月光
春香さんの細い指が、適度な力加減で私の髪を泡立たせていく。凄く気持ち良くて、このまま寝てしまいそう。
「アナタは綺麗な黒髪してるんだから、丁寧に洗わないとね。はい、目瞑って」
言われるがままに目を瞑ると、かなり弱めのシャワーで私の髪の泡を洗い落とし始めた。こんな風に誰かに髪を洗ってもらったのは初めて。優しくて、丁寧で、まるでお母さんみたいな人だ。実際、あのミチル君と長年付き合いがあって、確かな信頼関係を築いている事実が、春香さんの面倒見の良さを物語っている。
私はますます分からなくなった。どうしてミチル君は、春香さんに興味を示さないのだろう。もう興味を失われたけど、私に興味を抱くのなら、彼女に興味を抱いてもいいし、それが当然だ。彼女はとても綺麗で優しい女性なのだから。
髪が洗い終わり、顔を正面に向けた。そこには頭から首元までを映す鏡がある。映っていたのは、顔左半分に火傷痕がある醜い私の顔。
嫌悪感を抱きかけていた時、春香さんが頬と頬をくっつけるように横に現れた。
「大丈夫。アナタはまだ綺麗な女性よ」
「……そう言ってくれる人は、ごく少数です」
「その少数の中に、アナタが望む相手がいるんでしょう?」
「……いた、と言った方が正しいですね」
「……これは、あくまでも私の勝手な憶測ね。多分、ミチルはアナタを見限ってなんかいない。彼にとって何よりも重要なのは探求で、興味を示したものに執着をする。浮気者に聞こえるかもしれないけど、一度築いた関係性を崩すような人じゃない。私は友人として、音霧は執事として、アナタは……いえ、この答えはミチルから聞き出してみなさい」
「どうやって?」
「ミチルがアナタを求めていた時と同じ事をすればいいの」
お風呂から出て、私達は部屋に戻った。部屋では桐山さんが正座をして、その背後に音霧さんが凛とした立ち姿で立っていた。
「おかえりなさいませ。少しは心労が癒えましたでしょうか?」
「まぁ、一応は……で? なんで桐山陽太が正座させられてるのかしら?」
「桐山様。そう固くならずとも大丈夫ですよ。何かあれば、この私がお守りしますから」
「そうは言っても、身構えてしまいますよ……!」
「もしかして、何かあったんですか?」
音霧さんは男湯で起きた事を話してくれた。私の父が現れた事、ミチル君を殺そうとした犯人が私の父だという事、そしてミチル君が私と桐山さんを守るように音霧さんに命じた事。
最後まで話を聞き終え、肝心な事を聞こうとした矢先、春香さんが代わりに言葉にしてくれた。
「肝心のミチルは何処に行ったの!?」
「…………あぁ」
「あぁ―――じゃないわよ! まず要監視すべきはミチルでしょ!」
「や、やっぱりミチル君を捜しに行きましょうよ!」
「し、しかし、私はミチル様からお二人の警護を―――」
「だからって放っておいていいわけないでしょ! 私、捜してくるから!」
春香さんは襖を勢いよく開けると、閉めずに出ていった。音霧さんはため息を吐くと、開けっ放しの襖を閉め、私達に頭を下げた。
「申し訳ございませんでした。お二人には、気を害すような場面を見せてしまっていますね」
「いえ、全然気にしてないですよ。それより、俺達も捜しに行くべきじゃありませんか?」
「春香様は人探しに秀でております。すぐに帰ってくるでしょう。あまり深刻に捉えず、お二人は先に眠ってください。部屋が広い所為で少々変ではありますが、布団は既に敷かれてありますので」
音霧さんは中央に敷かれてある布団に差し、就寝を勧めてきた。桐山さんは少し悩んだ後、尚も納得のいっていないような表情で端側の布団に座った。
「……あの、ほんの少しだけ部屋から出てもいいですか?」
「ついていきましょうか?」
「大丈夫。ちょっと飲み物を買いに行くだけですから。すぐ近くにある販売機から」
「……分かりました。どうかお気をつけて」
私は部屋から出た。飲み物を買いに行くなんて話は嘘だ。多分それは音霧さんも気が付いている。
明かりに照らされた廊下。人気は全く無く、何処かから音が漏れて聞こえてくる事も無い程に静かだ。無意識に音を立てないように注意を払って歩いてしまう。
妙に入り組んだ廊下を進んでいくと、ガラスが付いた戸の列が並ぶ廊下に来た。ガラス戸からは外の庭の様子が伺えて、鯉なんかが泳いでいそうな石で囲まれた水場があった。
そこにミチル君が立っていた。目の前にある水場を眺めるでもなく、雲の隙間から垣間見える月光を見上げていた。
音を立てないようにガラス戸を開き、ミチル君に一歩ずつ、まるで花にとまる蝶が逃げないように慎重に近付いていった。
「今夜は月が綺麗ですね」
「……でも、隠れちゃってるよ?」
「だからこそ、普段の月よりも美しく見えるんです。欠けた月も、満ちた月も美しいですが、雲から漏れ出す月光に神秘を感じさせられる」
「……部屋に戻りましょう。みんな心配しているから」
全く動こうとしないミチル君に近付き、彼の左手を握った。このまま手を引っ張っていこうしたけど、握った彼の左手を見て、私も動けなくなってしまった。
「ミチル君……薬指、は……?」
「切り落としました。自分なりの償いと覚悟として」
「どういう事? なんで薬指を?」
「アナタを追いかける為です」
ミチル君の言葉に、心臓の鼓動が早くなった。嬉しくて、悲しくて、怖くて、愛おしくて。混じり合った歪な感情は、私が諦めかけていた恋心を蘇らせた。
手を握る力が弱まって、ミチル君の手を離してしまいそうになった時、ミチル君から私の手を握ってきた。絶対に離さないという強い意志が、手を握る力から感じ取れた。
「……足湯にいた時に発言した言葉は不適切でした。確かに興味は桐山さんに向いていますが、だからといってアナタを蔑むような言い方をしてしまうなんて……僕は本当に、妬いていたのかもしれませんね」
雲に隠れていた月が姿を現す。まるでこの時の為に力を蓄えていたかのように、月明かりがミチル君を照らし出し、神秘を纏ったミチル君が私の方へ振り向いた。ほんの少しだけ困ったような表情で、だけど眼は真っ直ぐと私を向いている。
そんな彼の姿に、私はどうしようもない愛情が沸き上がった。ゆっくりと彼の手を引いて身を寄せさせ、繋がれていない片方の手で彼の後頭部に触れ、私の胸に彼を沈めた。
その瞬間、私の目から涙が零れ始めた。悲しくて泣いたわけじゃない。切り離れた一部が戻ってきた安心感からの涙。この感情を。この愛を。ただの恋愛で語るには、あまりにも歪だ。
だからこそ、私と彼は惹かれ合う。何本もの線が絡まったように見える糸を解けば、それが一本の糸だったように。私と彼は複雑で単純なんだ。
「このまま二人で沈み続けられるのなら、死んでもいいわ」
「生きてください。苦しくて暗い深き海の底まで」
今宵は、夜に似合わない温かさで満ちている。