第二話 獣の王
「空、に……?」
「ええ、空に。おそらく、上空は酸素が薄いので、撫々花はその時に気絶してしまったのでしょうね」
口を開けて、それならなんでお姉様は、という顔をすると、得意げに「ま、私は訓練してますから」と自分の胸を軽く叩いた。
訓練とかそういう問題なんだろうか……
「まあそのまま落ちたら死んじゃいますから、上空で服を脱ぎ捨てて、『裸身強化』を発動させて、空を蹴ってこの木の上に移動して――」
(空を蹴って……?)
「背中を地面に向けて、片手で撫々花を抱きしめて、もう片方の手で大木に爪を立てて速度を落として、なんとか生き残った。という感じですわね」
(大木に爪を立てて速度を落として……?)
なんていうか、私のお姉様、凄すぎる……
「えっと……と、とにかく、ありがとうございます」
本当に、規格外すぎて実感が湧かない。
見上げると、大木には、爪跡――というよりは、爪ごと指を突き立てたようで、五本の線が刻まれていた。だが、お姉様の爪には傷一つない。
爪どころか、その綺麗な顔にも、足先にまでも傷はない。
一方私はというと、手先に切り傷があるくらいである。服も少しは切れていたが、特に問題はない。
お姉様は、頭を守ってくれていたのだ。
「お母様に一瞬で脱げる服を開発してもらっておいて正解でしたわね」
「こんな形で活かされるとは夢にも思ってないでしょうに……」
大地が迫る、危機的状況で――この判断を土壇場でやってのけたことが、お姉様の一番すごいところだ。
『そのまま落ちたら死んじゃう』のも、たぶん『撫々花が』、だろう――お姉様一人なら、服を脱いで着地するだけだ。
気絶していたから、知らないうちに死にかけていた感覚だった――いや、そうじゃない。
そうだ、私は――
「……私の。私の『転移』が、さっき、暴走しちゃったんですよね? ここは、いったい……」
お姉様は、私の手を握り直した。
「……少なくとも、確実に、日本ではないでしょう」
「えっ……?」
しっかりと、私の目を見て、お姉様は続ける。
「先程まで周囲を探索していましたが、どの植物もどの動物も、図鑑で見た覚えがありません。似てはいても、そのものではなくて……私の勉強不足かもしれませんが、もしかすると、ここは――」
ごくり、と唾を飲み込んだ。
「――異世界、かもしれません」
▽▲▽▲▽
その後、私は撫々花を背中におぶって、森の中を歩いていた。
言うまでもなく、私は全裸である。服は風に乗ってどこかに落ちたのであろう。
――服を探すこと。それがひとまずの目標である。
「だいたい、当たりは付いていますが……」
私の背中で、すやすやと眠っている撫々花に聞こえないように、そう小さく呟いた。
空から落ちた時の景色は覚えている。それを頼りに、私は木々の間を歩んでいた。
「……実際、ここはどこなのでしょうか」
そんなことを考えながら、未知の動植物の蔓延る、森の中を進む。
まあ、未知の世界というほど、奇妙な景色が広がっているわけではないが。
ここが、異世界だとして――今の私はともかく、現に撫々花が呼吸し、生存できている以上、大気が毒だとか、そういうことはないらしい。地球に似た環境であることは間違いないはずである。
まだ人工物らしきものは発見していないが、この世界に人間(あるいはそれに類する知的生命体)の文明が存在している可能性も、否定はできない。
文明の発達の途上、あるいはその出発点にあり、そのような存在に頼ることのできない可能性もまた、否めないが――
とはいえ、友好的な反応を示してくれる余地のある生命体と出会えたとしても、人間の被服の歴史は長い。
おそらくは、服を着ないことがメリットになる場合は少ないだろう。
(……なんて、色々考えてみるけど)
自分の身体を見下ろして、辺りを見渡す。
なんだか落ち着かなくて、歩みを早めた。
「なにより、ちょっぴり恥ずかしいですから」
つまるところ、心もとなさが拭えないだけだった。
撫々花を含めた家族や、私の異能を研究してくれた方々は除くとして、他人の前で裸をさらけだして平気でいられるほど、私の心は丈夫ではない。早く服を探そう。
『裸身強化』により――私は、人間らしさを放棄することを代償に、無類の力を得ている。その一端として、今は寒さも暑さも一切感じない。
そうだ。撫々花にそういう力はない。私が恥ずかしがっている場合ではないのだ。
「すぅ……」
撫々花は静かに、息をしている。
どんな『異能』にも反動は付き物である。言わば筋肉痛のようなものだ――私は精神的に少し疲れる程度のもので、それについて心配はないが。
先刻、撫々花は頬を濡らしながら、「私のせいでお姉様を殺しかけた」「私の異能のせいで」と自責していたが、突然すとんと眠りに落ちた。
慰めの言葉を伝える前に、寝てしまった。
「……でも、私はあなたを守れて、嬉しかったんですのよ?」
「んぅ……?」
姉なのに、姉らしいことができていない――ずっとそんな気持ちが心の奥にあった。
気持ちよさそうに眠る彼女の、その頬の涙の跡をつついた。
木々が揺れ、木漏れ日が差す。小鳥が鳴いている。
そんな静寂に浸っていた。
「――ッ、なにか、どこかから、灰の匂いが――」
――異臭を感じ取った、その時だった。
「グオオオオオオォォォーー!!!」
空の彼方まで届きそうな獣の咆哮が、森に響いた。
▽▲▽▲▽
「ぅ、ぐッ――」
迫り来る火竜の爪を、ロイスはその剣で捌き続ける。
先刻、僕たちが飛び出した地竜車は火竜の吐いた炎によって今にも燃え尽きようとしていた。
繋がれていた縄は既に灰になり、地竜車を引いていた地竜たちは、既に森の中へと逃げ出している。
「クソッ! ――オラァ!!」
「グァアアア!!」
――ほんの少し前、大量発生した樹木の魔物の討伐に来た僕たちを、四足歩行の、赤い鱗の火竜が襲った。
縄張り意識が非常に強く、その巨大な体躯と火炎を吐き出す器官によってかなりの強さを誇り、火竜を自然の王と謳う書物も数多くある。
(しかし、ここは火竜の縄張りではなかったはず――そんなことを考えている場合ではない!)
