信じてる
午前十一時。いつもよりも遅くに起きてしまった。隣で寝ていたミチル君はとっくに起きていたのか、温もりがあまり残っていない。顔を近付けて匂いを嗅いでみると、男の子の匂いが少しした。このまま顔を埋めたかったけど、お爺ちゃんの布団でするものじゃないと理性が勝ち、諦めて布団から出た。
食卓に行くと、テーブルの上にはラップを掛けられた朝食と、その隣に書き置きがあった。
【先に帰ります。泊めてくれてありがとうございました。また今度】
書き置きに書かれていた内容は、堅いのか緩いのか分からない文。自分勝手な解釈をするならば、少なからず私に好意を向けてくれているのかもしれない。
「また今度、か……フフ」
ただの書き置きの紙を私はまるで宝物を扱うようにして、胸に埋めた。そうすると、あの子が書いた文字が私の心臓に焼印された気がした。嬉しくて、熱くて、切ない。私はこんなにも感情豊かな人間だったんだ。
あの子が作ってくれた朝ご飯を食べた後、一度シャワーを浴びて着替えた。店に出ると、そこは静寂。人もいなければ、音も無い。唯一の心の拠り所と思っていた場所だったのに、今はここから飛び出したい気分になってしまう。
私は変わってしまった。変わってしまった理由は分かっている。私がミチルに恋をしてしまったからだ。
「……私も、ミチルのように出逢えるのかな」
あの子はあてもなく彷徨った先でここへ辿り着いた。私もあてもなく彷徨っていれば、あの子がいる場所へ辿り着けるのだろうか。
着替えたばかりの服を脱ぎ捨て、着る機会が無かった外用の服に着替えた。冬に買った物だから、少し場違いな感じがあるけど、大人っぽさは演出出来る。
店の鍵を掛け、私はあてもなく彷徨い始めた。人通りが多い場所まで来ると、当然周囲の声や音が聞こえてしまう。
私は賑やかな場所が好きじゃない。この場所に馴染めない自分が惨めに思えてしまうから。だから、人が多い場所は避けていた。けど、あの子に会える為と思えば我慢出来る。
歩いていると、少し先にカフェがあった。去年出来たばかりの新し目の店で、中と外に席がある。店の中を覗いてみると、お爺ちゃんのカフェとは雲泥の差で客が入っていて、一組店から出ていくと、間髪入れずに新しい客が店に入っていく。
私は店の中に入り、適当に目についた飲み物を頼んで窓側の席についた。外よりは静かで、店内で流れている曲は落ち着ける感じ。でも、飲み物は甘過ぎて好きじゃない。これなら普通のアイスコーヒーを頼むべきだった。
頬杖をつきながら外を眺めていると、外の席に見慣れた子が座っていた。私からは後ろ姿しか見えないけど、顔を見ずとも雰囲気でミチルだと分かった。
「逢えた……! ミチ―――ッ!?」
あの子の向かい側の席に、見知らぬ女が座った。綺麗で、落ち着いていて、芯のある女。あれが幼馴染だろうか。あの子は出迎えだけと言っていたけど、どうして一緒にいるんだろう。
女はあの子と話し始めると、優し気な表情で微笑んでいた。喋る口が閉じる気配は無く、唯一閉じていたのは飲み物を飲んでいる時だけ。その最中も、あの子を見て聞いて笑っていた。
どうして、あそこにいるのが私じゃないんだろう。私が知らない誰か、女があそこにいるべきじゃない。
どうして、あの子は席を立とうとしないのだろう。私がこんなにも見つめているのに振り向きもしない。振り向いて、私がいる事に気付いて、私の隣の席に来てほしいのに。
昨日の夜。あの子は私を受け入れてくれた。私を包んでくれた。あの子の温もりと匂いのおかげで、久しぶりに安眠出来た。
なのに、どうして今日はこんなにも距離が遠いのだろう。どれだけ手を伸ばしても掴めない空のように、あの子が遠過ぎる。
私が沈んでいく。空の美しさが見えない海の底へ。
それでも、私は手を伸ばす。また、あの子が空の美しさが見える海中まで連れて行ってくれる事を信じて。