後輩の女医を喜ばせるために結婚式を延期した彼。私は彼の犬猿の仲の医師と結婚した
三浦圭吾とは十五年来の付き合いで、恋人同士になってから七年になる。
花守中央総合病院の同僚たちは、私たちが今月結婚式を挙げる予定だったことを知っている。そして、圭吾にやけに懐いている若い女医、小野寺莉奈のことも。
莉奈をめぐって、私たちは何度も喧嘩した。そのたびに折れるのは私で、温かいスープを持って圭吾に会いに行けば、いつの間にか仲直りしたことになっていた。
「美月さん、誤解しないでくださいね。圭吾先輩とは、ちょっと仲がいいだけですから」
医局の休憩室で、莉奈は圭吾の白衣を羽織り、彼の肩にもたれて笑っていた。
圭吾は彼女のためにみかんを剥き、白い筋まで丁寧に取り除いている。
結婚式まで、あと十日。
それなのに圭吾は、莉奈との賭けに乗って、式を一か月延期すると一方的に言い出した。
私はバッグからマンションの鍵を取り出し、テーブルに置いた。
圭吾はまだ知らない。
数時間前、私は久世彰人と市役所に婚姻届を提出していた。
久世彰人は、同じ病院の脳神経外科医。
圭吾が昔から、何かにつけて張り合っている相手だった。
1
「美月さん、昨日は救急が続いて、もうくたくただったんです。圭吾先輩が肩を貸してくれたから、少し休ませてもらっただけですよ」
莉奈は悪びれた様子もなく笑い、圭吾に身を寄せた。羽織った白衣の胸元には、彼の名札がついている。
私は休憩室の入口で、二人を見つめていた。
昨夜、共通の友人から動画が届いた。
バーで撮影されたもので、ソファに座った圭吾が数人の友人に囲まれていた。隣には莉奈もいる。
「圭吾、本当に結婚式を一か月延ばすのか? 美月に怒られるぞ」
友人にからかわれ、圭吾はグラスを揺らして笑った。
「怒りたきゃ怒ればいいさ。あいつの家が大変だったとき、支えたのは俺だからな」
「でも、別れるって言われたら?」
「十五年の付き合いだぞ。七年も付き合って、今さら俺から離れられるかよ」
圭吾は酒を一口飲み、付け足した。
「正直、ちょっと飽きてきたけどな。放っておけば戻ってくるよ」
私は動画を三度見返した。
父の会社が倒産した頃、圭吾が支えてくれたのは確かだ。生活が苦しく、勉強とアルバイトに追われていた私に、彼は温かい食事を届けてくれた。
その優しさを忘れたくなくて、喧嘩のたびに私が折れてきた。
「美月さん?」
莉奈が白衣の襟元を引っ張った。
「聞いてます?」
圭吾もようやく顔を上げた。
「何しに来たんだ? 午後は研究会議だろ」
私はマンションの鍵をテーブルに置いた。
「これ、返すね。荷物はほとんど運び出したから」
圭吾は鍵を見るなり、呆れたように笑った。
「またその手かよ。前は荷物をまとめるって騒いで、今度は鍵まで返すのか?」
彼は鍵をこちらへ押し返した。
「莉奈はまだ仕事に慣れてないんだ。俺が面倒を見るくらいいいだろ」
「結婚式まで賭けに使う必要があった?」
「酒の席の冗談だって。大げさなんだよ」
圭吾は時計を見た。
「もういいだろ。今夜は帰るから、何かあっさりしたものを作っておいてくれ。最近、胃の調子が悪くてさ」
いつもの口調だった。
以前なら、夕飯の献立を考えながら買い物へ向かっていただろう。
「これからは自分で作ってね」
「……何だよ、それ」
「別れよう。残った荷物は業者に取りに行ってもらうから」
圭吾の顔が険しくなる。
「莉奈の前で、そんなに俺を困らせたいのか?」
私はバッグを肩にかけた。
「もう決めたことだから」
休憩室を出ると、背後で椅子が鳴った。
「美月! 今日出ていったら、一か月は俺から連絡しないぞ!」
そのままエレベーターへ向かった。
病院の外では、黒い高級車が送迎スペースに停まっていた。運転席の窓が下がり、久世彰人が顔を見せる。
「美月、お疲れさま。乗って」
助手席に座ると、彰人は温かい水を渡してくれた。
「後悔してる?」
「結婚のこと?」
「うん」
私は窓の外へ目を向けた。
「まだ実感が湧かないだけ。後悔はしてないよ」
昨夜、圭吾の動画を見たあと、私は一人でマンションにいた。
結婚式の招待客名簿やホテルの資料がテーブルに広がっている。圭吾に電話しても出ず、あとから届いたのは、友人と飲んでいるから邪魔をするなという短いメッセージだけだった。
何気なくLINEを開くと、彰人の投稿が目に入った。
『家族から結婚を急かされています。お互いの生活を大切にしながら、一緒に暮らせる相手がいたらいいなと思っています』
私はしばらく迷い、彼にメッセージを送った。
『久世先生、私じゃ駄目ですか?』
送信した途端、顔が熱くなった。
