だけだった。


 取り消そうとしたところで、返信が届いた。


『本気なら、明日会って話しませんか』


 翌朝、私たちは市役所近くのカフェで向かい合った。


 彰人は婚姻届に必要なことを調べていて、結婚後の住まいや仕事についても尋ねてくれた。


「家で結婚の話をされることが多くて、前に少し調べたんです。でも、今日決めなくてもいいから」


 彼はそう言って、私の話を聞いてくれた。


 私は七年間付き合った恋人と別れたばかりで、結婚式の予約も残っていることを打ち明けた。


「やっぱり、こんな話は変ですよね」


「急だとは思います」


 彰人はカップを置いた。


「でも、美月がいい加減な気持ちで言ってるとは思わないよ」


 私たちは時間をかけて話し合い、結婚を決めた。


 証人欄はそれぞれの知人に頼んで署名してもらい、その日のうちに婚姻届を提出した。法律上の名字は久世になったけれど、病院では旧姓の藤原を使うことにした。


 車が停まり、私は顔を上げた。


 目の前にはウェディングドレスのショップがある。


「ここ、どうしたの?」


「前のドレスは三浦先生の好みで選んだんでしょう? 今日は美月が好きなものを見ようよ」


 店員に案内され、何着か試着した。


 最後に選んだのは、細かなビーズが散りばめられた白いドレスだった。裾が軽く、歩くたびに柔らかく揺れる。


 合わせた靴を履いてみると、かかとが少し擦れた。


「痛い?」


 彰人がしゃがみ、サイズを確かめてくれる。


「少しだけ。式の間くらいなら大丈夫かな」


「長く履くんだし、別のを試そう」


 彼は店員に違う靴を頼み、履き心地のよいものが見つかるまで付き合ってくれた。


 圭吾と衣装を選んだときは、早く決めろと何度も急かされた。


 そんなことを思い出していると、スマートフォンが鳴った。


 圭吾からだった。


 彰人は画面を見て、少し離れたところへ移動した。


「週末、莉奈の歓迎会をやるんだ。前に作ってくれたティラミス、また持ってきてくれよ」


「週末は予定があるから」


「前の日に作っておけばいいだろ」


「圭吾、私たち、もう別れたんだよ」


 電話の向こうが静かになった。


「またその話かよ」


「ケーキは自分で用意してね。仕事以外の連絡も、もうやめて」


 通話を切ると、彰人が戻ってきた。


「大丈夫?」


「うん。もう少しドレスを見てもいい?」


「もちろん」


 私は鏡の前に立ち、もう一度ドレスの裾を広げた。


 その夜、圭吾の友人から動画が届いた。


 ビリヤード場で、圭吾が私との別れについて話している。


「圭吾、美月、今回は本気じゃないのか?」


「俺に謝らせたいだけだって。三日もしないうちに、またスープを持ってくるよ」


「別の男を見つけたら?」


「七年も俺と付き合ってたんだぞ。そんな簡単に別の男なんか選べるかよ」


 私は動画を閉じた。


 そのあと、彰人と結婚式の日取りを確認した。


 以前から予定していた、あの日に。



2



 三日が過ぎても、私は圭吾に会いに行かなかった。


 普段どおり病院へ出勤し、研究を進める。圭吾と顔を合わせても、必要な仕事の話だけで済ませた。


 同僚によると、圭吾は最近ずいぶん不機嫌で、会議でも集中できていないらしい。


 午後、心臓血管外科へ資料を届けに行ったとき、圭吾の部屋から陶器の割れる音が聞こえた。


「あっ、ごめんなさい、圭吾先輩! カップを落としちゃった!」


 半開きのドアから床が見えた。


 散らばっていたのは、青と白の陶器の破片だった。


 大学時代、陶芸体験で私が作ったマグカップ。底には私と圭吾の名前の頭文字を刻んである。彼は気に入って、医局を移るときにも必ず持っていった。


 莉奈が慌ててしゃがみ込んだ。


「新しいの買ってきますね。これ、ずいぶん長く使ってたみたいだし」


 圭吾は破片を見つめ、やがて息を吐いた。


「もういいよ。捨てといて」


「いいんですか?」


「カップ一個だろ。古いものは、いつか替えないとな」


 私はそのまま通り過ぎた。


 ナースステーションで書類を渡し、患者の診察予定を確認してから、自分の部署へ戻った。


 その日の午後、病院では別の噂が広まっていた。


 脳神経外科の久世彰人が、結婚したらしい。


