夕陽は深海で眠りつく
沙耶さんの店に来てから一時間が経過した。今日も客が来る気配が無い。カウンター下にあるお釣り用のお金が入ってる引き出しを見れば、千円札が三枚と十円玉が六枚。店も店で、客を迎える気が無いようだ。
「ミチル君。少し休憩しようか」
そう言って、沙耶さんは僕にコーヒーを差し出した。一口飲んでみると、いかにも市販で売られてるインスタントコーヒーの味がした。
「僕達さっきから休憩ばかりですけど、この場合って給料に影響あるんですか?」
「給料?」
「いや、貰うつもりは無いんですけど。でも少しは考えていてほしかったですね」
「……そうだよね。一応、君はバイト君だから、何か報酬が無いと駄目だね」
「コーヒーで十分です。僕コーヒーが好きで。こだわりは無いんですけど、定期的に飲まないと駄目なくらいには好きです」
「なんだか依存症みたいだね」
「それはあり得ますね」
「それで? そんなコーヒー大好き青年の君が、盛大に制服にコーヒーをこぼしちゃったキッカケを聞かせてよ」
沙耶さんは丸椅子に座り、足のつまさきで僕の足を小突いてきた。
「今日、僕の学校に転校生が来たんですよ」
「男の子? 女の子?」
「女子ですね」
「可愛かった?」
「いえ、綺麗系ですね。ただ一癖も二癖もありまして。口は悪いし、常に睨まれるし、愛想は悪いし、飲めもしないブラックコーヒーを飲んで僕に八つ当たりしてきましたし」
「今の所、何の良い印象も無い娘だね」
「でも、面白い考えを根付かせてるんです。自分は無意味だ、と。彼女は自身を無意味な存在だと確信し、それを信じて疑わない。面白い矛盾ですよね。無意味な存在であるというのに、確かに今を生きている。今の僕の推察では、彼女は無意味からの脱却を無意識に求めてると思います」
「……他人の過去を勝手に詮索するのは、あまり感心出来ないな」
「同意見です。実際その罰を身に受けたので、まずは打ち解ける所から始めますよ」
すると、携帯電話にメールが届いた。確認すると、送り主は春香だった。メールの内容は、今週の土日どちらかの日に遊びに行こうという誘いだ。
今の所は特に予定も無いし、日程と時間は春香に合わせる形で承諾した。
「誰からだったの?」
「春香です。土日どっちか遊びに行こうと」
「……怒ってなかった? その、私、結構喧嘩腰だったから……」
「いえ、特に何か言ってないですよ。むしろ、楽しかったんじゃないですか。ああやって話せるのって、友達とか家族でもいないだろうし」
「なら、いいんだけど……ミチル君は、さ。あの人の事、どう想ってる?」
「春香ですか? 友人です。自慢出来る機会があれば、是非とも自慢したいと思える友人ですよ」
「友人か……仮に、もし仮に。君の事が好きだったら、君はどうする? 異性として、恋人になりたい意味での好き」
「例えば話に例えを重ねますが、僕と春香は、言わば月とスッポンです。美しい月を見上げる事しか出来ないし、月はスッポンを照らす事しか出来ない。それが二人の距離感なんです。絶対に変えられない二人の関係なんです」
「……それじゃあ、私と君の関係は? この関係を例えるなら?」
僕は少し考えた。僕と沙耶さんの関係を一言で表すのは難しい。知り合いや友人とは違う。かといって、恋人や姉弟とも違う。
ふと、僕の頭の中で海中が浮かんだ。徐々に青い水面が見えなくなって、暗い深海に沈んでいく。自分の存在を忘れていき、かつてあったはずの輝きが失われていく。
「……夕陽と海」
「夕陽と海?」
「ほら、夕陽が海に沈んでいく光景ってあるじゃないですか。実際は海に沈んでいるわけではないんですけど、まるで夕陽が海の底へ眠りにいくみたいだと思いません?」
「つまり、私は君が眠りにつく場所って事? だとしたら、世界は大変な事になっちゃうね」
「どうしてですか?」
「永遠に夜が続くから」
沙耶さんが伸ばした両手が僕の腰を抱き、ゆっくりと引き寄せられていく。僕は膝をついて、沙耶さんの膝の上に頭を置いた。
妙に落ち着く沙耶さんの膝の上で瞼を閉じると、沙耶さんは僕の頭を包み込むように体を丸めた。