彰人と圭吾は何年もライバル関係にある。学会や院内研究で競うこともあり、圭吾は彼の話になると決まって不機嫌になった。
私と彰人の接点は、ほとんど仕事だけだった。
取り消そうとしたところで、返信が届いた。
『本気なら、明日会って話しませんか』
翌朝、私たちは市役所近くのカフェで向かい合った。
彰人は婚姻届に必要なことを調べていて、結婚後の住まいや仕事についても尋ねてくれた。
「家で結婚の話をされることが多くて、前に少し調べたんです。でも、今日決めなくてもいいから」
彼はそう言って、私の話を聞いてくれた。
私は七年間付き合った恋人と別れたばかりで、結婚式の予約も残っていることを打ち明けた。
「やっぱり、こんな話は変ですよね」
「急だとは思います」
彰人はカップを置いた。
「でも、美月がいい加減な気持ちで言ってるとは思わないよ」
私たちは時間をかけて話し合い、結婚を決めた。
証人欄はそれぞれの知人に頼んで署名してもらい、その日のうちに婚姻届を提出した。法律上の名字は久世になったけれど、病院では旧姓の藤原を使うことにした。
車が停まり、私は顔を上げた。
目の前にはウェディングドレスのショップがある。
「ここ、どうしたの?」
「前のドレスは三浦先生の好みで選んだんでしょう? 今日は美月が好きなものを見ようよ」
店員に案内され、何着か試着した。
最後に選んだのは、細かなビーズが散りばめられた白いドレスだった。裾が軽く、歩くたびに柔らかく揺れる。
合わせた靴を履いてみると、かかとが少し擦れた。
「痛い?」
彰人がしゃがみ、サイズを確かめてくれる。
「少しだけ。式の間くらいなら大丈夫かな」
「長く履くんだし、別のを試そう」
彼は店員に違う靴を頼み、履き心地のよいものが見つかるまで付き合ってくれた。
圭吾と衣装を選んだときは、早く決めろと何度も急かされた。
そんなことを思い出していると、スマートフォンが鳴った。
圭吾からだった。
彰人は画面を見て、少し離れたところへ移動した。
「週末、莉奈の歓迎会をやるんだ。前に作ってくれたティラミス、また持ってきてくれよ」
「週末は予定があるから」
「前の日に作っておけばいいだろ」
「圭吾、私たち、もう別れたんだよ」
電話の向こうが静かになった。
「またその話かよ」
「ケーキは自分で用意してね。仕事以外の連絡も、もうやめて」
通話を切ると、彰人が戻ってきた。
「大丈夫?」
「うん。もう少しドレスを見てもいい?」
「もちろん」
私は鏡の前に立ち、もう一度ドレスの裾を広げた。
その夜、圭吾の友人から動画が届いた。
ビリヤード場で、圭吾が私との別れについて話している。
「圭吾、美月、今回は本気じゃないのか?」
「俺に謝らせたいだけだって。三日もしないうちに、またスープを持ってくるよ」
「別の男を見つけたら?」
「七年も俺と付き合ってたんだぞ。そんな簡単に別の男なんか選べるかよ」
私は動画を閉じた。
そのあと、彰人と結婚式の日取りを確認した。
以前から予定していた、あの日に。
2
三日が過ぎても、私は圭吾に会いに行かなかった。
普段どおり病院へ出勤し、研究を進める。圭吾と顔を合わせても、必要な仕事の話だけで済ませた。
同僚によると、圭吾は最近ずいぶん不機嫌で、会議でも集中できていないらしい。
午後、心臓血管外科へ資料を届けに行ったとき、圭吾の部屋から陶器の割れる音が聞こえた。
「あっ、ごめんなさい、圭吾先輩! カップを落としちゃった!」
半開きのドアから床が見えた。
散らばっていたのは、青と白の陶器の破片だった。
大学時代、陶芸体験で私が作ったマグカップ。底には私と圭吾の名前の頭文字を刻んである。彼は気に入って、医局を移るときにも必ず持っていった。
莉奈が慌ててしゃがみ込んだ。
「新しいの買ってきますね。これ、ずいぶん長く使ってたみたいだし」
圭吾は破片を見つめ、やがて息を吐いた。
「もういいよ。捨てといて」
「いいんですか?」
「カップ一個だろ。古いものは、いつか替えないとな」
私はそのまま通り過ぎた。
ナースステーションで書類を渡し、患者の診察予定を確認してから、自分の部署へ戻った。
その日の午後、病院では別の噂が広まっていた。
脳神経外科の久世彰人が、結婚したらしい。
会議で左手の指輪を見た人がいて、若手医師たちの間で話題になっていた。
診療依頼の書類を届けに行くと、廊下で圭吾が彰人を呼び止めていた。
「久世先生、結婚したんだって?」
「ええ」
「ずいぶん急だな。相手とはいつから付き合ってたんだ?」
彰人は時計を見た。
「これから症例検討会なんです。用事なら、あとでもいいですか?」