 会議で左手の指輪を見た人がいて、若手医師たちの間で話題になっていた。


 診療依頼の書類を届けに行くと、廊下で圭吾が彰人を呼び止めていた。


「久世先生、結婚したんだって?」


「ええ」


「ずいぶん急だな。相手とはいつから付き合ってたんだ?」


 彰人は時計を見た。


「これから症例検討会なんです。用事なら、あとでもいいですか?」


「いや、ちょっと気になってさ。あんたでも電撃結婚なんてするんだな」


「誰と結婚するかは、自分で決めましたから」


 彰人は圭吾の持っている資料へ目を向けた。


「午後の症例の件なら、先に確認したほうがいいと思いますよ」


 圭吾の顔が険しくなる。


 私は二人に近づき、彰人へ書類を渡した。


「久世先生、依頼されていた資料です」


「ありがとうございます、藤原先生」


 いつもどおりのやり取りだった。


 圭吾もこちらを見たが、特に何も言わなかった。


 夕方、私は結婚式の招待状を同僚たちに配った。


 以前から出席をお願いしていた人たちは、圭吾と仲直りしたのだと思ったらしい。


 ところが、一人が招待状を開いて声を上げた。


「美月、ちょっと待って。新郎、久世彰人って書いてあるんだけど!」


「脳神経外科の久世先生? 二人って付き合ってたの?」


「最近、入籍したの。式は予定していた日にやるから、よかったら来てね」


 驚きながらも、同僚たちは祝ってくれた。


 そこへ莉奈が入ってきた。


 招待状を手に取り、新郎の名前を見るなり笑顔が引きつる。


「美月さん、これって……別の人と結婚式をするんですか?」


「そうだよ」


「もしかして、圭吾先輩を焦らせるために新郎役を頼んだとか?」


 私が答える前に、圭吾が廊下から入ってきた。


 莉奈はすぐに駆け寄った。


「圭吾先輩、見てください。美月さん、新郎まで替えちゃったみたいです」


 圭吾は招待状の日付を見て、ゴミ箱へ放り込んだ。


「美月、いい加減にしろよ。ほかの男を連れてきたって、俺は折れないからな」


 医局が静かになった。


 私は招待状を拾い、バッグへ戻した。


「式には来なくていいよ」


「俺が行かなかったら、どうするつもりだよ」


「大丈夫。招待してないから」


 圭吾は何か言いかけたが、私は研究会議へ向かった。


 廊下で彰人からメッセージが届く。


『会場の花の写真、送っておいたよ。どれが好き?』


 一枚目を開く。


 そこには、白いかすみ草に囲まれた結婚式場が写っていた。



3



 彰人と一緒に、結婚式の最終打ち合わせに出かけた。


 予約していたホテルと披露宴会場はそのまま使えることになり、新郎の情報や進行を変更した。作り直すものもあったけれど、予定の日に式を挙げられる。


 彰人は招待客の席順から食事のアレルギー対応まで、丁寧に確認していた。


 装花の話になると、タブレットをこちらへ向けた。


「かすみ草はどうかな。美月のドレスにも合いそうだけど」


 画面には、小さな白い花がふんわりと広がっていた。


 以前、圭吾にも同じ花を使いたいと話したことがある。


 白い小さな花に囲まれた、明るくて優しい雰囲気の会場にしたかった。


 けれど圭吾は安っぽく見えると言い、輸入のバラを選んだ。私は結局、彼の希望に合わせた。


「美月?」


 彰人に呼ばれ、顔を上げる。


「ほかの花がよかった?」


「ううん。これがいい。前から、こういうのにしたかったんだ」


「じゃあ、決まりだね」


 彰人はプランナーに希望を伝えた。


 その後も、何か決めるたびに私の意見を聞いてくれる。以前と同じ結婚式の準備なのに、気持ちはずいぶん軽かった。


 数日後、仕事を終えて桜丘町のマンションへ帰ると、入口の近くに圭吾が立っていた。


 車にもたれ、煙草を吸っている。


「ホテル、キャンセルしてないんだってな」


「うん」


「花まで替えたらしいじゃないか」


「そうだね」


 圭吾は苛立ったように髪をかき上げた。


「俺にどうしてほしいんだよ。式は少し延ばせばいいだろ」


 私はバッグから小さなベルベットの箱を出した。


「これ、返しておくね」


 中には、以前もらった婚約指輪が入っている。


 圭吾の顔色が変わった。


「指輪まで返すのか?」


「婚約は解消したから」


