陽だまりの侵入者
居酒屋ビーフボウル、高校2年生から働いて気づけば3年目だった。
「パイセンおつっす!」「山田、今日もありがとうな」
シフトが被った後輩と店長に声をかけられ、店を後にした。
「お疲れ様でした、また明日もお願いします」
一礼すると後輩と店長はケラケラと真面目、と笑っていた。
携帯をポケットから取り出すと時刻は22時を回っていた。
バイトだからご飯は賄い食べます、というLINEに対する母親のスタンプ通知と別にもう一つ通知が入っている。
友達付き合いは悪い自負があり、僕にLINEする人間はバイト仲間くらいだ。
『明日も学食にいますか?』
という坂本さんからの内容。さてどうしたものか、と春の優しい夜空を見上げる。
男たるもの女性のLINEは自ら申し出て聞くもの、なんて漠然と思っていたが気づけばLINEをたまにする仲にスピード出世をしていた。
『夜空が綺麗なので出席です』
と送り、歩き出す。
ーー坂本さんと出会いしばらく経ち、向かい合って席につくのが、すっかり当たり前になっていた。
彼女はいつものように、丁寧に手を合わせて「いただきます」と言う。
その隣で、僕も静かに真似をする。
その時間だけ、世界の音が遠のいていく気がする。
――だったのに。
「パイセーン!」
突然、背後から弾けるような声。
僕の肩を軽く叩く手があって、振り向けば、そこに立っていたのは彩華だった。
居酒屋〈ビーフ ボウル〉で一緒に働く、元気の塊みたいな後輩だ。
昨日シフトが被っていたのにも関わらずこのテンションとは末恐ろしい。
淡いベージュのパーカーに、髪の毛を後ろでざっくりまとめて、
小さなピアスがきらりと光る。
「やっぱりここいた! マジで探したんすよ〜」
「彩華か、そんなテンションでどうしたの?」
「いや、今日まかない当番なんすけど、パイセンに味見してほしくて!」
そう言いながら、彼女は大事そうに抱えたコンビニ袋を机に置いた。
中には小さなタッパー。
開けると、ほのかに甘辛い匂いが漂う。
「……牛丼?」
「そっす。自信作っすよ。ここの学食と違って焦げてはないけど、情熱は焼きました!」
いつもの調子で笑う彩華。
その明るさが空気を一瞬で変えていく。
坂本さんが少し驚いたように彼女を見つめて、視線が泳ぎ、目が合う。
それでも、坂本さんは穏やかな笑顔を崩さなかった。
「山田さん、お知り合いですか?」
「あ、はい。バイト先の後輩で」
「へぇ……」
坂本の声がほんの少しだけ低くなった。
気のせいかもしれないけれど。
「パイセン、あーんしていいっすか?」
「いや、それはちょっと……」
「えー、いいじゃないっすか〜、ウチとパイセンの仲っすよ、減るもんじゃないし」
笑いながら、彩華がスプーンを差し出す。
けれど僕は手で押し戻す。
「ごめん、今はこの牛丼食べてるから」
「ちぇー、真面目だなぁ」
軽く拗ねるように唇を尖らせる彩華。
「この牛丼食べ終わったら食べるから」
というと落ち着いたのか、隣のテーブルへ腰を下ろす。
「ウチの牛丼が食べれないわけないっすもんね」
そのやりとりを見ていた坂本さんは、微笑みを保ちながらも、箸の動きが少しだけ止まっていた。
気づかないふりをしながら、僕は紅生姜をマイトングで整えた。
湯気がゆらめく。
坂本さんの視線が、紅生姜に視線が注視されている。
その日の昼食は、いつもより長く感じた。
「次移動なんで」
といい残った彩華の牛丼を坂本さんと取り分けて、ずるい、なんて坂本さんから聞こえた気がするけどおそらく気のせいだ。
「彩華さん? が造る牛丼、実家の味って感じですね」
「いつもこんな感じで食べなくても分かるんですけど」
と言いかけて空気の異変を感じた。
「牛丼に罪はないんで食べましょう」
一口運ぶ瞬間に気まずさから目を閉じた。
なんだか目を開けるの怖く、片目ずつ開く。
坂本さんは、黙って牛丼の肉をひと切れずつ丁寧に箸でほどいていた。
口を開けば、湯気のように何かが溶けて消えてしまいそうで、
僕も何も言えずにいた。
箸が器の底にあたる音だけが、静かに響いた。
元気印の彩華が去った後の僕たちの席は、その元気の残り香だけが漂っている。
「……あの方、とても賑やかですね」
不意に、坂本さんが言った。
声音は穏やかで、微笑みもそのまま。
だけど、笑っている瞳の奥に、何か少し尖った光が宿っていた。
「ええ、まあ。明るい後輩なんです。元気が取り柄で、でも仕事は真面目ですよ」
「……そうなんですね」
坂本さんは箸を置いた。
ほんの一拍の沈黙のあと、彼女はまるで独り言みたいに呟いた。
「牛丼以外も、お好きなんですね」
「え?」
「……女の子とか」
言った瞬間、坂本さん自身が一番驚いていた。
その言葉を口にした自分に、目を見開く。
慌てて箸を持ち直すけど、その手の震えは、彼女自身も止められなかった。
僕は言葉を失った。
何か返そうとして、喉の奥で息が詰まる。
坂本さんは、少しだけ俯いて小さく笑った。
「ごめんなさい、変なこと言いました」
「いえ、そんな……」
「焦げてもいいような人が、羨ましくて」
その言葉は、冗談のように柔らかく、でもどこかで本気だった。
彼女の箸の先が小さく震えて、紅生姜をつまむ。
その紅生姜が、いつもより鮮やかに見えた。
なんと取り繕うか、いや取り繕う必要性はあるのか、
なんて考えて、牛丼の湯気を通して坂本さんの横顔を見ていた。
心のどこかで学食の牛丼以外で“焦げる”という言葉の意味を、
少しだけ違うものとして感じ始めていた。
焦げてみましょう山田くん(日サロ)




