恋のライバル
私は今、ミチルの家の前に立っている。緊張してインターフォンを鳴らせず、まるで植物のように日差しを浴びたままだ。まだ五月の半ばだけど、今日の日差しは少し強くて、このままだと首に日焼けが出来そう。
私がミチルの家に来た理由は、大人と子供の線引きをする為。キッパリと縁を切る為だ。本当はずっと一緒にいたいけど、それはミチルの為にはならない。ミチルのような将来がある子には、これから多くの苦楽がある。あの子の場合、多分苦しい時期はそんなに無いと思うし、きっと良い大人になれるだろう。
私はミチルの事が好き。どれだけ言い聞かせてみても、それだけは変えられなかった。だからその想いを自分の為だけでなく、あの子の為になるようにしようと思った。好きだから離れる。あの子が幸せになる為に、不幸の種である私が退く。悲しいけど、それしかない。
「あれ? アナタは確か、沙耶さん?」
後ろに振り向くと、ミチルの幼馴染の春香さんがいた。食材を買いに出掛けていたらしく、肩に掛けたバックからネギの青い部分が見える。
「ミチルに用事?」
「え、ええ……そんなところです……」
「……そっか。じゃあ中に入りなよ」
そう言って、春香さんは合鍵を使っていとも簡単に家の扉を開けてみせた。私が何も出来なかった事を嘲笑うかのように、軽々とやってみせた。
いや、この人はそういう人じゃない。短い、本当に短い付き合いしかないけど、それだけで彼女の善良さを思い知った。美しくて、優しくて、同じ人間とは思えない程に清楚な人。私の淀んだ心の内とは違って、彼女の心の内は青空のように澄み渡っている。
「どうしたの?」
「春香さんは、私の事が―――」
「嫌いよ。だって、ミチルはアナタに首ったけだもん。恋のライバルを好きになるなんて、そんなの面白くないでしょ。まぁ、でも。今はミチルがいないし、ただの大人の女性同士って事で。少しは好きかな?」
悔しい。悔しいけど、ミチルにはこの人が相応しい。本当の想いを怖がらずに口に出せる事が、どれほど凄い事か。今の私なら、嫌というほど痛感させられる。
だからこそ、目の前にいる春香さんが眩しくて仕方がない。
リビングのソファに座らされると、すぐに麦茶が差し出された。それを飲む前に、私は首にコップを当てた。氷が入った麦茶の冷たさが、熱せられた首の熱を下げていく。ちょっと気持ちいい。
「ごめんね、ミチルはどっかに出掛けてるみたい。もしかしたら、あの同級生の子と会ってるのかも」
「同級生の?」
「知らないの? 私に負けず劣らずの凄い美人さんで、明らかにミチルの事が好きな子」
「そ、そう、ですか……」
まさか、他にもミチルの事を好きな子が……いや、当たり前だ。とりわけ同じ学校の女の子なら、思春期も相まって、ミチルの不思議な魅力に惹かれる人がいるのもおかしくない。あの子は年下なだけじゃなく、学生でもあるんだ。そんな事も忘れてしまう程に、あの子には不思議な魔力のような魅力がある。
「……でも」
「でも?」
「その、多分私の考え過ぎなんだけど……あの子、ちょっと危険な感じなんだよね。ミチルに向ける目とか、雰囲気とか、そういう感覚で判断した事なんだけど。あの子とミチルを会わせるのは、あんまり良くない気がする」
「それは、私よりも?」
「アナタはアナタで危険よ! 一応聞いておくけど、ミチルに卑しい事はしていないでしょうね?」
「して、ない……と思います……」
「もう! 私だって体には自信があるし、そういう欲求を向けられてもおかしくないはずなのに。どうしてかその気が無いんだよね~」
確かに、春香さんの体つきは女性の理想だ。胸も程良く大きいし、足も長いし、見えないけど腹筋もあると思う。私もスタイルが良いとは思うけど、隣に春香さんがいると、私の体はただ痩せてるだけの不健康体。
「……ねぇ、沙耶さん。沙耶さんはミチルの事が好きなんだよね?」
「それは……それは……」
「隠さなくていいよ。昔からミチルのお世話ばかりしてたから、人の本心を大体見抜けるようになってるから」
「……ここへ来た理由は、あの子との縁を切る為なんです。私の想いは、春香さんのような純粋なものではありません。きっと、私はあの子を破滅させてしまう。それは、大人として、子供の将来の為に阻止しなければいけない。大人なら、正しく導かないといけないと思って……私は、ミチル君の前から去ろうと思ったんです」
「それでアナタは諦めがつくの?」
「無理でしょうね。でも、こんな想いを抱いたのは初めてなんです。会えないと苦しくて、切なくて。あの子に会うと、その苦しさや切なさが、喜びに変わった。素敵で残酷な、大切な恋なんです」
「凄い決断ね。ミチルの事を想って、その想いの成就を自分から捨てるなんて。でも、残念。それは叶わないわ」
「どうしてですか?」
「あの子がアナタを追いかけるから」
その言葉に、私は嬉しくなってしまった。口元が勝手に緩んで、さっき口にしたばかりの決意が遠い過去のように遠ざかり、今はただミチルに対する恋心が高鳴るばかり。
でも、春香さんの顔を見て冷静になった。春香さんは酷く悲しそうな目で、麦茶に映る自身の顔を見下ろしていた。この人も私と同じ、いいえ、きっと私以上にミチルの事を深く愛している。それなのに、愛してる人は他の人に夢中になってる。
それはきっと、耐え難い現実だろう。私はやっぱり、自己中心的な人間だ。
「アナタがどれだけ遠くに。例え地の果てに逃げたとしても、あの子は必ずアナタに会いに行く。言ってんだ、あの子。今までよりも興味が湧く人だって。人間に興味を向けた事なんか、今まで無かった癖にさ。あの子にとってアナタは初恋の人で、最後の恋愛なの」
「……ごめんなさい」
「やめて、謝らないで。私に謝っても、何も変わらないんだから。だからさ、縁を切るだなんて言わないでよ。追いかける立場ってのも、大変なんだから」
「……え? 諦め、ないんですか?」
「当然。二十年の一途な恋がそんな事で諦められるはずないでしょ。言っておくけど、例えアナタとミチルが結婚しても、私は諦めないし離れないからね」
「それは、どうかと……」
「その調子で大丈夫~? あんまり余裕をこいてると、私が強引にでもミチルを奪っちゃうから!」
「えぇ……」
「アハハ! まぁ、そういう事だから! 大人とか子供とか気にせず、アナタはまず自分の想いを素直に口に出来るようにしなさい。いつまでも秘めたままだと、いずれ身も心も腐っちゃうから」
春香さんは私の髪を乱暴に撫で回すと、キッチンに向かった。
「今からお昼ご飯作るから食べていきなさい。少し気が早いけど、冷やし蕎麦を作るから」
本当に眩しい人。絶対に辛いのに、明るく振る舞って、私にも優しくしてくれる。それなのに私は迷ってばかりで、そんな私が選ばれていて、罪悪感が湧いてしまう。
本当の想いを口に出す。その想いが歪んでいる事は、はたして見抜いているのだろうか。