 圭吾が私の手首を掴んだ。


「お前、そこまでする必要あるか?」


「痛いよ。離して」


 手を引き、少し距離を取る。


 圭吾は声を落とした。


「美月、忘れたのか? お前の家が大変だったとき、誰がそばにいたと思ってるんだよ」


 何度も聞いてきた話だった。


 父の会社が倒産したあと、家族は小さな賃貸マンションへ移った。私はアルバイトと勉強に追われ、食事を抜くこともあった。


 圭吾は生活費を切り詰め、温かいスープや弁当を買ってきてくれた。熱を出したときには病院へ連れていってくれたし、手続きにも付き添ってくれた。


 あの頃の圭吾は優しかった。


「覚えてるだろ?」


「覚えてるよ」


「だったら、どうしてこんなことするんだ」


 私はバッグから送金記録を取り出した。


「当時立て替えてくれたお金は、もう返してあるよ。最後に残ってた分も、今日振り込んだ」


 生活が落ち着いてから、家賃や生活費を少しずつ返してきた。その後、圭吾の暮らしが苦しくなったときには、私が支払ったこともある。


 互いに助け合ってきたつもりだった。


「今さら金の話かよ」


「感謝してるよ。だけど、昔のことを持ち出されるたびに、私が何も言えなくなるのは嫌なんだ」


 圭吾は黙り込み、私の左手へ目を向けた。


「その指輪……」


「結婚したんだ」


「……久世と?」


「うん」


 圭吾はしばらく私を見つめ、やがて笑った。


「そこまでするか? 俺を焦らせたくて、久世まで巻き込んだのかよ」


 私はバッグを持ち直した。


「もう帰るね」


 圭吾はエレベーターの前まで追ってきた。


「結婚式の日、泣いて頼まれたって行かないからな!」


 エレベーターが到着する。


 私は中へ入り、階数を押した。


 部屋に戻って彰人へ連絡すると、すぐに返信が届いた。


『お疲れさま。明日、病院でね』


 続けて、会場の完成予想図が送られてきた。


 白いかすみ草が入口から式場へと続き、薄く雪が積もったように見える。


 私はソファに座り、しばらくその写真を眺めていた。



4



 結婚式の日、花守市はよく晴れていた。


 汐見浜のホテルには、朝から親族や同僚たちが集まっていた。披露宴会場には白いかすみ草が飾られ、窓からの陽光が小さな花々を照らしている。


 私は控室でドレスを着て、ヘアメイクの仕上げをしてもらっていた。


 彰人が進行表を持って入ってくる。


「みんな、ほとんど来てくれたみたい。緊張してる?」


「少しだけ」


 彼は椅子に引っかかったドレスの裾を直してくれた。


「焦らなくていいよ。今日は楽しもう」


 私は差し出された手を握った。


 そのとき、同僚から動画が届いた。


 画面には、郊外の遊園地にいる圭吾と莉奈が映っていた。偶然見かけた知人が撮影したものらしい。


 圭吾は携帯電話の電源まで切っているそうだ。


 私は画面を閉じ、スマートフォンを友人へ預けた。


 音楽が流れ始める。


「行こうか」


「うん」


 彰人と並んで会場へ入ると、温かい拍手が迎えてくれた。


 最前列には双方の家族が座り、少し後ろには研究室の先輩や病院の同僚たちがいた。


 指輪を交換し、彰人が私のベールを上げた。


 少し照れたように笑ってから、そっと口づける。


 拍手と歓声が広がった。


「美月、きれいだね」


「久世先生とお似合い!」


 そんな声が聞こえた。


 彰人を見上げると、彼も嬉しそうに笑っていた。

* * *

 同じ頃、圭吾は遊園地のベンチに座り、何度も時計を見ていた。


 もうすぐ正午。


 美月の結婚式は始まっているはずだ。


 圭吾は朝から携帯電話の電源を切っていた。自分に連絡がつかないと知れば、美月も少しは焦るだろう。


 式場で待ちくたびれ、怒って電話をかけてくるかもしれない。あるいは、泣きながら迎えに来てほしいと頼むかもしれない。


 そんな姿を想像して、圭吾は口元を緩めた。


「圭吾先輩、あれ乗りましょうよ!」


 莉奈が腕を引っ張る。


「お前、一人で行ってこいよ。ちょっと疲れた」


「ええ、せっかく来たのに」


 莉奈は不満そうに飲み物を買いに行った。


 圭吾はベンチに残り、また時計を見た。


 美月が鍵を返したときの顔が、妙に頭に残っていた。


