前夜
春香さんにお昼ご飯をご馳走してもらって、その後も話し込んでしまった。その時の会話の中で、ミチルに関する話題は一つも無かった。多分、私に聞いておきたい事が無くなったからだろう。友達と言うには早過ぎる気がするけど、私達の仲は以前よりも良くなった。
でも結局、ミチルが家に帰ってくる事はなかった。その代わりに音霧というお手伝いさんが帰宅したが、その人もミチルが何処に行ったのかは分からないと言う。あのまま家で待っていれば確実だけど、なんとなく場違いな気がして、ありもしない予定を言い訳に私は立ち去った。
人通りが少ない場所を選んで歩き、客がいない古びた本屋に立ち寄り、あてもなく彷徨い歩いていた。空が段々と茜色に変わっていき、夕方になろうかという時。
「あ……」
来た事の無い橋の上。橋の下には川が流れ、橋の向こう側には私の家がある通り。
その橋の中央に、ミチルが立っていた。手すりに寄りかかり、橋の下で流れる川ではなく、夕方から夜に変わりゆく空を見上げていた。まるで別の世界の人間のように、彼が特別な存在のように思えた。
決して無視出来ない。他の物に目が移らない。体が、心が、彼を求めてしまう。
私はこの想いの正体に気付いた。それは恋愛や愛とは似て異なるもの。陽が無ければ月が光を帯びないように。心臓が無ければ生者として見られないように。
私には、ミチルが必要なんだ。
「……夕方に月が見えるのは、いつ頃になりそうですかね」
ミチルは視線を動かさず、尚も空を見上げながら私に問いかけてきた。まるで初めて会った時のような変わった内容に、ほんの少しの懐かしさと、居心地の良い安心感を覚えた。
「月は夜に見るから良いんじゃない」
私はあの日のように、当たり前の事を口にしながら、自然とミチルの隣に立った。
「だからこそ、夕月に心惹かれるんです。例え目立たずとも、夕陽と月が同居する空の景色に興味が湧いてしまうんです」
「じゃあ、皆既月食は? あれには興味が湧かない?」
「う~ん。確かに珍しい光景ですし、実際珍しい事ではあるんですが、有名過ぎて色んな場所に記録が残ってるじゃないですか」
「君はマイナーって事ね」
「そうかもしれませんね。それか、天邪鬼かも。他人が興味を持つような物に対して、僕はさほど興味はありませんから」
「難しい人間だね、君は。そんなんじゃ、いつか一人になっちゃうよ?」
「大丈夫です。幸いな事に、僕は人から好かれる。その理由は分かりませんし、興味はありませんが、優しい人間だけが僕に集う。僕は幸せ者ですよ」
「……私とは正反対だ……私の周りには、良い人がいなかった。いたのは祖父と祖母だけ。その祖父と祖母も……もうこの世にいない。私は独りになっちゃった」
「僕がいます」
その言葉を耳にして、思わずミチルの顔を見た。ミチルは相変わらず空を見上げているばかりで、でも少しだけ笑っていた。
春香さんの言うように、大人と子供というものは考えなくてもいいかもしれない。というより、考えるだけ無駄。
だって、私とミチルはその両方だから。私は歳だけを見るなら大人だけど、中身は子供。ミチルは十代の子供だけど、もう既に大人の余裕や雰囲気を持っている。そういう意味では、私達は対等だ。
「……ねぇ、ミチル君」
私はミチルの肩に頭を預け、秘めた想いをほんの少しだけ囁いた。
「私の傍にいて」
「……ええ。例え離れ離れになっても、僕はアナタの傍に現れます。ほんの少しだけ、待たせるかもしれませんが、必ず戻ってきます」
「……それって、どういう意味?」
ミチルの肩から離れ、再度彼の顔を見た。いつの間にか視線は空から移っており、今度は私の後ろへ視線を向けている。その目はまるで、恐ろしい化け物を睨みつけるかのような目付きだった。
私は恐る恐る後ろへ振り返った。橋の始め、その真ん中に堂々と立ちながら、妖しい雰囲気を漂わせる女の子が立っていた。初めて見た子だけど、彼女が誰なのかは不思議と分かってしまった。
『その、多分私の考え過ぎなんだけど……あの子、ちょっと危険な感じなんだよね。ミチルに向ける目とか、雰囲気とか、そういう感覚で判断した事なんだけど。あの子とミチルを会わせるのは、あんまり良くない気がする』
春香さんが言っていた子。私と春香さん以外に、ミチルに対して明確な好意を持つもう一人。
「青葉。奇遇だね」
「……その人が、アンタの特別?」
「そうだ」
ミチルは私の肩に手を回すと、力強く私を抱き寄せた。普段なら嬉しい事が、今は恐怖が薄れるだけ。多分、ミチルも同じだと思う。私の肩を掴む手が、恐怖で震えてる。
「そっか。そっか。そっか。そっか。アンタの特別は、やっぱり私じゃないんだ」
「君は僕が嫌いだろ?」
「嫌い。もし私がこの世界の全てを壊せる力を持っているのなら、アンタを除いた全てを壊すくらいに大嫌い。二人だけの世界で、私はアンタを虐めるの。ゆっくりと、じっくりと……アンタを愛してあげる」
「一応聞いておくよ……止めるなら今の内だ」
「怖いの?」
「ある意味ね。でも良心からの言葉だよ。君が退けば、誰も不幸ならない」
「私の返事はこうよ……止めない。良心からの言葉よ」
最後に満面の笑みを浮かべると、青葉さんは背を向けて立ち去った。その後ろ姿が完全に見えなくなるまで、私達は彼女から視線を逸らせなかった。彼女が見えなくなった後も、彼女に植え付けられた恐怖は、胸の内を蝕んでいた。
嫌な予感がする。