火竜は大きく口を開き、その喉奥から炎が飛び出る。
「ッぶねェなァ! バカが! 燃える髪なんざ、もう俺の頭にゃあ無ェんだよォ!」
火球が僕や他の兵士に当たらないように誘導し、間一髪でそれを避けたロイスが、額に刻まれた『身体強化』の紋章を輝かせながら今も剣を握っている。
その間に竜から逃げようにも、森に広がった火炎がその逃げ道を阻んでいる。その勢いは衰えることなく、轟々と燃え盛っていた。
「まだ戦える者はロイスの援護を! 他はありったけの魔力を『水』の紋章に込めろ!」
「「ハッ!!」」
「こっちも――長くは続かねえぞッ! クソが!」
振り回される尾を避け、木々をも切り裂く爪を躱し、ロイスがその標的になり続ける。
何人もの兵士が、彼ら自身の腕に刻まれた『水』の刻印に魔力を注ぎ込み、幾らかの水が放出されるが、たちまち火の中に消えて蒸気と化していく。
頭を抱えて、思考を巡らせる。
探せ、探せ――勝てる筋道を。
(――僕も含め、樹木の魔物との連戦で、もう皆魔力が残っていない。ロイスの『身体強化』もいつまで持つか――)
「!! マズいッ――」
火竜は大きく息を吸い込み、その胸部を膨らませた。
「グオオオオオオォォォーー!!!」
「――ぁ、が――」
大地を揺るがす咆哮。それを目の前で喰らってしまったロイスの姿勢が崩れる。
「ロイス!!」
翼を広げた火竜は飛び上がって距離を詰め、地面に転がったロイスを何度も何度も踏みつけた。
「ぐ、げッ、がぁあ――」
その剣は既に手元を離れており、血を吐きながらも必死に腕を挟んで防御しようとするロイスだったが、それに痺れを切らしたのか、火竜は一歩下がり、ごろごろとその喉を鳴らした。
「火炎が来る! ロイス!!」
「クソ、があ……!!」
気を失う寸前のロイスに、火炎が放たれる――その瞬間だった。
「っ、あれは……?」
空から何か、人のようなものが、今まさに炎を吐こうとしている火竜の頭上に――
「――■■■■■■っ!」
「ゴァッ!?」
落下した。
――否、踏み付けたのだ。
「ブッ――ゴ、ブアァァアッ!?」
地面に叩きつけられたその口内。その隙間から、勢いよく火炎が噴き出る。地面に伏せた火竜の目は大きく見開かれ、痛みに悶えるような声で叫んだ。
「何が、起こっている……!?」
その一撃を放った全裸の少女は、龍の頭に乗ったまま、こちらを一瞥し、感情なく火竜を見下ろす。
跳び上がった彼女は、その巻かれた金髪を風に靡かせながら空中で回転し、起き上がろうとする火竜の横に降り立った。
「ゴ、ォ、ガアッ……!!」
すぅ、と息を吸い込んだ彼女は、右手を構え、大きく肘を引き、身体を捻り――その存分な予備動作をもって、火竜の横腹に強烈な拳を叩き込む。
「ガ――ァ、ォォ……」
そのあまりの衝撃によって吹っ飛ばされ、弱々しい声を漏らした火竜は、バキバキと木々を折りながら力なく倒れた。
「……なにが、どうなってやがんだよ……?」
どこまでも意味不明な光景に、ロイスはそう呟いた。
「■■■■■■■■■■?」
長身の少女は髪を手で払い上げ、小さく息を吐き、こちらを――僕を、見つめていた。
「君は……何者なんだ?」
▽▲▽▲▽
「お怪我はありませんの?」
髪を手で払い、さぞ高級そうな紺色のコートを羽織り、青い髪を短く切りそろえた、端正な顔立ちの青年に話しかけた。
「■■……■■■■■?」
「ええと……」
言葉が分からない。どうしよう、こういう場合は――。
「ア、ユ、ミ」
自分に人差し指を向けながら、その名前を一音ずつ、ハッキリと口にした。
その目元にほくろのある青髪の少年も、どうやら意図を理解したらしく、同じようにして「セン、リィ」と答えてくれた。
センリィ。それが彼の名前だろうか。
額に手を当てて、私は思案する。
(撫々花は適当な木の前に休ませておいていますが、ひとまずあの子をここに運んできましょうか)
「■■……アユミ、■■■」
「え?」
センリィは、頬を赤くした顔を横に逸らしながら、紺色のコートを手渡してきた。
「あ――」
――そうだ。
今、私、男の人の前で、裸だ。
その事実に気付いて1秒。咄嗟にそのコートを抱き締め、なんとか前を隠し、ばたばたと後ろに歩いて彼らから距離を取る。
寒さも暑さも感じないはずの身体が熱くなったのを感じた。
「……は、恥ずかしいですわあ……」
「……■■■■?」