 以前なら泣いたり怒ったりして、こちらの反応を確かめようとした。今回は静かに鍵を置き、そのまま出ていった。


 婚約指輪を返しに来たときも、同じだった。


「圭吾先輩、大丈夫ですか?」


 戻ってきた莉奈が尋ねる。


「ああ。少し休めば平気だ」


 午後になり、二人は遊園地のレストランに入った。


 圭吾はとうとう携帯電話の電源を入れた。


 通知が次々と表示される。


 友人から届いたメッセージを開くと、結婚式の動画が添付されていた。


 白い花で飾られた会場に、ウェディングドレス姿の美月が立っている。


 隣には礼服姿の男がいた。


 その男が美月の手を取り、指輪をはめる。やがてベールを上げ、彼女にキスをした。


 久世彰人だった。


「……は?」


 圭吾は動画を再生し直した。


 美月は笑っている。


 隣にいるのも、間違いなく彰人だ。


『久世先生、藤原先生、ご結婚おめでとうございます!』


 画面の文字を見た途端、圭吾は勢いよく立ち上がった。


 肘がテーブルにぶつかり、コーヒーが倒れる。


「あっ、熱い!」


 莉奈が悲鳴を上げた。


 コーヒーが服にかかり、腕も赤くなっている。


 圭吾は慌てて美月に電話をかけた。


 出ない。


 もう一度かけても、呼び出し音が続くだけだった。


 あのとき、美月は本気だったのか。


 鍵を返したことも、指輪を返したことも。


 久世と結婚したと言ったことまで。


「圭吾先輩! 聞いてるんですか!」


 莉奈の声を背に、圭吾は車の鍵を掴んでレストランを飛び出した。



5



 披露宴も終わりに近づき、私と彰人はお色直しを済ませて、親族や友人に挨拶していた。


 久しぶりに会う友人と写真を撮っていると、入口が騒がしくなった。


 振り返ると、圭吾が立っていた。


 ネクタイは曲がり、髪も乱れている。急いで来たらしく、肩で息をしていた。


「美月! いい加減にしろよ!」


 圭吾が近づき、私の腕を掴もうとした。


 彰人が間に入る。


「三浦先生、落ち着いてください」


「久世、邪魔するな!」


 圭吾は彼を睨みつけた。


「お前ら、こんなことまでして俺を馬鹿にしたいのか?」


「僕たちはもう結婚しています。今日はそのお披露目の式です」


「そんなの、わかってるよ!」


 圭吾は私へ向き直った。


「美月、本気でこいつと暮らすつもりなのか?」


「そうだよ」


「七年も付き合ったんだぞ。少し喧嘩したくらいで、別の男と結婚するなんておかしいだろ!」


 近くのスタッフが、彰人に対応が必要か尋ねた。


 彰人は警備を呼んでもらい、私に目を向けた。


 私は彼の手を一度握ってから、圭吾へ向き直った。


「鍵を返したとき、別れるって言ったよね」


「……怒ってるだけだと思ったんだよ」


「婚約指輪も返した。結婚したことも話したよ」


 圭吾は答えなかった。


「バーで言ってたよね。七年も付き合って、もう飽きたって」


 彼の顔色が変わる。


「どうしてそれを……」


「動画を見たから」


「あれは酔ってたんだ。本気じゃない」


「でも、結婚式を賭けに使ったのは本当でしょう。莉奈に白衣を貸して、肩に寄りかからせてたのも」


 圭吾が言葉に詰まった。


「美月、悪かった。だから、一回帰ろう。ちゃんと話せば――」


「今日は私の結婚式だよ。家族も友達も来てくれたの」


 私は彰人の隣へ戻った。


「もう邪魔しないで」


 入口には警備スタッフが来ていた。


 圭吾は急に焦り出した。


「美月、待てよ! 十五年も一緒だったんだぞ。本当に俺じゃなくていいのかよ!」


 私はスタッフにお願いした。


「招待していない方です。外へ案内してください」


 圭吾はなおも私の名前を呼んでいたが、警備スタッフに促されて会場を離れた。


 扉が閉まると、司会者が穏やかに進行を再開した。


 彰人がそばへ来る。


「大丈夫?」


「うん。ありがとう」


 私は彼の腕を取り、親族の席へ戻った。


 母が心配そうにこちらを見ていたので、大丈夫だと伝える。やがて友人たちとの写真撮影が再開し、披露宴は無事に終わった。


 夜、ホテルの部屋でスマートフォンを見ると、圭吾から音声メッセージが何件か届いていた。


『美月、俺が悪かった』


