金木犀の香り
二十二時を回った。窓の外では、未だに雨が降り続けている。自分の家じゃないからか、今夜は少し冷える。
結局僕は沙耶さんの家に泊まる事になった。店の奥にあるこの部屋は、ここの家主で店主のお爺ちゃんの部屋。畳敷きに年季の入った棚。壁には白黒の写真が掛けられていて、その写真には数人の男女が笑顔で映っている。
勝手に借りた手前、あまり文句は言えないが、少し怖いと思ってしまう。今日は眠れるだろうか。
敷かれている布団の中に潜ろうとした矢先、部屋の扉が開いた。入って来たのは、寝間着姿の沙耶さん。自分の枕を両手で抱えている。
「沙耶さん。どうしたんですか?」
「眠れないんじゃないかと思って」
「僕が?」
「他人の家だから遠慮してそうだなーって」
「まぁ、確かにそうですけど……それで、どうして沙耶さんが来るんですか?」
「私が夜のお供になってあげる」
「一緒に寝るって事ですか? でも、布団は一組しか……」
沙耶さんは持ってきた枕を布団の上に置くと、僕よりも先に布団の中に潜った。
「ほら。君のスペースも十分あるでしょ?」
確かに沙耶さんが言うように、僕が寝るスペースはある。しかし、知り合ったばかりの人と、女性と同じ布団で寝るのは、少し不純な気がする。
「どうしたの? もしかして、緊張してる?」
「いえ。あの、あまりこういう行為を気軽にするのは、少しどうかと思いますよ。沙耶さんは女性ですし、綺麗な方なんですから」
「口説いてるの?」
「警告しています」
「……私、さ。今まで誰かと一緒に寝た事が無いんだ。男の子も、女の子も。おかしな事だとは分かってるけど、少し気になっちゃうんだ。誰かと一緒に寝るのって、どんな感じなのかなって」
「……僕だって同じですよ」
僕は少しだけ、沙耶さんに気を許し過ぎている気がする。出来るだけ沙耶さんの体に触れないよう、掛け布団から半身はみ出した。
奇妙な感覚だ。ジッと天井を眺めているだけなのに、体が熱い。雨に濡れた所為で、風邪をひいてしまったのだろうか。
「ねぇ、ミチル君」
耳元から沙耶さんの声が聞こえた。同じ布団に入っているとはいえ、少し近過ぎる気がする。
隣の方へ顔を向けると、僕の鼻先と沙耶さんの鼻先がぶつかった。沙耶さんの吐息の感触が唇から感じる。沙耶さんの瞳が、錯視のように際立って見えてしまう。
このままでは駄目だ。何が駄目かは分からないけど、このままだといけない気がする。すぐにでも布団から飛び起きるべきだ。
でも、どうしてか。僕の体は石になったかのように、動かす事も、動く気も起きなかった。
「ミチル君……」
言葉を発する度に、唇を動かす度に、触れてしまうような危うさを感じる。怖いわけじゃない。緊張しているわけでもない。
ただ、どうしようもなく、体が熱い。
すると、沙耶さんのオデコが僕の唇を掠めていった。
「沙耶、さん……?」
沙耶さんは僕の胸に顔を埋めている。僕に密着した沙耶さんの体が、熱くなっていた僕の体温を冷ましていく。
それでも、僕の胸の内は熱いままだった。
「……落ち着く」
「僕は落ち着きませんよ」
「……変だよね。私は二十四で、君はまだ学生さん。なのに、君に甘えてしまう」
「甘えるのに歳は関係ありません」
「じゃあ、なんで?」
「それは……それは……」
「……そっか……そうだったんだ。君は私にとっての金木犀だったんだ」
「金木犀って、確か花の名前でしたっけ?」
「うん。オレンジ色をした沢山の花。一度嗅いだら忘れられない、甘い匂いがするの」
「へぇ……それで、どうして僕が金木犀だと?」
理由を訊ねてみたが、教えてはくれなかった。その代わりに、答えてくれた。
唇に柔らかい感触。キスをされた事に気付いたのは、再び沙耶さんが僕の胸に顔を埋めた後だった。どうしてキスをしたのかを聞こうとしたが、今の沙耶さんに聞くのは少し残酷な気がした。
「……今日は、少し冷えますね」
そんな事を口にしながら、僕は沙耶さんの背中に手を回し、身を寄せた。男の僕とは違う、女性の柔らかさが体を刺激してくる。不純な事と知りながら、沙耶さんを抱きしめてしまう。彼女を求めてしまう。
だから僕は瞼を閉じた。これ以上、沙耶さんを求めてしまわないように。
僕は沙耶さんから逃げた。