そこに君がいる
私は馬鹿だ。会ったばかりの、しかも年下の男の子に会いに来てねなんて色気を出して。私は二十四。あの子は着ていた制服からして、この近くにある高校生。確実に犯罪だ。
「……明日も、あの子に会える」
湯船に浸かりながら、羽柴ミチル君の姿を思い出した。私よりも背が高くて、高校生だけどまだあどけなさが残る顔立ち。肌は女の私よりも綺麗だし、髪の毛も艶があった。女の子の服さえ着れば、メイクせずとも女子として何の違和感もないだろう。
そんな可愛い子と、あのカフェで一緒にいられる。客なんて来ないあの店に。あの子が通っている学校の女子達よりも、長く傍に。
「……気持ち悪い」
長い間、誰とも関わらなかった弊害か。私の歳が二十四じゃなく三十代だったら、今すぐにでも首を吊りたい気分だった。明日、あの子が店に来たら、冗談だったと謝ろう。
でも、あの子はきっと不思議がるだろうな。どうして自分に冗談を言ったのか、なんて心底不思議そうな顔で私に訊ねるんだろうな。
翌日、私は店で彼を待った。店内を掃除して、身なりも整えて、二人で飲む用に二つのカップを用意して。振り子時計が刻む一分一秒に遅さを感じながら、私は彼を待った。
しかし、いくら待っても彼はやってこない。気付けば時刻は二十一時。
来なくて当然だ。会ったばかりの人間との口約束。来ないのが普通で、逆に律義に来るのがおかしい。これが普通なんだ。
それでも、明日も待ってみよう。もしかしたら、急な用事が出来て来れなかっただけかもしれない。不思議な子だったんだ。口約束を果たす為に来てくれるかもしれない。
その翌日。彼は来なかった。
更に翌日。彼は来なかった。
彼は、来なかった。
店の扉が開く事無く、金曜日になった。初めて会った時から五日目。私は自分でも驚くくらいに、彼を待ち望んでいた。ここまでくると、気持ち悪さよりも不気味さが勝る。私はどうしてここまで彼を待ち望んでいるのだろう。
「……ここから、近い……近いんだよね……」
私は外に出た。風一つ無く、雨が降っている。傘を差して、雨が弾ける音を耳にしながら歩き始めた。
ニ十分程経って、彼が通っている学校の前に辿り着いた。今の時間はまだ午前授業の真っ最中。関係者でもない私が校門をくぐって学校に入るのは、あまりにも不審過ぎる。そもそも、彼目当てでここまで来た事自体が不審者じみている。
そう思いながらも、私は校舎の窓を一つずつ見ていった。ここからだと教室の様子がよく分からないし、雨が邪魔をして人影すら見えない。それでも、私は捜した。
「……あ」
彼がいた。二階の中央の窓。頬杖をついて机に視線を落としている。
「フフ……ちゃんと授業を受けないと駄目じゃない」
しばらく彼の様子を眺めていると、彼が窓の方へ顔を向けた。
目が合った。彼は、校門前にいる私を見つけた。見つけてくれた。彼が窓から見えなくなると、入り口から傘も差さずに私の方へと駆け寄って来た。必死になって私に近付いてくる彼の姿に、心臓が絞めつけられたかのような苦しみを感じた。その苦痛が、どうしてかとても心地良かった。
そんな私の気持ちなど知る由も無い彼は、私のすぐ目の前で立ち止まると、やっぱり不思議そうな表情で私を見ていた。
「そんなに慌てて、どうしたの?」
「沙耶さんが立っていたのを目にして」
「それで来てくれたんだ。授業は? まだお昼休みじゃないでしょ?」
「いいんです」
「あ、悪い子だ~。みんな見てるよ。君って学校では有名人?」
「よく視線は感じます」
「フフ。そうなんだ」
彼は、その視線がどんなものかまで把握しているのだろうか。嫉妬・憎悪。馴染みのある視線だ。その視線は全て彼の向かい側に立つ私に向けられている。
「すみません。明日から働くと約束したのに、結局四日も行けずに」
私が嫌な視線を感じている間に、彼は謝罪の言葉と共に私に頭を下げていた。その瞬間、感じていた視線がどうでもよくなり、目の前にいる彼に意識が向いてしまった。さっきから雨に打たれっぱなしで、川に飛び込んだ後みたいになっている。
「い、いいのいいの! 別に謝ってもらう為に来た訳じゃないから!」
「では、どうして?」
「そんな事より早く傘の中に戻って! 風邪ひいちゃう!」
私は強引に彼を傘の中に引き込んだ。思ったよりも力が入ってしまい、彼を引き込み過ぎた。その所為で、私のオデコが彼の顎先に触れてしまう。
「あ、すみません」
「う、ううん、いいよ……全然……」
オデコと顎先とはいえ、異性と触れた。それなのに、彼は平気そうな顔で、私に謝ってきた。それがどうしてか、凄く悲しかった。彼にとって私は、特に気にする人間じゃないんだと。
私は、女性として見られていない。
「……沙耶さん。道案内をお願いしてもいいですか?」
「え? でも、学校はまだでしょ?」
「今日はもういいんです。こうして外に飛び出した以上、戻る気にはなりません」
そう言って、彼は……ミチルは私に微笑んだ。私の気持ちを察してか、あるいはその言葉通りなのか。どちらにせよ、やっぱり不思議な子だ。不思議で、優しい人。
「……フフ。やっぱり、悪い子だね」
行きはこの傘の中で一人だった。雨を弾く傘の音を耳にしながら、寂しさとちょっとの期待感を抱いていた。
今は、この傘の中にミチルがいる。隣で何も言わず、私の歩幅に合わせて進み、時折周囲の景色に目を移す。
きっと私とミチルには、意識の差があるだろう。四六時中ミチルの事を考えてる私と、私を記憶にある人物の一人程度に考えるミチル。
それでも、こうして隣にミチルがいる今が、私にとっては凄く嬉しい。
私が抱いたこの気持ちは、一体何なんだろうか。