『酔ってただけなんだ。もう一回話そう』


 最後まで聞いて、削除した。


 彰人が温かい水を持ってきてくれた。


「今日は疲れたでしょう」


「うん。ちょっとだけ」


「もう休もうか」


 窓の外から波の音が聞こえる。


 翌朝、目を覚ますと、彰人が先に起きて朝食を並べていた。


「おはよう。よく眠れた?」


「うん」


 淹れたてのコーヒーの香りがする。


 私はベッドを降り、彼のいるテーブルへ向かった。



6



 結婚式のあと、圭吾は何度も私に会おうとした。


 病院の入口や会議室へ向かう途中で待っていることもある。以前より痩せ、目の下にはくまができ、無精ひげも伸びていた。


「美月、少し話せないか」


 ある朝、入口で呼び止められた。


「仕事のことなら、あとで連絡して」


「そうじゃない。式のことも、莉奈のことも、全部俺が悪かった」


 圭吾は視線を落とした。


「もう莉奈とは距離を置く。だから、やり直せないか?」


「圭吾、私、結婚したんだよ」


「わかってる。でも、今度こそちゃんとするから」


 私は彼を見た。


 昔、温かいスープを持ってきてくれた頃の優しさは覚えている。


 けれど、その後に何度も傷ついたことも忘れていない。


「私たち、もう別々の生活を始めたんだよ」


 圭吾はなおも引き止めようとした。


「通して。仕事に遅れるから」


 彼が脇へ退いたところで、彰人が車から降りてきた。


「美月、コート忘れてたよ」


「あ、ありがとう」


 彰人は圭吾にも軽く頭を下げた。


「三浦先生、おはようございます」


 圭吾は返事をしなかった。


 私たちはそのまま病院へ入った。


 白衣に着替え、外来ロビーを通りかかると、大きな声が聞こえた。


「圭吾先輩!」


 莉奈が圭吾の袖を掴んでいた。


「遊園地で、どうして私を置いて帰ったんですか? 火傷したのに、電話にも出てくれなかったじゃないですか!」


「ここは病院だぞ。あとにしろよ」


「都合が悪くなると、いつもそうやって逃げるんですね」


「莉奈、いい加減にしろ」


「今さら美月さんに戻ってきてほしいんですか? あんなに飽きたって言ってたくせに!」


 圭吾の表情が変わった。


 次の瞬間、乾いた音が響く。


 莉奈は頬を押さえ、立ち尽くした。


「……叩いたんですか?」


 圭吾も動きを止めていた。


 莉奈は泣きながら白衣を掴み、激しく詰め寄った。看護師と警備スタッフが駆けつけ、二人を引き離す。


 彰人が私の肩に触れた。


「美月、こっちを通ろう」


 私はうなずき、人の集まった場所を離れた。


 あとで、二人が別室で事情を聞かれたと知った。


 この騒ぎはすぐに院内へ広まったが、圭吾には仕事の面でも問題が起きていた。


 私は以前、彼に頼まれて研究文献を探し、症例のリスク分析を手伝っていた。


 最初は同じ医師同士の協力だった。それが次第に増え、夜遅くまでデータを確認して、検討会用の図表を作ることもあった。


 圭吾は資料を使いながら、分析の前提条件を十分に確かめないことがあった。


 別れてから、私は研究資料を規定に従って整理し、必要なものを担当部署へ引き継いだ。


 そんな中、圭吾が担当する高リスクの心臓手術について、術前検討会で問題が見つかった。


 彼が提示したリスク評価に古いデータが使われており、患者への適用条件についても説明できなかったという。


 上級医師が確認を求め、手術チームは再評価を行ったうえで執刀担当を変更した。


 この件をきっかけに、圭吾が過去に提出した研究報告も調べられることになった。


 その中に、著者の記載と実際の作業記録が一致しない資料が見つかった。


 研究管理部門から私にも連絡が入り、保存していた元データやメール、更新履歴を提出した。


 夕方、研究室で資料を片づけていると、彰人がやってきた。


「お疲れさま」


「ありがとう。やっと終わった」


 彼は机に残っていた書類を揃えてくれた。


「昔のデータまで調べたの?」


「うん。探すのが大変だった」


「いつも記録を残してたから助かったね」


「まさか、こんなことに使うとは思わなかったけど」


 私は最後のファイルをバッグへしまった。


 圭吾を手伝っていた頃は、ただ彼の役に立ちたかった。


