残酷で優しい切なさ
夜ご飯の時間までの間、春香さんと宿の外にある足湯に浸かった。程良い温かさが足を暖め、気持ちが良い。
「ごめんなさいね。こんな事になって」
「ビックリしましたよ。でも、安心しました」
「その言い方から察するに、今回の結婚は本意のものではないという事ね」
「……はい。私が退院間近になったタイミングで、突然両親が押しかけて来たんです。そしたら「アナタはこの人と結婚するんだ」って言いだして。そこからは流れるように事が進んで、今こうして二人っきりで泊まらされたんです」
「断れなかったのね。アナタ、意外と押しに弱いものね」
「……ミチル君が言った事は、本当の事なんでしょうか。私と桐山さんの結婚を祝福するような、あの言葉は」
「分からないわ。私はミチルの理解者のつもりでいたけど、先の一件で何も理解出来ていない事を痛感されられたわ。でも、本当にあの桐山陽太にアナタを渡すつもりなら、ここまで来た意味が無い。おそらく、彼なりに状況の把握と今後の計画を立てる為の一言だったんでしょうね」
春香さんはまるで探偵のような素振りで考え、鋭い眼光を足元の水面に映る自身の顔に向けていた。
「……でも、私には、もうこの道しかないと思ってるんです」
「どういう事?」
「私には家族がいません。祖母は数年前に、祖父はつい最近亡くなりました。両親と呼べる二人はいますけど、私を邪魔物扱いしてきた相手を親として認識出来ません」
「その親が、今度はアナタを必要としてきた。顔の火傷痕を隠すように化粧をして、桐山陽太に差し出すようにここへ……彼の家はお金持ちかしら?」
「分かりません。知ったのはつい最近で、直接会ったのは今日が初めてで―――」
「そんな言い方は、彼に対して失礼じゃないですか」
体が一瞬硬直した。息も止まって、心臓が凍り付いた。自然と視線が声がした方へと動いていく。
私達から少し離れた位置に、ミチル君が立っていた。私に背を向け、宿を囲む外壁を眺めていた。ずっと会いたいと願っていた彼の背が、今は恐ろしくて堪らない。この恐れは彼からの恐怖ではなく、彼に対する悔恨。自分から裏切っておきながら、私は彼からの罰に怯えていた。
しかし、そんな私とは裏腹に、ミチル君は私達に振り向く気配が全く無かった。目の前にあるおよそ三メートル弱の外壁にばかり目を奪われていた。
「ミチル。アナタ、さっきの発言はどういうつもりなの?」
私の状態を察してか、春香さんが代わりにミチル君に聞いてくれた。
「桐山さんと沙耶さんとの結婚についてですか? 結構な事じゃありませんか。桐山さんは役者として軌道に乗り始め、これから更なる躍進を感じさせる期待の若者。当然、彼と密接な関係になりたいと願っているファンも多いでしょう。そんな彼ら彼女らの中から、沙耶さんは選ばれた……いえ、選ばれてたんですよ」
「選ばれていた?」
「沙耶さん。実は、桐山さんとはずっと前から面識があったんじゃないですか?」
「ずっと、前から……駄目。記憶に無いわ」
「ミチルはどうしてそう思ったの? 桐山陽太から何か聞き出せたの?」
「いえ、直接的には。ですが、話していて分かりましたよ。ああ、この人は沙耶さんをずっと好きだったんだなって。だって彼、僕と沙耶さんの関係ばかりを聞いてきたんですよ? 僕は初めに沙耶さんとは知り合いだと答え、十代の子供だとも認めた。それでも尚、男女の関係を追及する理由として考えられるのは」
「敵対心、独占欲……片想いをしてたって事?」
「まるで絵本の物語のようですね。長年想いを寄せ、外部からの支援によって想いが成就する。なら、僕という敵がいれば、もっと話は面白くなる。ハッピーエンドにもバッドエンドになるのも、全ては主人公の桐山陽太次第だ」
「人の恋路を面白半分で弄んで……! アナタ、沙耶さんに伝えたい事があってここまで来たんでしょ!?」
