第一話 病棟と青空
二階、階段から四番目の部屋。
いつものように、からからからと音を立てて、『聖麗院 撫々花』と刻まれたネームプレートを横目に、私は病室のドアを開けた。
「あ……お姉様ですか?」
「ええ、撫々花、調子はどうですの?」
ベッドの上で、少しだけ上半身を起こして寝ている撫々花の隣。そう声をかけながら、小さな椅子に座った。
「ぼちぼちですね、焔竜の素材がそろそろ集まりそうです。それが終わったら神樹の方に――」
撫々花は重たそうに瞼をぱちぱちと開け閉めして、そう答えた。
ああ。ゲームの話してるな、これ。
「ふふっ。ぼちぼち、なんですの?」
「あっあ、ごめんなさい、先程までギルドの、あ、ゲームの中の皆様とお話していたもので……ええと、はい。私の、調子がどうかって話ですよね。今は元気ですよ」
「元気なら良かったですわ」
私の金色の髪よりもやや薄い色の髪先を弄りながら、撫々花は恥ずかしそうに微笑んだ。
横のテーブルには、ヘルメットのような機械が置かれている。これを装着することで仮想現実に繋がり、空想の世界を冒険できる――撫々花は、いわゆる『VR』というものにのめり込んでいるらしい。
――ふと思ったことを、口に出す。
「……ねえ、撫々花。お外に遊びに行きたいとは、思ったりしませんか?」
私はゲームのことをあまり知らない。
撫々花が楽しければそれで構わない。
ただ、撫々花が気持ちを抑えているのであれば――。
「外に……遊びに、ですか? それは……」
一瞬の逡巡の後、撫々花は窓の外を見つめる。
「いえ、大丈夫です、お姉様。この病院から出られずとも、外の景色は見られますし……とは言っても、竜とか魔法のある世界ですけど」
「ですが、たまには……」
「それに、毎日のようにお姉様が来てくれますから、平気ですよっ!」
心配する私に、振り向いた撫々花は優しく笑みを浮かべた。
「撫々花が、良いと言うなら……いえ、ごめんなさい。余計なお世話でしたわね」
「気にしないでください。私は、大丈夫ですから……えっと、もっと楽しいお話をしませんか? お姉様も忙しいんですよね?」
忙しいかと聞かれてしまえば、否定することはできない。
私は、聖麗院家の長女『聖麗院 歩由美』として、勉学に励むのはもちろん、楽器の練習や異能の制御訓練と、やらなくてはいけないことが沢山あった。
また、車の送迎があるとはいえ、毎日の学校の帰り道に、この病院に向かうためにそこそこの時間がかかっているのは事実である――でも、それでも。
「構いませんわ。妹との大切な時間ですから」
「……ありがとうございます、お姉様」
その後も暫く、たわいもない話を続けた。
途中で「少し歩きながら話そう」という流れになったので、分厚いガラス越しに中庭を眺めながら、二人で廊下を歩いていた。
「『異能制御不全症』――本当に、厄介な病気」
大きな木を見下ろしながら、撫々花はそう呟いた。
「ええ……あの日は、大変でしたわね」
異能を制御する脳の部位に異常があり、一日に何度も薬を摂取しないと、その異能が暴走してしまう――そういう病である。
撫々花が九歳の誕生日を迎えてから二週間が経過したある日のことである。
突如、部屋の物と物の位置が――具体的には、電球と壁掛けの時計や、テレビと水の入ったコップ、水槽の小魚と絵画。その他のあらゆる物が――青く淡い光を帯びて、一瞬にして入れ替わった。
風が吹き荒れる中、次々と、さらには人と人が入れ替わり――その後の惨状は言うまでもないだろう。
それから病院を転々とし、それでもなお効果的な治療法は見つからず、今、彼女は十五歳になる。
薬の副作用により、運動後の手足の痺れや頭痛など、撫々花は外で活動できる状態にない。
あのヘルメットから世界に繋がれるとしても、何年も病院の中で時を過ごした彼女の感情は、私には想像しきれなかった。