 それでも、自分の仕事の記録を残しておいてよかったと思う。



7



 莉奈も病院の相談窓口へ正式に申し出ていた。


 遊園地で火傷したときの記録や、ロビーで叩かれたあとの診断書、圭吾とのメッセージを提出したという。


 先輩という立場を利用して、無理な頼み事をされたこともあると訴えたらしい。


 バーで撮られた例の動画も、関係者の手に渡っていた。


 莉奈自身も賭けの席に同席し、笑っていたことは認めたそうだ。ただ、圭吾から受けた暴力については、きちんと調べてほしいと主張していた。


 病院は双方から事情を聞き、圭吾の担当業務を一部変更した。


 研究記録についても、調査が続いていた。


 ある日、管理棟から出ると、三浦夫妻が立っていた。


 以前は何度も食事をご一緒したことがある。私の家の事情が悪かった頃には、心配して声をかけてくれた人たちだった。


 圭吾のお母さんが駆け寄ってくる。


「美月ちゃん、ちょっといい?」


「こんにちは」


「圭吾のことで、病院にいろいろ話したそうね」


「聞かれたことには答えました」


「でも、あの子にも将来があるのよ」


 お父さんも険しい顔をしていた。


「昔からの付き合いだろう。若い二人の喧嘩で、仕事まで駄目になるのは困るんだ」


「病院が調べているのは、仕事に関係することも含まれています」


「誤解だったと説明してもらえないか」


 私はファイルを抱え直した。


「資料は、求められたものを提出しただけです。判断するのは病院です」


 圭吾のお母さんが声を荒らげた。


「昔、圭吾がどれだけあなたを助けたと思ってるの?」


 そこへ彰人が来た。


「美月、どうかした?」


 圭吾のお父さんが彰人に向き直る。


「久世先生、これは私たちの問題ですから」


 彰人は私を見た。


 私は首を横に振った。


 彼は私の隣に立ち、それ以上口を挟まなかった。


 私はバッグから銀行の明細を取り出した。


「当時、圭吾に立て替えてもらったお金は、もう返してあります」


 圭吾のお母さんが驚く。


「え?」


「家賃や生活費です。それから、私も圭吾を支えてきました」


 最近一年間、圭吾は私名義の家族カードを利用していた。


 飲食代や旅行、洋服、時計などの支出が重なり、利用額は約一千二百万円になっていた。カードは停止し、支払いも私の口座から済ませてある。


「そんな……圭吾だってお給料があるでしょう?」


「これは私が払った分です」


 私は明細をしまった。


 父の会社が倒産したあと、医師として働き、研究を続けてきた。研究成果に関連する特許から収入を得られるようになり、経済的にも余裕ができていた。


 圭吾の生活が苦しいなら、支えたいと思っていた。


 けれど、喧嘩のたびに昔の恩を持ち出されるのは、もう嫌だった。


「圭吾には感謝しています。でも、これからのことは本人に考えてほしいんです」


 三浦夫妻は黙り込んだ。


 彰人と一緒にその場を離れた。


 その後、圭吾が提出した研究資料の一部について、著者の記載や作業記録に問題があることが確認された。


 彼は説明を求められ、担当していた研究の一部から外されることになった。


 臨床業務にも影響が出始めていた。


 * * *


 その日の夕方は、ひどい雨だった。


 彰人の車で病院を出ようとしたとき、人影が前へ飛び出してきた。


 彰人が急ブレーキを踏む。


 車の前に立っていたのは、ずぶ濡れの圭吾だった。


 彼は助手席側へ回り込み、窓を叩いた。


「美月! 頼む、話を聞いてくれ!」


 私は窓を少し下げた。


「危ないから車から離れて」


「悪かった! 全部、俺が悪かったんだ!」


 圭吾の声はかすれていた。


「もう二度とあんなことしない。だから、もう一回だけ……」


「圭吾」


「七年も一緒にいたんだろ? もう俺のこと、好きじゃないのか?」


 彰人が尋ねた。


「スタッフを呼ぼうか?」


 私はうなずいた。


 彰人が駐車場の管理スタッフに連絡する間、窓越しに圭吾へ話しかけた。


「あの七年間は、大切に思ってたよ」


 圭吾が顔を上げる。


「だったら……」


「今は彰人と暮らしてる。これからも、そうするつもり」


 彼の顔が歪んだ。


