暗雲の裂け目
青葉が僕の部屋のベッドを私物化している。掛け布団は床に落とされ、枕は足掛け代わりに使われている。ここまで好き放題しているが、彼女を家に招いた憶えも、部屋に招き入れた憶えも無い。
家から追い出してもいいが、先程から雨が降り始め、止むまで少し掛かりそうだ。せめて部屋からでも、と思ったが、比較的被害が少なく済む場所は僕の部屋だ。
春香は入浴中だ。男の僕と違い、女性の入浴時間は長い。二、三十分といったところだろう。その間、青葉と二人っきりの状態になる。その時間内に、いくつか解いておきたい問題がある。
まとめると、目的と積極性。この家に来た目的と、今日に限って自分から絡んでくる積極的な態度。もう一つ解きたい問題があるが、それは前述の二つの問題を解けば、おのずと答えが見えてきそうだ。
「今日はどうして動物園に? 君も動物が好きなのかい?」
「別に。暇だったから、遊びに行ったの」
「じゃあ、今も暇だから僕の家にいるのかい?」
「そうよ。迷惑?」
「まさか。この雨が降り止まない限りは、好きなだけくつろいでもいいよ」
「遠回しに言わなくても、雨が止んだら帰るから」
「そう遠慮せずに。あぁ、肩が痛む。人に全力で腕を引っ張ってもらったのは今日が初めてだ」
「そうなった原因は、アンタが私から離れようとしたからよ」
「それのどこに不都合が?」
「だって! いつもはアンタが私を見つけて近付いてくるのに、今日は私から離れていった!」
急に声が荒くなった。見開いた目は確かに僕を睨みつけ、今にも飛び掛かりそうな勢いでベッドから跳ね起きた。
僕は手を上げながら笑顔を浮かべ、謝罪の言葉を何度も呟いて、僕と青葉の距離を保たせた。
「すまない。そこまで気を損ねさせていたとは知らなかったんだ。そして訂正させてもらうが、決して嫌がったわけじゃない。あれは春香が僕を強引に連れて行こうとしただけだ」
「春香って、随分親し気。家に上げるのも当然って感じだったし、どういう関係かしら?」
「幼馴染だよ。歳はあっちの方が上だけどね。昔からよくこの家に泊まっていたんだ」
「友達って関係じゃなさそう。もっと深い仲なのかしら?」
「姉のような人だ。それ以上の感情は無い」
「……そう。別に気にしてないけど」
あからさまに落ち着きを取り戻した。どうやら納得したようだ。
何に?
僕と春香の関係。青葉が考えるような関係では無いと知って。
どうしてそんな事を気にする?
青葉はさっきこう言った「いつもはアンタが私を見つけて近付いてくるのに、今日は私から離れていった」と。好意からの嫉妬とも考えられるが、もっと捻じれたものだろう。お気に入りの玩具を他人に取られたかのような焦燥感。あるいはロープが切れかかった危機感。
青葉は自身を無意味な存在だと確信している。そんな自分に意味を見出したいと無意識に思っている。
僕か。彼女が意味ある存在になる為に必要な物が、僕なのか。自ら意味を持つのではなく、僕を使って意味を現わす。飼い犬がいなければ飼い主にはなれないように、青葉は僕を使って序列を確立しようとしている。
では、僕はどうするべきだ。彼女との関係を断ち切るのは早い。僕はまだ、彼女との関係に意味を見出せていない。既に利用されていた以上、こちらも彼女を使って何らかの意味を持って利用すべきだ。それが分かるまで、彼女との距離を今のままに保っておこう。
「そうだ。青葉さん、どうだろう。今日はついでに晩ご飯を食べていかないかい? 今は外出しているが、この家には音霧という人がいる。彼の作るご飯は格別だ。きっと君も気に入るよ」
「いらない」
「どうして?」
「知らない奴の手料理なんか胃に入れたくない」
「フフ。じゃあ、家では自分でご飯を作ってるの?」
「出来る限りね」
「という事は、出来合いの物も食しているわけだね。それに関しては、抵抗感は無いのかい?」
「それは作る人間が見えないでしょ」
「……でも、君は知らない奴の料理は口にしたくないと」
「作った人間が食べる時もいるのが嫌なの。食べる瞬間、そいつの顔が頭に浮かんで、食材に触れた手や息を想像しちゃうの。それが嫌なの」
「じゃあ音霧には席を外してもらう。君が食べ終わって、家から出ていくまで君の前には姿を現さないよう言っておく」
「もう名前を知ってる」
青葉は片手で髪を掻くと、僕の机の上にあるキャンパスノートに目を留めた。僕の了承を得ずにキャンパスノートを開くと、一枚一枚丁寧に眺めていく。
すると、とあるページで手が止まった。
「……この人、誰?」
「見せてくれ」
キャンパスノートに描いた人物画の中から青葉が見せたのは、沙耶さんの絵だった。
「この人の絵だけ、他と何か違う」
「特別上手く描けたんだろう」
「それだけじゃないでしょ。他の絵はただ描いただけ。でも、これは思い描いた。存在しない人間を現実に現わすかのように……この人は誰?」
「…………秘密だ」
青葉。無意味だった君が意味を持つ物へと昇華させる方法を見つけたよ。