「私に、『転移』なんて能力――なければ良かったのに」
輝きのない目で、中庭を見下ろして彼女はそう呟いた。
その目線の先。少年が、足を浮かせて低空を飛び回っていた。
「あ、また、私、悲しい話を――」
駆け寄り、私は撫々花を抱きしめる。
「わっ」
「いいんですのよ、撫々花。私たちは、家族なんですから」
撫々花の目に涙が浮かぶ。
「お姉、様……」
「だから、辛いことも、苦しいことも、なんでも言ってくださいまし?」
撫々花は私の胸に顔をうずめ、涙を流しながら、「ありがとうございます、お姉様……」と何度も言った。
▽▲▽▲▽
「ずぴっ」
それから少しの時間が経ち、私たちは廊下の角にある、休憩所の椅子に座っていた。
「落ち着きましたか?」
「……はい」
撫々花はすっかり泣き止んでいた。
「あら……撫々花、そろそろお医者様のところに行かなくてはいけないのではありませんの?」
静かに時計を見上げた彼女は、急に立ち上がり、「あ、もうこんな時間にっ……!? ご、ごめんなさい、少しの間でしたけど、楽しかったです!」と言い、廊下の方に歩き出した。
しかし、途中で歩みを止め、振り返る。
俯いていた顔をこちらに向ける。その頬は赤く、何度も瞬きをしてから、言った。
「……願うことなら、お姉様と一緒に、色んな世界を見てみたいです」
「ええ、私も」
そう、短く頷いた。
私たちなら、きっといつかそうできる。
そう確信できた――その瞬間だった。
風が吹き始めた。最初に、自分の、巻かれた金髪がゆらゆらと揺れていることに気が付いた。
「は――」
どさっ。
「――え?」
いつの間にか、撫々花は床に伏し、両手で頭を抱えていた。
息は荒く、だらだらと汗を流している。
「こ、れは……」
(あの時と同じ、典型的な『暴走』の症状――!!)
「あっ、あ、ああああ……!!」
「撫々花、落ち着いて! 息をすることだけ考えて! 撫々花! お願い!」
「うぁあ、っあ……!!」
撫々花の方に風が吹き寄せている。
(一体、何が――)
「ぁああ、っああ!!」
「撫々花!!」
風に包まれた彼女の身体が浮遊する。
(何故? 撫々花の能力は『転移』、風や浮遊は含まれていないはず――違う、これはきっと空気が引き寄せられて――)
どこからか聞こえる警報音もかき消すほどの風の吹き荒れる中、撫々花と目が合った。
「――たす、け、て――」
暴風を掻き分け、衝動的に、身体を投げ出した。
「撫々花ぁっ!」
彼女を抱きしめると、青白い閃光がその身体から溢れ出して、瞬くうちに視界の全てが埋め尽くされる。
――大きく、風を切る音が鳴った。
▽▲▽▲▽
「……あ、れ?」
瞼を開くと、どこかも分からない森の中、私は大木によりかかっていた。
「ようやく目が覚めましたの?」
声がした方角に顔を向けると、一糸まとわぬ姿のお姉様が歩いてきていた。
文句の付けようもないほどに完璧な、スタイルのいい身体を一切隠さずに。
「はっっ!? お姉様!? なんで裸にっ!?」
「落ち着いてくださいまし、そういう『異能』でしょう?」
「あ、ああ……あまりのことで、忘れてしまいました――けど、それもなんで……?」
お姉様は、『裸身強化』という『異能』を持つ。
服を着ていない間、身体能力が大幅に強化され、どんな刃も通さない無敵の肉体を得る――そういう能力である。
聖麗院家直轄研究チームの総力を持ってしても、その仕組みの解明には至らなかったそうだがーー。
いや、それより。そんなことより。
お姉様が、『異能』を使ったのだ。
「お姉、様――ここは、どこなんですか?」
「落ち着いて聞いてくださいまし」
お姉様はしゃがみ、混乱する私の手を握った。
「あの病院で、撫々花の『転移』が暴走した結果――」
真剣な表情のお姉様が指さしたのは、この大木の枝葉に空いた小さい穴だった。
まるで、人が、『そこに落ちた』かのような。
「私たちは――空に居たのですわ」