「いや、ちょっと気になってさ。あんたでも電撃結婚なんてするんだな」
「誰と結婚するかは、自分で決めましたから」
彰人は圭吾の持っている資料へ目を向けた。
「午後の症例の件なら、先に確認したほうがいいと思いますよ」
圭吾の顔が険しくなる。
私は二人に近づき、彰人へ書類を渡した。
「久世先生、依頼されていた資料です」
「ありがとうございます、藤原先生」
いつもどおりのやり取りだった。
圭吾もこちらを見たが、特に何も言わなかった。
夕方、私は結婚式の招待状を同僚たちに配った。
以前から出席をお願いしていた人たちは、圭吾と仲直りしたのだと思ったらしい。
ところが、一人が招待状を開いて声を上げた。
「美月、ちょっと待って。新郎、久世彰人って書いてあるんだけど!」
「脳神経外科の久世先生? 二人って付き合ってたの?」
「最近、入籍したの。式は予定していた日にやるから、よかったら来てね」
驚きながらも、同僚たちは祝ってくれた。
そこへ莉奈が入ってきた。
招待状を手に取り、新郎の名前を見るなり笑顔が引きつる。
「美月さん、これって……別の人と結婚式をするんですか?」
「そうだよ」
「もしかして、圭吾先輩を焦らせるために新郎役を頼んだとか?」
私が答える前に、圭吾が廊下から入ってきた。
莉奈はすぐに駆け寄った。
「圭吾先輩、見てください。美月さん、新郎まで替えちゃったみたいです」
圭吾は招待状の日付を見て、ゴミ箱へ放り込んだ。
「美月、いい加減にしろよ。ほかの男を連れてきたって、俺は折れないからな」
医局が静かになった。
私は招待状を拾い、バッグへ戻した。
「式には来なくていいよ」
「俺が行かなかったら、どうするつもりだよ」
「大丈夫。招待してないから」
圭吾は何か言いかけたが、私は研究会議へ向かった。
廊下で彰人からメッセージが届く。
『会場の花の写真、送っておいたよ。どれが好き?』
一枚目を開く。
そこには、白いかすみ草に囲まれた結婚式場が写っていた。
3
彰人と一緒に、結婚式の最終打ち合わせに出かけた。
予約していたホテルと披露宴会場はそのまま使えることになり、新郎の情報や進行を変更した。作り直すものもあったけれど、予定の日に式を挙げられる。
彰人は招待客の席順から食事のアレルギー対応まで、丁寧に確認していた。
装花の話になると、タブレットをこちらへ向けた。
「かすみ草はどうかな。美月のドレスにも合いそうだけど」
画面には、小さな白い花がふんわりと広がっていた。
以前、圭吾にも同じ花を使いたいと話したことがある。
白い小さな花に囲まれた、明るくて優しい雰囲気の会場にしたかった。
けれど圭吾は安っぽく見えると言い、輸入のバラを選んだ。私は結局、彼の希望に合わせた。
「美月?」
彰人に呼ばれ、顔を上げる。
「ほかの花がよかった?」
「ううん。これがいい。前から、こういうのにしたかったんだ」
「じゃあ、決まりだね」
彰人はプランナーに希望を伝えた。
その後も、何か決めるたびに私の意見を聞いてくれる。以前と同じ結婚式の準備なのに、気持ちはずいぶん軽かった。
数日後、仕事を終えて桜丘町のマンションへ帰ると、入口の近くに圭吾が立っていた。
車にもたれ、煙草を吸っている。
「ホテル、キャンセルしてないんだってな」
「うん」
「花まで替えたらしいじゃないか」
「そうだね」
圭吾は苛立ったように髪をかき上げた。
「俺にどうしてほしいんだよ。式は少し延ばせばいいだろ」
私はバッグから小さなベルベットの箱を出した。
「これ、返しておくね」
中には、以前もらった婚約指輪が入っている。
圭吾の顔色が変わった。
「指輪まで返すのか?」
「婚約は解消したから」
圭吾が私の手首を掴んだ。
「お前、そこまでする必要あるか?」
「痛いよ。離して」
手を引き、少し距離を取る。
圭吾は声を落とした。
「美月、忘れたのか? お前の家が大変だったとき、誰がそばにいたと思ってるんだよ」
何度も聞いてきた話だった。
父の会社が倒産したあと、家族は小さな賃貸マンションへ移った。私はアルバイトと勉強に追われ、食事を抜くこともあった。
圭吾は生活費を切り詰め、温かいスープや弁当を買ってきてくれた。熱を出したときには病院へ連れていってくれたし、手続きにも付き添ってくれた。
あの頃の圭吾は優しかった。
「覚えてるだろ?」
「覚えてるよ」
「だったら、どうしてこんなことするんだ」
私はバッグから送金記録を取り出した。
「当時立て替えてくれたお金は、もう返してあるよ。最後に残ってた分も、今日振り込んだ」