「ああ……でも」
ミチル君が振り返った先で、私に向けた眼は、冷たく、無機質で、空っぽだった。
「今の沙耶さんには興味が湧かない。どうでもいいとさえ思ってる」
その言葉に、私はショックを受けた。本当に好きな人から拒絶された時、もっと色んな感情が溢れ出すと思っていた。でも、実際は気分が重くなるだけだった。体の肉や血が鉛と化したように、もう二度と体を動かせそうにない。
「ミチル!!! そんな言い方は止しなさい!!!」
「結局は一時の興味。人は次から次へと興味が移り変わっていく。以前のものには二度と興味が湧く事はない。むしろ今は、沙耶さんよりも桐山陽太に対して興味が湧いている。彼の勘違いをどう解いていこうか」
「……そうだよね。こんな醜い私には、もう……見向きもしないよね……」
私は逃げ出した。呼び止める春香さんの声が後ろから聞こえてきたが、ミチル君の声は聞こえてこなかった。
隠れたい。吐き出したい。息苦しい現実から浮上したい。どうして私ばかりが不幸に合うんだろう。どうして私の傍には誰も居続けてくれないのだろう。どうして私は孤独になってしまうのだろう。こんな思いをするのなら、あの日、青葉さんにあのまま―――
「沙耶さん? どうしたんですか?」
自販機の陰で縮こまっていた私を見つけたのは、桐山さんだった。まるで他人事のように、私の心配をしている様子だ。
「えっと、狭い場所が好き、とかですか? なんか猫みたいですね。あ、別に悪口とかじゃなくて! むしろ、猫みたいに可愛いっていうか……!」
「……放っておいて」
「え?」
「私に構わないで! もう嫌なのよ! 何もかも! 嫌で嫌で嫌なのよ!!!」
私はなんて小さな人間なのだろう。会ったばかりの人に八つ当たりをするなんて。確かに彼が原因でもあるけど、元を辿れば私の両親が元凶であって、彼もまたそれに巻き込まれた被害者だ。彼は私の顔に残った火傷痕の事は知らない。
そうだ。この際、知ってもらおう。私がどれだけ醜い顔をしているのか。火傷痕を見れば、きっと彼も私から去っていって、もっと良い人と結婚する。その方が、お互いにとって良い。
私は手の平の腹で顔を擦り、化粧を落とした。完全には落とせていないと思うけど、これで痕が見えるはず。
彼の顔を見ると、予想通り引きつった表情をしていた。やっぱり、両親から私の火傷痕の事について聞かされていなかったんだ。
「沙耶さん……その、痕は……!?」
「醜いでしょ? ほら、さっさと見限りなさいよ。アナタに捨てられたって、別に落ち込んだりしないから」
「……ごめんなさい。俺は、アナタを知らずにいた。ずっと過去のアナタばかりを追いかけていた。その所為で、今のアナタを知ろうともしなかった。ずっとアナタに、想いを寄せていたのに……!」
「……どうして、泣いてるの?」
「自分が許せないんです……! 肝心な事を俺は忘れていた……! 沙耶さんが俺の事を憶えていないって言った時、泣きそうになったんです。でも、それって当たり前なんです。だって、俺達は一度も会話をした事が無ければ、面と向かって会った事も無かった。遠くからアナタを見ていただけだった。俺は勝手に、アナタに恋をしていただけだった……!」
彼は袖で涙を拭った後、しゃがみ込んで私と目を合わせてきた。真っ直ぐと、優しい瞳で。
「すぐに好きになれ、なんて言いません。これからお互いの事を知っていきましょう。そしていつか、今度はちゃんと恋をして、今度こそアナタを俺の嫁にします」
彼は私に向ける瞳に負けず劣らずの優し気な笑顔を浮かべた。私に掛ける言葉の一つ一つに、確かな愛と優しさがあるのが分かる。温かくて、眩しくて、まるで太陽のような人。
それでも、私が想うのは落日。どうしようもない程に切なくて、寄り添ってくれるような残酷で優しい切なさ。
「……ミチル君」
私は今も、夕陽が海に沈む時を待ち望んでいる。