そこに君がいた
晩ご飯を食べ終え、音霧が淹れてくれたコーヒーを飲んだ。毎度毎度、わざわざ豆を挽いて淹れてくれるから、コーヒーの香ばしさが格別。味の方も勿論美味しく、音霧のコーヒーを飲む為に食事を食べているようなものだ。
「ミチル様。何か良い事がございましたか?」
「どうしてそう思うんだい?」
「普段よりも僅かに表情が柔らかかったので」
「音霧は本当によく僕を見ているな」
「長年、羽柴家を近くで見守り続けておりましたから。ミチル様のお母様がミチル様を出産なさる日、心労で倒れそうになるお父様を何度も支えてあげましたよ」
「何度聞いても信じ難い話だな。あの父に情けない過去があるとは思えない」
「奥様のお身体を。そして何より、産まれてくるミチル様を大事に思ってこそです。ミチル様も時が来れば理解されます」
そう言うと、音霧は食器を洗い始めた。僕はコーヒーを飲みながら、その後ろ姿を眺めた。父と母もそうだが、音霧は特に四十代とは思えない。シワやシミの無い綺麗な肌で、髪の毛には白髪一本も無い。どんなに重労働をした後でも、汗一つかかない。
僕が小さい頃は、音霧は吸血鬼だと決めつけて、色々試したな。ほとんどはニコニコと笑って許してくれたけど、ニンニクを口一杯に詰めようとした時は流石にちょっと怒ってた。
「それで、どうなんですか?」
「何が?」
「良い事です。ミチル様がご帰宅なされてから、私はもう気になって仕方がなく」
「面白い人と出会ったんだ」
「ほう。面白い人、ですか。その方は男性でしょうか? それとも、女性でしょうか?」
「女性だよ。不思議な人だった」
「それはそれは、実に良い事ですな。またお会いになりたいと思いましたか?」
「ああ。というより、また会いにいくよ」
「……ちなみに、お父様とお母様には?」
「秘密にしておいてくれ。色々と聞かれて、睡眠時間が無くなってしまう。コーヒーご馳走様。お風呂に入って、今日は寝るよ」
入浴を済ませ、自室のベッドで横になった。明日から僕は沙耶さんのお店で働く。学校が終わった後に何かする事が出来たなんて始めてだ。沙耶さんについても、彼女のお店についても何も知らないが、少しワクワクしてきた。
しかし、翌日の放課後になって僕は気付いた。沙耶さんのお店が何処にあるのか憶えていない。一度辿り着いたし、あそこから家にまで帰ってきたんだ。その道を辿ればいい。それだけなのだが、どうにも記憶から抜け落ちてしまっている。仕方がないので、今日は家に帰る事にした。
そんな日々が続いて四日後の金曜日。まだ十時を回ったばかりだというのに、空は黒い雲に覆われ、強い雨が降っている。降り続ける雨の音で、先生の授業の音がよく聞こえない。それを先生自身も分かっているのか、黒板に当てたチョークをそのままに、手元の教科書を見続けている。
普段も退屈だが、こういう外が騒がしい時はより一層退屈だ。少しばかりの雨ならともかく、今日のような豪雨は憂鬱になってしまう。
「……あ」
窓をつたう雨で歪む外の景色。その一部分、校門に一人の女性が傘を差して立っていた。ハッキリと姿を捉えられないが、その女性は僕を真っ直ぐ見ている気がした。
僕は教室を飛び出し、靴も履き替えずに校門へ駆けつけた。校門に立っていた女性の目の前に立ち、改めてその姿を目にした
「そんなに慌てて、どうしたの?」
沙耶さんだった。彼女は微笑をこぼすと、一歩前に出て、僕を傘の中へ入れてくれた。その所為で、すぐ目の前に沙耶さんの顔があった。
すぐ近くで見て、改めて不思議な人だと思った。微笑みを浮かべている裏で、果ての無い暗闇が広がっているような。二度と戻れない深海の奥底のようだった。
「沙耶さんが立っていたのを目にして」
「それで来てくれたんだ。授業は? まだお昼休みじゃないでしょ?」
「いいんです」
「あ、悪い子だ~。みんな見てるよ。君って学校では有名人?」
「よく視線は感じます」
「フフ。そうなんだ」
どうして学校に来たのか。どうして雨の中、僕を見ていたのか。聞きたい事はあったが、まず僕は沙耶さんに謝るべきだと判断した。
一度傘から出て、僕は頭を下げた。
「すみません。明日から働くと約束したのに、結局四日も行けずに」
「い、いいのいいの! 別に謝ってもらう為に来た訳じゃないから!」
「では、どうして?」
「そんな事より早く傘の中に戻って! 風邪ひいちゃう!」
手首を掴まれ、傘の中に引き込まれた。思ったよりも内側に来てしまい、沙耶さんのオデコと僕の顎先が触れてしまった。
「あ、すみません」
「う、ううん、いいよ……全然……!」
俯いていた沙耶さんの顔がゆっくりと動き、僕の顔を見上げた。ほんの一瞬だが、沙耶さんは寂し気な表情を浮かべていた。
「……沙耶さん。道案内をお願いしてもいいですか?」
「え? でも、学校はまだでしょ?」
「今日はもういいんです。こうして外に飛び出した以上、戻る気にはなりません」
「……フフ。やっぱり、悪い子だね」
そうして、僕と沙耶さんは彼女のお店まで歩いた。道中、僕達の間で会話が生まれる事は無かった。雨を弾く傘の音や、道路を走る車が鳴らす雨水の音が騒がしくて話せなかった。