生活が落ち着いてから、家賃や生活費を少しずつ返してきた。その後、圭吾の暮らしが苦しくなったときには、私が支払ったこともある。
互いに助け合ってきたつもりだった。
「今さら金の話かよ」
「感謝してるよ。だけど、昔のことを持ち出されるたびに、私が何も言えなくなるのは嫌なんだ」
圭吾は黙り込み、私の左手へ目を向けた。
「その指輪……」
「結婚したんだ」
「……久世と?」
「うん」
圭吾はしばらく私を見つめ、やがて笑った。
「そこまでするか? 俺を焦らせたくて、久世まで巻き込んだのかよ」
私はバッグを持ち直した。
「もう帰るね」
圭吾はエレベーターの前まで追ってきた。
「結婚式の日、泣いて頼まれたって行かないからな!」
エレベーターが到着する。
私は中へ入り、階数を押した。
部屋に戻って彰人へ連絡すると、すぐに返信が届いた。
『お疲れさま。明日、病院でね』
続けて、会場の完成予想図が送られてきた。
白いかすみ草が入口から式場へと続き、薄く雪が積もったように見える。
私はソファに座り、しばらくその写真を眺めていた。
4
結婚式の日、花守市はよく晴れていた。
汐見浜のホテルには、朝から親族や同僚たちが集まっていた。披露宴会場には白いかすみ草が飾られ、窓からの陽光が小さな花々を照らしている。
私は控室でドレスを着て、ヘアメイクの仕上げをしてもらっていた。
彰人が進行表を持って入ってくる。
「みんな、ほとんど来てくれたみたい。緊張してる?」
「少しだけ」
彼は椅子に引っかかったドレスの裾を直してくれた。
「焦らなくていいよ。今日は楽しもう」
私は差し出された手を握った。
そのとき、同僚から動画が届いた。
画面には、郊外の遊園地にいる圭吾と莉奈が映っていた。偶然見かけた知人が撮影したものらしい。
圭吾は携帯電話の電源まで切っているそうだ。
私は画面を閉じ、スマートフォンを友人へ預けた。
音楽が流れ始める。
「行こうか」
「うん」
彰人と並んで会場へ入ると、温かい拍手が迎えてくれた。
最前列には双方の家族が座り、少し後ろには研究室の先輩や病院の同僚たちがいた。
指輪を交換し、彰人が私のベールを上げた。
少し照れたように笑ってから、そっと口づける。
拍手と歓声が広がった。
「美月、きれいだね」
「久世先生とお似合い!」
そんな声が聞こえた。
彰人を見上げると、彼も嬉しそうに笑っていた。
* * *
同じ頃、圭吾は遊園地のベンチに座り、何度も時計を見ていた。
もうすぐ正午。
美月の結婚式は始まっているはずだ。
圭吾は朝から携帯電話の電源を切っていた。自分に連絡がつかないと知れば、美月も少しは焦るだろう。
式場で待ちくたびれ、怒って電話をかけてくるかもしれない。あるいは、泣きながら迎えに来てほしいと頼むかもしれない。
そんな姿を想像して、圭吾は口元を緩めた。
「圭吾先輩、あれ乗りましょうよ!」
莉奈が腕を引っ張る。
「お前、一人で行ってこいよ。ちょっと疲れた」
「ええ、せっかく来たのに」
莉奈は不満そうに飲み物を買いに行った。
圭吾はベンチに残り、また時計を見た。
美月が鍵を返したときの顔が、妙に頭に残っていた。
以前なら泣いたり怒ったりして、こちらの反応を確かめようとした。今回は静かに鍵を置き、そのまま出ていった。
婚約指輪を返しに来たときも、同じだった。
「圭吾先輩、大丈夫ですか?」
戻ってきた莉奈が尋ねる。
「ああ。少し休めば平気だ」
午後になり、二人は遊園地のレストランに入った。
圭吾はとうとう携帯電話の電源を入れた。
通知が次々と表示される。
友人から届いたメッセージを開くと、結婚式の動画が添付されていた。
白い花で飾られた会場に、ウェディングドレス姿の美月が立っている。
隣には礼服姿の男がいた。
その男が美月の手を取り、指輪をはめる。やがてベールを上げ、彼女にキスをした。
久世彰人だった。
「……は?」
圭吾は動画を再生し直した。
美月は笑っている。
隣にいるのも、間違いなく彰人だ。
『久世先生、藤原先生、ご結婚おめでとうございます!』
画面の文字を見た途端、圭吾は勢いよく立ち上がった。
肘がテーブルにぶつかり、コーヒーが倒れる。
「あっ、熱い!」
莉奈が悲鳴を上げた。
コーヒーが服にかかり、腕も赤くなっている。
圭吾は慌てて美月に電話をかけた。
出ない。
もう一度かけても、呼び出し音が続くだけだった。
あのとき、美月は本気だったのか。
鍵を返したことも、指輪を返したことも。
久世と結婚したと言ったことまで。
「圭吾先輩! 聞いてるんですか!」
莉奈の声を背に、圭吾は車の鍵を掴んでレストランを飛び出した。
5