 管理スタッフに促され、圭吾はようやく車の脇へ退いた。


 彰人がゆっくり発進する。


 そのとき、背後から圭吾の叫び声が聞こえた。


「美月! 久世が本気でお前を好きだと思うなよ!」


 思わず振り返る。


「あいつは俺に勝ちたいだけなんだ! だからお前と結婚したんだろ!」


 車はそのまま駐車場を出た。


 ワイパーが雨を拭っている。


 私は左手の指輪に触れた。


 彰人との結婚は、確かに急だった。


 一緒に暮らして好きになったところも、まだ知らないところもある。


 私たちはどうして、互いに結婚を決めたのだろう。


 今さらながら、きちんと聞いてみたくなった。



8



 帰り道、私はほとんど話さなかった。


 彰人は前を見て運転しながら、ときどきこちらを気にしていた。


 赤信号で車が止まる。


「寒くない?」


「うん、大丈夫」


 少し間を置いて、彰人が尋ねた。


「三浦先生に言われたこと、気になってる?」


 私はうなずいた。


「彰人、どうして私と結婚しようと思ったの?」


 彼は少し考えてから口を開いた。


「LINEの投稿、覚えてる?」


「結婚相手を探してるって書いてあったやつ?」


「あれ、美月だけが見られる設定にしてたんだ」


「……私だけ?」


「うん」


 車が走り出した。


 私はあの夜、たまたま彰人の投稿を見つけたのだと思っていた。


「どうして?」


「二年前、一緒に症例検討会へ出たことがあったでしょう」


「うん」


「あのとき、美月がデータの問題を指摘したんだ。あとで修正した表まで送ってくれて」


 記憶をたどる。


 確かに、別の科の医師も参加した会議で、使われているデータの条件について質問したことがあった。


「ああ、あのとき?」


「それから、研究会でも何度か会ったよね。もっと話してみたいなって思ってた」


「そうだったんだ」


「でも、彼氏がいるって知ってたから」


 私は彼の横顔を見た。


「じゃあ、婚約がなくなったことも知ってた?」


「式が延期になったとは聞いてた。元気がなさそうだとも」


 彰人は少し照れたように笑った。


「何か声をかけたかったんだけど、急に連絡するのも変だろうと思って」


「それで、あの投稿?」


「うん。かなり回りくどかったね」


 私は笑ってしまった。


「彰人でも、そんなことするんだ」


「好きな人のことになると、案外うまくいかないものだよ」


 彼の耳が赤くなっている。


「だったら、あのとき教えてくれればよかったのに」


「美月は三浦先生と別れたばかりだったから。困らせたくなかったんだ」


 私は指輪を見下ろした。


「彰人」


「ん?」


「じゃあ、これからは?」


 車がマンションの前に停まった。


 彰人はエンジンを切り、こちらへ向き直った。


「美月と、ちゃんと向き合いたい」


 そして、少し笑った。


「今からでも、恋人として付き合ってみませんか?」


 私は彼の手を取った。


「喜んで」


 彰人が嬉しそうに笑った。


 私たちは、結婚してから恋人になった。


 病院ではそれぞれの仕事に集中し、家では一緒に食事をする。休みが合えば散歩に出かけ、仕事帰りには近くの店で夕飯を食べた。


 研究でも協力する機会が増えた。


 私は臨床データの解析とリスク予測モデルを担当し、彰人は脳神経外科の症例研究を進めていた。


 意見が合わず、会議室で何時間も議論したこともある。


 ある日、モデルの適用範囲について結論が出ず、二人とも遅くまで残った。


 帰りの車で、彰人が尋ねる。


「夕飯、何が食べたい?」


「うどん。温かいやつ」


「じゃあ、いつもの店に寄ろうか」


 彰人は交差点を曲がった。


 研究は少しずつ形になっていった。


 チームで役割を分担し、必要な審査を終えたデータを使って分析を進める。何度も検証し直し、数か月かけて論文にまとめた。


 国際的な医学誌から受理の連絡が届いたとき、私は研究室で思わず立ち上がった。


 画面には、論文の題名と著者一覧が表示されている。


 自分の名前も、担当した研究内容も、きちんと記載されていた。


 彰人がコーヒーを二本持ってきた。


「おめでとう。大変だったね」


「彰人もお疲れさま」


 一本を受け取る。


