ビーフシチュー
東京から帰郷してきた幼馴染の春香が、僕の家に泊まる事になった。その事を知ったのは、出迎えに行った帰りに寄ったカフェで、春香から告げられた。昔からよく泊まっていってたから、家にある部屋の一室が彼女の部屋になっている。
「春香様とは実に三年振りの再会になりましたが、ますます美人さんに成長されましたね」
晩ご飯を作りながら、音霧は僕に話しかけてきた。春香との再会が嬉しかったのか、いつもよりご機嫌な表情を浮かべている。音霧と一緒に暮らしているのは僕だが、こと料理方面に関しては、春香との方が付き合いが深い。音霧と春香は、料理の師匠と弟子の関係だ。
「ミチル様も驚いたのではないでしょうか? 年上の綺麗な女性ほど、魅力的な存在はおりませんから」
「……一理ある」
「ッ!? そ、そうですか! いやはや、言ってみるものですね~!」
沙耶さん。僕は彼女に魅力を感じている。そうでなければ、今も鮮明に思い浮かばないだろう。綺麗な黒髪で、美人で、時折見せる可愛らしさ。求めようとすれば、もう二度と戻ってこれないと覚えてしまう奥深さ。
沙耶さんが年上だから魅力的に思えてしまうのだろうか。それとも、沙耶さんだから魅力的に思えてしまうのか。
どちらにせよ、僕は僕自身が思っているよりも、沙耶さんを特別に思っているのだろう。
「また何か考えてるね」
振り向くと、いつの間にか僕のすぐ隣に春香がいた。この至近距離でも顔の良さが嫌という程伝わり、その凄まじさからか、後光のようなものまで発している。
「久しぶりね、音霧。急に泊まる事になってごめんね」
「いえいえ。春香様は、この家の者と言っても過言ではありませんから」
「嬉しい事を言ってくれるわね。今日のご飯、期待してるから」
「はい! もう少々で出来上がりますので、どうぞ席に。ミチル様のお隣の席に」
「フフ。それじゃ、隣失礼するわね」
春香は僕の隣の席に座ると、僕の方へ体を向けて椅子の背もたれに肘を掛けた。昔からそうだったが、春香は必ず僕を真っ直ぐと見つめてくる。話す時も、聞く時も。会話が無くとも、それは変わらない。
僕は春香のそういう所が昔から苦手だ。別に嫌なわけじゃないが、四六時中見つめられては居心地が悪い。普段浴びる視線とは、圧が違う。その圧は年々増しているようだった。
「ミチルは進路はどうするつもり?」
「いきなり重苦しい話ですね?」
「すぐ決めずとも、考えておく必要はあるわ。三年って長いようで短いんだから」
「進路ですか……特に決めてませんね」
「行きたい大学とか、なりたい職は?」
「特に」
「じゃあ私の主夫になりなさいよ」
その言葉の後に、音霧が皿を落とした。
「……あ、申し訳ございません! お皿を一枚割ってしまいました!」
「気にしなくていいよ。皿なら他にもあるじゃないか」
「すぐ片付けて、新しいのを取ってきますね! 少し時間が掛かるかもしれませんね! 大変だ大変だー!」
音霧は何故かニコニコと笑顔を浮かべながら、手早く割れた皿を片付け、廊下へ出ていった。皿を取りに行ったのだろうか。ここに置かれている棚にも沢山あるのに。
「珍しいな。音霧が皿を割るなんて」
「器用なのか、不器用なのか」
「それで話は戻りますけど、どうして僕が主夫に? 僕、そこまで家事が得意ってわけじゃないんですけど」
「料理が出来るじゃない。掃除も洗濯も。まぁ、買い物に関しては不慣れだと思うから、しばらく一緒に買いに行きましょう」
「まるで決まった事のように話しますね」
「だって、行きたい大学もなりたい職もないんでしょ? なら、私の生活を支えてよ」
「しかし、いいのでしょうか? 僕と春香は、そういう関係ではないでしょう?」
「そういう関係になるから、主夫になるのよ」
「……すみません。どういう意味ですか?」
すると、春香は頭を抱えてため息を吐いた。
「……相変わらず、鈍感だね。変わってなくてホッとするけど、変わらなくてウンザリ」
「鈍感? 僕はただ疑問に思ってるだけです」
「そういうのが鈍感だって言ってるの。普通は気付くのよ? 私が何を言いたいのか」
「……家事代行の職に就け?」
「どうしてそうなるの……やっぱり、率直に言うしかないのね」
「どうして最初から率直に言わないんですか?」
「……アナタ、女を泣かせる才能があるわよ」
春香は僕の肩を叩くと、そこから何も喋らなくなった。こういう結果になるのは、もう何度目になるだろう。察しが悪い僕もだが、わざわざ問題のような言葉にして伝えてくる春香も悪い。言いたい事があるのなら、隠さずに言うのが一番だ。
数分後、空の手のまま戻ってきた音霧は、不機嫌になっている春香を見て苦笑いを浮かべた。
晩ご飯のメインはビーフシチュー。その見た目通り味は格別で、自然と笑みがこぼれてしまう。明日から毎日これでもいいくらいだ。
しかし、そんな美味しい料理が出ているというのに、僕達の間に会話は起きなかった。静かに、淡々と、食器の音だけが響いていた。