披露宴も終わりに近づき、私と彰人はお色直しを済ませて、親族や友人に挨拶していた。
久しぶりに会う友人と写真を撮っていると、入口が騒がしくなった。
振り返ると、圭吾が立っていた。
ネクタイは曲がり、髪も乱れている。急いで来たらしく、肩で息をしていた。
「美月! いい加減にしろよ!」
圭吾が近づき、私の腕を掴もうとした。
彰人が間に入る。
「三浦先生、落ち着いてください」
「久世、邪魔するな!」
圭吾は彼を睨みつけた。
「お前ら、こんなことまでして俺を馬鹿にしたいのか?」
「僕たちはもう結婚しています。今日はそのお披露目の式です」
「そんなの、わかってるよ!」
圭吾は私へ向き直った。
「美月、本気でこいつと暮らすつもりなのか?」
「そうだよ」
「七年も付き合ったんだぞ。少し喧嘩したくらいで、別の男と結婚するなんておかしいだろ!」
近くのスタッフが、彰人に対応が必要か尋ねた。
彰人は警備を呼んでもらい、私に目を向けた。
私は彼の手を一度握ってから、圭吾へ向き直った。
「鍵を返したとき、別れるって言ったよね」
「……怒ってるだけだと思ったんだよ」
「婚約指輪も返した。結婚したことも話したよ」
圭吾は答えなかった。
「バーで言ってたよね。七年も付き合って、もう飽きたって」
彼の顔色が変わる。
「どうしてそれを……」
「動画を見たから」
「あれは酔ってたんだ。本気じゃない」
「でも、結婚式を賭けに使ったのは本当でしょう。莉奈に白衣を貸して、肩に寄りかからせてたのも」
圭吾が言葉に詰まった。
「美月、悪かった。だから、一回帰ろう。ちゃんと話せば――」
「今日は私の結婚式だよ。家族も友達も来てくれたの」
私は彰人の隣へ戻った。
「もう邪魔しないで」
入口には警備スタッフが来ていた。
圭吾は急に焦り出した。
「美月、待てよ! 十五年も一緒だったんだぞ。本当に俺じゃなくていいのかよ!」
私はスタッフにお願いした。
「招待していない方です。外へ案内してください」
圭吾はなおも私の名前を呼んでいたが、警備スタッフに促されて会場を離れた。
扉が閉まると、司会者が穏やかに進行を再開した。
彰人がそばへ来る。
「大丈夫?」
「うん。ありがとう」
私は彼の腕を取り、親族の席へ戻った。
母が心配そうにこちらを見ていたので、大丈夫だと伝える。やがて友人たちとの写真撮影が再開し、披露宴は無事に終わった。
夜、ホテルの部屋でスマートフォンを見ると、圭吾から音声メッセージが何件か届いていた。
『美月、俺が悪かった』
『酔ってただけなんだ。もう一回話そう』
最後まで聞いて、削除した。
彰人が温かい水を持ってきてくれた。
「今日は疲れたでしょう」
「うん。ちょっとだけ」
「もう休もうか」
窓の外から波の音が聞こえる。
翌朝、目を覚ますと、彰人が先に起きて朝食を並べていた。
「おはよう。よく眠れた?」
「うん」
淹れたてのコーヒーの香りがする。
私はベッドを降り、彼のいるテーブルへ向かった。
6
結婚式のあと、圭吾は何度も私に会おうとした。
病院の入口や会議室へ向かう途中で待っていることもある。以前より痩せ、目の下にはくまができ、無精ひげも伸びていた。
「美月、少し話せないか」
ある朝、入口で呼び止められた。
「仕事のことなら、あとで連絡して」
「そうじゃない。式のことも、莉奈のことも、全部俺が悪かった」
圭吾は視線を落とした。
「もう莉奈とは距離を置く。だから、やり直せないか?」
「圭吾、私、結婚したんだよ」
「わかってる。でも、今度こそちゃんとするから」
私は彼を見た。
昔、温かいスープを持ってきてくれた頃の優しさは覚えている。
けれど、その後に何度も傷ついたことも忘れていない。
「私たち、もう別々の生活を始めたんだよ」
圭吾はなおも引き止めようとした。
「通して。仕事に遅れるから」
彼が脇へ退いたところで、彰人が車から降りてきた。
「美月、コート忘れてたよ」
「あ、ありがとう」
彰人は圭吾にも軽く頭を下げた。
「三浦先生、おはようございます」
圭吾は返事をしなかった。
私たちはそのまま病院へ入った。
白衣に着替え、外来ロビーを通りかかると、大きな声が聞こえた。
「圭吾先輩!」
莉奈が圭吾の袖を掴んでいた。
「遊園地で、どうして私を置いて帰ったんですか? 火傷したのに、電話にも出てくれなかったじゃないですか!」
「ここは病院だぞ。あとにしろよ」
「都合が悪くなると、いつもそうやって逃げるんですね」
「莉奈、いい加減にしろ」
「今さら美月さんに戻ってきてほしいんですか? あんなに飽きたって言ってたくせに!」
圭吾の表情が変わった。
次の瞬間、乾いた音が響く。
