共同研究者2
待ち合わせは京急蒲田駅の改札内。
急に決まった丼デートに副交感神経が刺激されやや寝不足だ。
当たり障りない春に合わせたシャツとジーパンという格好が自動販売機越しに映る。
大丈夫だよな、という感情が時間と自分自身を煽って腕時計に目線が幾度となく落ちていく。
デートプランとは驕った表現だとは思うも思い描くシチュエーションに心躍っている。
お昼時を長針が刺し、少しした頃だろうか。
「山田さんお待たせいたしました」
と少しトーンの高い声が聞こえてきた。
振り返るとそこには坂本さんの清楚イメージそのままに花柄のワンピースの彼女がいた。
「妖精?」
「はい?」
妖精に見えたのだ。
「いえ、なんでもないです」
「そうですか、あっ、もうあと1分で電車来ます! 浅草直通なので座れたらラッキーです」
「僕は坂本さんと並んでいられることがラッキーです」
ふーん、という音を察知。
「それはバイト先の後輩の彩華さんにもそういうこと言うんですか?」
身長差的に竹の30センチ定規丁度の坂本さんは覗くように尋ねてきた。
「そもそも論です」
言い訳のように聞こえてきた。
「そもそも?」
「そもそも彩華とは出かけませんし、坂本さんと出かけられる人間はみんな嬉しいと思います」
「そうですか?」
はい、の即答。疑いは晴れていなそうだが、少しだけふーんの後の声のトーンが違っていた気がした。
浅草の空は、昼の光をうっすら反射していた。
観光客の声、屋台の呼び込み、線香の匂い。
その全部が、坂本さんのテンションを刺激しているように見えた。
「……人、多いですね」
「浅草は平日でもこんな感じです。
週末になると、雷門の前なんて歩けませんよ」
僕がそう言うと、坂本は小さく目を丸くした。
「詳しいんですね」
「高校のとき、陸上部の合宿帰りによく寄ってました。
食器街の裏に、古い喫茶店があるんですよ。
店主が牛丼の器を集めてて、
“どんぶりは、味の最後の記憶を支える器”だって言ってました」
「……味の最後の記憶、ですか」
「ええ。つまり、“終わりが綺麗な料理は、また食べたくなる”ってことですね」
坂本さんはその言葉を、まるで研究メモのように小さく繰り返した。
「味の最後の記憶……」
彼女の唇に、紙の上でペン先が止まるような集中の気配があった。
通りを歩くと、陶器の並ぶ店々の間を風が抜けていく。
白磁のどんぶり、藍染めの箸置き、
釉薬の焦げが美しい古伊万里の皿。
「ほら、これ」
僕は棚の端にあった器を手に取った。
縁の部分が焦げ茶にくすみ、
真ん中にかけて淡い乳白色にグラデーションしている。
「焼きの温度が高くて、縁だけ焦げたんでしょうね。
こういうの、窯変って言うんです。
偶然の仕上がりなんですけど、職人はそれを“味”って呼びます」
「焦げが……味」
「そう。
焦げって、どんなに計算しても最後は“人の手”でしか出せないんですよ。
完璧じゃないから、温かい。それが、たぶん僕が焦げを好きな理由です」
坂本さんは少しだけ俯いて、
その器を自分の胸の前に持ち上げた。
「……じゃあ、これにします。お揃いで」
「いいんですか?」
「はい。焦げのある器で、焦げない牛丼を作るって、
なんだか素敵じゃないですか」
笑った坂本さんの頬が、午後の光を受けて淡く紅潮していた。
通りの喧騒が少し遠のいて、
牛丼屋でもないのに、僕の胸の奥に“温度”が残った。
器を包んでもらったあと、
通りを抜けてすぐの路地裏に、小さな喫茶店があった。
木の引き戸に「珈琲・焦香」と書かれた看板。
「焦げ、ですか……」
「偶然にしては、できすぎですね」
坂本がくすりと笑う。
古い木の扉を開けると、
カラン、とベルの音が落ち着いた空気を揺らした。
店内は薄暗く、天井近くを走る換気扇の音が一定のリズムを刻んでいる。
棚には古いコーヒーミルと、鈍く光るカップがずらりと並んでいた。
「ここ、いい匂いですね」
「焙煎した豆の焦げですよ」
「焦げ……」
坂本は、わずかにその言葉を噛みしめるように繰り返した。
店主が静かに近づき、
黒いカップを二つ置く。
コーヒーの表面には、
小さな泡がひとつ、ゆっくり弾けた。
「焦げってね、時間の味なんですよ」
店主が、カウンターの向こうで笑った。
「急いで焼くと苦くなる。
じっくり火を通すと、香ばしくなる。
料理でも、人でも、同じこと」
坂本はカップを手に取り、
湯気の向こうで店主の言葉を追うように目を細めた。
「……時間の味、か」
僕も一口飲む。
苦味のあとに、ほんのわずかな甘さが舌の奥に残った。
焦げの味は、たしかに“待つ”ことの味だった。
「焦げって、悪いものじゃないんですね」
「むしろ、時間をかけた証拠です」
坂本さんは、目の前のコーヒーを見つめながら、小さく微笑んだ。
「……じゃあ、私たちの研究も、もう少し焦がしてみますか」
「そうですね。焦げないように気をつけながら」
コーヒーの香りが、
街の喧騒をひとつずつ遠ざけていく。
午後の陽が傾きはじめ、窓の外では人波がゆるやかに流れていた。
二人の時間だけが、焦げ目のように、
静かにページに刻まれていく。




