表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
3/40

そこに君がいた

 晩ご飯を食べ終え、音霧が淹れてくれたコーヒーを飲んだ。毎度毎度、わざわざ豆を挽いて淹れてくれるから、コーヒーの香ばしさが格別。味の方も勿論美味しく、音霧のコーヒーを飲む為に食事を食べているようなものだ。


「ミチル様。何か良い事がございましたか?」


「どうしてそう思うんだい?」


「普段よりも僅かに表情が柔らかかったので」


「音霧は本当によく僕を見ているな」


「長年、羽柴家を近くで見守り続けておりましたから。ミチル様のお母様がミチル様を出産なさる日、心労で倒れそうになるお父様を何度も支えてあげましたよ」


「何度聞いても信じ難い話だな。あの父に情けない過去があるとは思えない」


「奥様のお身体を。そして何より、産まれてくるミチル様を大事に思ってこそです。ミチル様も時が来れば理解されます」


 そう言うと、音霧は食器を洗い始めた。僕はコーヒーを飲みながら、その後ろ姿を眺めた。父と母もそうだが、音霧は特に四十代とは思えない。シワやシミの無い綺麗な肌で、髪の毛には白髪一本も無い。どんなに重労働をした後でも、汗一つかかない。

 僕が小さい頃は、音霧は吸血鬼だと決めつけて、色々試したな。ほとんどはニコニコと笑って許してくれたけど、ニンニクを口一杯に詰めようとした時は流石にちょっと怒ってた。


「それで、どうなんですか?」


「何が?」


「良い事です。ミチル様がご帰宅なされてから、私はもう気になって仕方がなく」


「面白い人と出会ったんだ」


「ほう。面白い人、ですか。その方は男性でしょうか? それとも、女性でしょうか?」


「女性だよ。不思議な人だった」


「それはそれは、実に良い事ですな。またお会いになりたいと思いましたか?」  


「ああ。というより、また会いにいくよ」


「……ちなみに、お父様とお母様には?」


「秘密にしておいてくれ。色々と聞かれて、睡眠時間が無くなってしまう。コーヒーご馳走様。お風呂に入って、今日は寝るよ」


 入浴を済ませ、自室のベッドで横になった。明日から僕は沙耶さんのお店で働く。学校が終わった後に何かする事が出来たなんて始めてだ。沙耶さんについても、彼女のお店についても何も知らないが、少しワクワクしてきた。


 しかし、翌日の放課後になって僕は気付いた。沙耶さんのお店が何処にあるのか憶えていない。一度辿り着いたし、あそこから家にまで帰ってきたんだ。その道を辿ればいい。それだけなのだが、どうにも記憶から抜け落ちてしまっている。仕方がないので、今日は家に帰る事にした。  


 そんな日々が続いて四日後の金曜日。まだ十時を回ったばかりだというのに、空は黒い雲に覆われ、強い雨が降っている。降り続ける雨の音で、先生の授業の音がよく聞こえない。それを先生自身も分かっているのか、黒板に当てたチョークをそのままに、手元の教科書を見続けている。

 普段も退屈だが、こういう外が騒がしい時はより一層退屈だ。少しばかりの雨ならともかく、今日のような豪雨は憂鬱になってしまう。


「……あ」


 窓をつたう雨で歪む外の景色。その一部分、校門に一人の女性が傘を差して立っていた。ハッキリと姿を捉えられないが、その女性は僕を真っ直ぐ見ている気がした。


 僕は教室を飛び出し、靴も履き替えずに校門へ駆けつけた。校門に立っていた女性の目の前に立ち、改めてその姿を目にした


「そんなに慌てて、どうしたの?」


 沙耶さんだった。彼女は微笑をこぼすと、一歩前に出て、僕を傘の中へ入れてくれた。その所為で、すぐ目の前に沙耶さんの顔があった。

 すぐ近くで見て、改めて不思議な人だと思った。微笑みを浮かべている裏で、果ての無い暗闇が広がっているような。二度と戻れない深海の奥底のようだった。 


「沙耶さんが立っていたのを目にして」


「それで来てくれたんだ。授業は? まだお昼休みじゃないでしょ?」


「いいんです」


「あ、悪い子だ~。みんな見てるよ。君って学校では有名人?」


「よく視線は感じます」


「フフ。そうなんだ」


 どうして学校に来たのか。どうして雨の中、僕を見ていたのか。聞きたい事はあったが、まず僕は沙耶さんに謝るべきだと判断した。


 一度傘から出て、僕は頭を下げた。


「すみません。明日から働くと約束したのに、結局四日も行けずに」


「い、いいのいいの! 別に謝ってもらう為に来た訳じゃないから!」


「では、どうして?」


「そんな事より早く傘の中に戻って! 風邪ひいちゃう!」


 手首を掴まれ、傘の中に引き込まれた。思ったよりも内側に来てしまい、沙耶さんのオデコと僕の顎先が触れてしまった。


「あ、すみません」


「う、ううん、いいよ……全然……!」


 俯いていた沙耶さんの顔がゆっくりと動き、僕の顔を見上げた。ほんの一瞬だが、沙耶さんは寂し気な表情を浮かべていた。


「……沙耶さん。道案内をお願いしてもいいですか?」


「え? でも、学校はまだでしょ?」


「今日はもういいんです。こうして外に飛び出した以上、戻る気にはなりません」


「……フフ。やっぱり、悪い子だね」


 そうして、僕と沙耶さんは彼女のお店まで歩いた。道中、僕達の間で会話が生まれる事は無かった。雨を弾く傘の音や、道路を走る車が鳴らす雨水の音が騒がしくて話せなかった。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