莉奈は頬を押さえ、立ち尽くした。
「……叩いたんですか?」
圭吾も動きを止めていた。
莉奈は泣きながら白衣を掴み、激しく詰め寄った。看護師と警備スタッフが駆けつけ、二人を引き離す。
彰人が私の肩に触れた。
「美月、こっちを通ろう」
私はうなずき、人の集まった場所を離れた。
あとで、二人が別室で事情を聞かれたと知った。
この騒ぎはすぐに院内へ広まったが、圭吾には仕事の面でも問題が起きていた。
私は以前、彼に頼まれて研究文献を探し、症例のリスク分析を手伝っていた。
最初は同じ医師同士の協力だった。それが次第に増え、夜遅くまでデータを確認して、検討会用の図表を作ることもあった。
圭吾は資料を使いながら、分析の前提条件を十分に確かめないことがあった。
別れてから、私は研究資料を規定に従って整理し、必要なものを担当部署へ引き継いだ。
そんな中、圭吾が担当する高リスクの心臓手術について、術前検討会で問題が見つかった。
彼が提示したリスク評価に古いデータが使われており、患者への適用条件についても説明できなかったという。
上級医師が確認を求め、手術チームは再評価を行ったうえで執刀担当を変更した。
この件をきっかけに、圭吾が過去に提出した研究報告も調べられることになった。
その中に、著者の記載と実際の作業記録が一致しない資料が見つかった。
研究管理部門から私にも連絡が入り、保存していた元データやメール、更新履歴を提出した。
夕方、研究室で資料を片づけていると、彰人がやってきた。
「お疲れさま」
「ありがとう。やっと終わった」
彼は机に残っていた書類を揃えてくれた。
「昔のデータまで調べたの?」
「うん。探すのが大変だった」
「いつも記録を残してたから助かったね」
「まさか、こんなことに使うとは思わなかったけど」
私は最後のファイルをバッグへしまった。
圭吾を手伝っていた頃は、ただ彼の役に立ちたかった。
それでも、自分の仕事の記録を残しておいてよかったと思う。
7
莉奈も病院の相談窓口へ正式に申し出ていた。
遊園地で火傷したときの記録や、ロビーで叩かれたあとの診断書、圭吾とのメッセージを提出したという。
先輩という立場を利用して、無理な頼み事をされたこともあると訴えたらしい。
バーで撮られた例の動画も、関係者の手に渡っていた。
莉奈自身も賭けの席に同席し、笑っていたことは認めたそうだ。ただ、圭吾から受けた暴力については、きちんと調べてほしいと主張していた。
病院は双方から事情を聞き、圭吾の担当業務を一部変更した。
研究記録についても、調査が続いていた。
ある日、管理棟から出ると、三浦夫妻が立っていた。
以前は何度も食事をご一緒したことがある。私の家の事情が悪かった頃には、心配して声をかけてくれた人たちだった。
圭吾のお母さんが駆け寄ってくる。
「美月ちゃん、ちょっといい?」
「こんにちは」
「圭吾のことで、病院にいろいろ話したそうね」
「聞かれたことには答えました」
「でも、あの子にも将来があるのよ」
お父さんも険しい顔をしていた。
「昔からの付き合いだろう。若い二人の喧嘩で、仕事まで駄目になるのは困るんだ」
「病院が調べているのは、仕事に関係することも含まれています」
「誤解だったと説明してもらえないか」
私はファイルを抱え直した。
「資料は、求められたものを提出しただけです。判断するのは病院です」
圭吾のお母さんが声を荒らげた。
「昔、圭吾がどれだけあなたを助けたと思ってるの?」
そこへ彰人が来た。
「美月、どうかした?」
圭吾のお父さんが彰人に向き直る。
「久世先生、これは私たちの問題ですから」
彰人は私を見た。
私は首を横に振った。
彼は私の隣に立ち、それ以上口を挟まなかった。
私はバッグから銀行の明細を取り出した。
「当時、圭吾に立て替えてもらったお金は、もう返してあります」
圭吾のお母さんが驚く。
「え?」
「家賃や生活費です。それから、私も圭吾を支えてきました」
最近一年間、圭吾は私名義の家族カードを利用していた。
飲食代や旅行、洋服、時計などの支出が重なり、利用額は約一千二百万円になっていた。カードは停止し、支払いも私の口座から済ませてある。
「そんな……圭吾だってお給料があるでしょう?」
「これは私が払った分です」
私は明細をしまった。
父の会社が倒産したあと、医師として働き、研究を続けてきた。研究成果に関連する特許から収入を得られるようになり、経済的にも余裕ができていた。
圭吾の生活が苦しいなら、支えたいと思っていた。
けれど、喧嘩のたびに昔の恩を持ち出されるのは、もう嫌だった。