「次のテーマも、一緒にやってみる?」


「もちろん。でも今度は、モデルを変える前にちゃんと私の説明を聞いてね」


「わかりました、藤原先生」


「返事が軽い」


「ちゃんと聞くよ」


 二人で笑った。


 一方、圭吾に関する調査は続いていた。


 莉奈とのトラブル、研究記録の問題、臨床業務での準備不足について、それぞれ処分が下されたという。


 圭吾は一部の仕事から外され、再研修を受ける機会もあったが、同僚との衝突を繰り返し、やがて花守中央総合病院を離れた。


 大きな病院への転職はうまくいかず、最終的には郊外の小規模な医療機関で、外来診療や健康相談を中心に働くようになったらしい。


 以前の友人から、酒を飲むことが増えたとも聞いた。


 私は短く返事をして、自分の研究へ戻った。


 次の発表の準備で、毎日忙しかった。



9



 半年後、花守市で医学研究交流会が開かれた。


 私と彰人は若手研究者として招かれ、チームの研究成果を発表することになった。


 会場には各地の医師や研究者が集まり、取材に来た記者の姿もあった。


 彰人が臨床研究の背景を説明し、続いて私が予測モデルの構築方法と検証結果を紹介する。


 質疑応答では、研究の限界や今後の課題についても質問が出た。担当に応じて交代しながら答え、発表を終えると会場から拍手が起こった。


 壇上を降りると、先輩研究者たちが声をかけてくれた。


「藤原先生、興味深い結果でしたね」


「ありがとうございます」


「次は別の施設のデータでも検証する予定ですか?」


「はい。今ちょうど検討しているところです」


 私はノートを開き、いただいた意見を書き留めた。


 そのとき、少し離れたところから名前を呼ばれた。


「美月」


 顔を上げると、圭吾が立っていた。


 以前より痩せ、顎には無精ひげが残っている。スーツも少しくたびれて見えた。


 手には交流会の資料を持っていた。


 一般参加できる学術セッションもあるので、圭吾が来ていても不思議ではなかった。


 彼はゆっくり近づいてきた。


「さっきの発表、聞いてたよ」


「ありがとう」


 圭吾は一度彰人を見てから、私へ視線を戻した。


「いい研究だったな」


「うん。チームのみんなで頑張ったから」


「そうか……」


 圭吾は手元の資料を握り直した。


 周囲では、研究者たちが次のセッションについて話している。


 少し間を置いて、彼が言った。


「美月。昔のこと、本当に悪かった」


 私は彼を見た。


 謝罪を聞くのは、これが初めてではない。ただ、以前のように引き止めようとはしなかった。


「うん。圭吾も元気でね」


 彼は小さくうなずいた。


 彰人が、椅子に掛けていた私のコートを取ってくれる。


「美月、次のセッションが始まるよ」


「あ、もうそんな時間?」


 私はノートを閉じ、圭吾に頭を下げた。


「三浦先生、失礼します」


 圭吾はその場に立ったまま、私たちを見送った。


 会場を出て廊下を歩く。


 大きな窓から、午後の日差しが差し込んでいた。


「疲れた?」


 彰人が私の歩く速さに合わせる。


「少し。でも、さっきの質問、もうちょっとうまく答えられた気がする」


「どの質問?」


「年齢層によってモデルの適用範囲が変わるって話。帰ったら、もう一組データを確認したいな」


「いいね。夜、一緒に見ようか」


「うん。でも、その前にご飯が食べたい」


 彰人が笑った。


「もうお腹すいた?」


「朝からおにぎり一個しか食べてないんだもん」


「昨日、ちゃんと朝ご飯を食べるって言ってなかった?」


「出かける前にスライドを直してたら、時間なくなっちゃった」


「じゃあ、次は僕が朝ご飯を用意しようか」


「それなら、目玉焼きがいいな」


「了解」


 私たちは次の会場へ向かいながら、交流会が終わったら何を食べようかと相談した。


 セッション開始まで、あと十分。


 私はノートを彰人に預け、研究チームのグループにメッセージを送った。


「行こうか、美月」


「うん」


 彰人が会場の扉を開ける。


 私は彼と並んで、中へ入った。





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