「圭吾には感謝しています。でも、これからのことは本人に考えてほしいんです」
三浦夫妻は黙り込んだ。
彰人と一緒にその場を離れた。
その後、圭吾が提出した研究資料の一部について、著者の記載や作業記録に問題があることが確認された。
彼は説明を求められ、担当していた研究の一部から外されることになった。
臨床業務にも影響が出始めていた。
* * *
その日の夕方は、ひどい雨だった。
彰人の車で病院を出ようとしたとき、人影が前へ飛び出してきた。
彰人が急ブレーキを踏む。
車の前に立っていたのは、ずぶ濡れの圭吾だった。
彼は助手席側へ回り込み、窓を叩いた。
「美月! 頼む、話を聞いてくれ!」
私は窓を少し下げた。
「危ないから車から離れて」
「悪かった! 全部、俺が悪かったんだ!」
圭吾の声はかすれていた。
「もう二度とあんなことしない。だから、もう一回だけ……」
「圭吾」
「七年も一緒にいたんだろ? もう俺のこと、好きじゃないのか?」
彰人が尋ねた。
「スタッフを呼ぼうか?」
私はうなずいた。
彰人が駐車場の管理スタッフに連絡する間、窓越しに圭吾へ話しかけた。
「あの七年間は、大切に思ってたよ」
圭吾が顔を上げる。
「だったら……」
「今は彰人と暮らしてる。これからも、そうするつもり」
彼の顔が歪んだ。
管理スタッフに促され、圭吾はようやく車の脇へ退いた。
彰人がゆっくり発進する。
そのとき、背後から圭吾の叫び声が聞こえた。
「美月! 久世が本気でお前を好きだと思うなよ!」
思わず振り返る。
「あいつは俺に勝ちたいだけなんだ! だからお前と結婚したんだろ!」
車はそのまま駐車場を出た。
ワイパーが雨を拭っている。
私は左手の指輪に触れた。
彰人との結婚は、確かに急だった。
一緒に暮らして好きになったところも、まだ知らないところもある。
私たちはどうして、互いに結婚を決めたのだろう。
今さらながら、きちんと聞いてみたくなった。
8
帰り道、私はほとんど話さなかった。
彰人は前を見て運転しながら、ときどきこちらを気にしていた。
赤信号で車が止まる。
「寒くない?」
「うん、大丈夫」
少し間を置いて、彰人が尋ねた。
「三浦先生に言われたこと、気になってる?」
私はうなずいた。
「彰人、どうして私と結婚しようと思ったの?」
彼は少し考えてから口を開いた。
「LINEの投稿、覚えてる?」
「結婚相手を探してるって書いてあったやつ?」
「あれ、美月だけが見られる設定にしてたんだ」
「……私だけ?」
「うん」
車が走り出した。
私はあの夜、たまたま彰人の投稿を見つけたのだと思っていた。
「どうして?」
「二年前、一緒に症例検討会へ出たことがあったでしょう」
「うん」
「あのとき、美月がデータの問題を指摘したんだ。あとで修正した表まで送ってくれて」
記憶をたどる。
確かに、別の科の医師も参加した会議で、使われているデータの条件について質問したことがあった。
「ああ、あのとき?」
「それから、研究会でも何度か会ったよね。もっと話してみたいなって思ってた」
「そうだったんだ」
「でも、彼氏がいるって知ってたから」
私は彼の横顔を見た。
「じゃあ、婚約がなくなったことも知ってた?」
「式が延期になったとは聞いてた。元気がなさそうだとも」
彰人は少し照れたように笑った。
「何か声をかけたかったんだけど、急に連絡するのも変だろうと思って」
「それで、あの投稿?」
「うん。かなり回りくどかったね」
私は笑ってしまった。
「彰人でも、そんなことするんだ」
「好きな人のことになると、案外うまくいかないものだよ」
彼の耳が赤くなっている。
「だったら、あのとき教えてくれればよかったのに」
「美月は三浦先生と別れたばかりだったから。困らせたくなかったんだ」
私は指輪を見下ろした。
「彰人」
「ん?」
「じゃあ、これからは?」
車がマンションの前に停まった。
彰人はエンジンを切り、こちらへ向き直った。
「美月と、ちゃんと向き合いたい」
そして、少し笑った。
「今からでも、恋人として付き合ってみませんか?」
私は彼の手を取った。
「喜んで」
彰人が嬉しそうに笑った。
私たちは、結婚してから恋人になった。
病院ではそれぞれの仕事に集中し、家では一緒に食事をする。休みが合えば散歩に出かけ、仕事帰りには近くの店で夕飯を食べた。
研究でも協力する機会が増えた。
私は臨床データの解析とリスク予測モデルを担当し、彰人は脳神経外科の症例研究を進めていた。
意見が合わず、会議室で何時間も議論したこともある。
ある日、モデルの適用範囲について結論が出ず、二人とも遅くまで残った。
帰りの車で、彰人が尋ねる。
「夕飯、何が食べたい?」
「うどん。温かいやつ」
「じゃあ、いつもの店に寄ろうか」
彰人は交差点を曲がった。
研究は少しずつ形になっていった。
チームで役割を分担し、必要な審査を終えたデータを使って分析を進める。何度も検証し直し、数か月かけて論文にまとめた。
国際的な医学誌から受理の連絡が届いたとき、私は研究室で思わず立ち上がった。
画面には、論文の題名と著者一覧が表示されている。
自分の名前も、担当した研究内容も、きちんと記載されていた。
彰人がコーヒーを二本持ってきた。
「おめでとう。大変だったね」
「彰人もお疲れさま」
一本を受け取る。
「次のテーマも、一緒にやってみる?」
「もちろん。でも今度は、モデルを変える前にちゃんと私の説明を聞いてね」
「わかりました、藤原先生」
「返事が軽い」
「ちゃんと聞くよ」
二人で笑った。
一方、圭吾に関する調査は続いていた。
莉奈とのトラブル、研究記録の問題、臨床業務での準備不足について、それぞれ処分が下されたという。
圭吾は一部の仕事から外され、再研修を受ける機会もあったが、同僚との衝突を繰り返し、やがて花守中央総合病院を離れた。
大きな病院への転職はうまくいかず、最終的には郊外の小規模な医療機関で、外来診療や健康相談を中心に働くようになったらしい。
以前の友人から、酒を飲むことが増えたとも聞いた。
私は短く返事をして、自分の研究へ戻った。
次の発表の準備で、毎日忙しかった。
9
半年後、花守市で医学研究交流会が開かれた。
私と彰人は若手研究者として招かれ、チームの研究成果を発表することになった。
会場には各地の医師や研究者が集まり、取材に来た記者の姿もあった。
彰人が臨床研究の背景を説明し、続いて私が予測モデルの構築方法と検証結果を紹介する。
質疑応答では、研究の限界や今後の課題についても質問が出た。担当に応じて交代しながら答え、発表を終えると会場から拍手が起こった。
壇上を降りると、先輩研究者たちが声をかけてくれた。
「藤原先生、興味深い結果でしたね」
「ありがとうございます」
「次は別の施設のデータでも検証する予定ですか?」
「はい。今ちょうど検討しているところです」
私はノートを開き、いただいた意見を書き留めた。
そのとき、少し離れたところから名前を呼ばれた。
「美月」
顔を上げると、圭吾が立っていた。
以前より痩せ、顎には無精ひげが残っている。スーツも少しくたびれて見えた。
手には交流会の資料を持っていた。
一般参加できる学術セッションもあるので、圭吾が来ていても不思議ではなかった。
彼はゆっくり近づいてきた。
「さっきの発表、聞いてたよ」
「ありがとう」
圭吾は一度彰人を見てから、私へ視線を戻した。
「いい研究だったな」
「うん。チームのみんなで頑張ったから」
「そうか……」
圭吾は手元の資料を握り直した。
周囲では、研究者たちが次のセッションについて話している。
少し間を置いて、彼が言った。
「美月。昔のこと、本当に悪かった」
私は彼を見た。
謝罪を聞くのは、これが初めてではない。ただ、以前のように引き止めようとはしなかった。
「うん。圭吾も元気でね」
彼は小さくうなずいた。
彰人が、椅子に掛けていた私のコートを取ってくれる。
「美月、次のセッションが始まるよ」
「あ、もうそんな時間?」
私はノートを閉じ、圭吾に頭を下げた。
「三浦先生、失礼します」
圭吾はその場に立ったまま、私たちを見送った。
会場を出て廊下を歩く。
大きな窓から、午後の日差しが差し込んでいた。
「疲れた?」
彰人が私の歩く速さに合わせる。
「少し。でも、さっきの質問、もうちょっとうまく答えられた気がする」
「どの質問?」
「年齢層によってモデルの適用範囲が変わるって話。帰ったら、もう一組データを確認したいな」
「いいね。夜、一緒に見ようか」
「うん。でも、その前にご飯が食べたい」
彰人が笑った。
「もうお腹すいた?」
「朝からおにぎり一個しか食べてないんだもん」
「昨日、ちゃんと朝ご飯を食べるって言ってなかった?」
「出かける前にスライドを直してたら、時間なくなっちゃった」
「じゃあ、次は僕が朝ご飯を用意しようか」
「それなら、目玉焼きがいいな」
「了解」
私たちは次の会場へ向かいながら、交流会が終わったら何を食べようかと相談した。
セッション開始まで、あと十分。
私はノートを彰人に預け、研究チームのグループにメッセージを送った。
「行こうか、美月」
「うん」
彰人が会場の扉を開ける。
私は彼と並んで、中へ入った。




