無数の希菜子の目玉
「別れよう」
その日、高秋は希菜子にそう言った。2人で暮らすアパートに、高秋の知らない無数の隠しカメラと盗聴器を見つけ、高秋の我慢は限界に達した。それ以前から、彼女の行きすぎた監視、束縛に高秋は疲れきっていた。
「違うの!私はただ、あなたのことが心配で、あなたが私以外の別の誰かのものになってしまいそうで怖かったの。だから……」
「だから?俺のスマホに勝手に変なアプリ入れて、こっそり俺の行き先や行動を監視してたのか?そしてそれだけじゃ飽き足らず『誰かにストーカーされてる』って俺に嘘ついて、お前のアパートに俺が住むよう仕向けて。そうやって、用意した檻に俺を閉じ込めて24時間監視できるようにして、エサやって世話して。次は俺にお手、お座りでも教えて躾けようってか?で?言うこと聞かないで逃げようとすれば、首輪してチェーンで繋いで、叫ばないように猿轡でもして逃げられないようにするんだろ?それでも逃げられた時のために、首輪に『たかぽん』って名前と住所を書いておくんだろ?──……俺は犬かよ。つーか、ストーカーはお前だろ」
そう高秋は言い、嘆息を漏らした。違う、違う!と、希菜子は首を振った。
「違う、私はあなたのことが好きなだけ……愛してるだけなの。いつでもたかぽんの傍に居たくて。私……たかぽんが居ないと生きていけないの。お願い、私の傍から離れないで。私の傍に居て……」
希菜子は涙を溢しながら、高秋の胸に縋った。
実は「別れよう」と言ったのは、これが初めてではなかった。高秋が別れようと言うと、毎回決まって希菜子は泣いて高秋の胸に縋った。そうすると高秋は、哀れみや僅かに残っている希菜子への愛しさから、つい許してしまっていた。
「希菜子……」
高秋の胸の中で、希菜子の小さな肩が小刻みに震えていた。希菜子の温もりが高秋の心を宥め、希菜子の罪を無かったことにしようとする。希菜子の体を抱き寄せたくなった。また、許してしまいそうになった──その時だった。
希菜子の後ろのテーブルの上にあったテディベアと目が合った。正確には、テディベアの口の中に細工された小型カメラと目が合った。その瞬間、あちらこちらから視線を感じた気がした。無数の目玉が今この瞬間も監視していると思うと、ゾッとした。
いつかの希菜子の視線を思い出す。ねっとりとした……念が纏わり付くような、そんな胸苦しくなる視線。その時の視線と無数のカメラが重なった時、高秋は激しい胸苦しさに教われた。
ここでまた、彼女の体を抱き寄せてしまえば、もう2度と監視の呪縛から逃げられないような気がした。
高秋は抱き寄せようとしていた手で、抱きつく希菜子を体から静かに引き離した。
「……ごめん。もう無理なんだ。お前の監視の眼が恐ろしいんだ。頼む、別れてくれ。俺をお前の呪縛から解放させてくれ」
高秋は視線を反らし、希菜子の眼を見ずに言った。眼を見てしまうと、涙に騙されて抱き寄せてしまいそうな気がした。
「たかぽん…………」
希菜子の涙声が聞こえる。高秋の心が揺れる。が。
「……さようなら」
また心が囚われてしまう前に高秋は希菜子にそう告げ、背を向けた。すると。
「行かないでお願い!いやだ!置いてかないでぇっ!!」
高秋の腕にしがみつきながら、希菜子は泣いて叫んだ。だが、高秋は振り返らずに無言で希菜子の体を振りほどき、玄関へと向かった。
「いやだ!いやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだあああああ!!!」
そんな哀れで可哀想な希菜子の声が、後ろから聞こえてくる。だが、高秋は聞こえないふりをした。
すると。
ガタ!ガタタ!!ガラガラガシャン!!!
「ねぇ……待ってよ。これ、見て……」
後ろで物が激しく散らかる音がしそして、希菜子の震えた低い声が聞こえてきた。思わず、高秋は希菜子の方に振り返ると、そこにはカッターの刃を自身の首にあてる希菜子がいた。
「……言ったでしょ、私、たかぽんが居ないと生きていけないって。だから、たかぽんが別れるなら私、ここで死ぬから!!」
カッターを持つ希菜子の手がカタカタと震えていて、今にも首が切れそうだった。
「やめろ!!」
高秋はそう叫びながら、希菜子に手を伸ばしそうになった。だが今、希菜子の暴走を止めに行ってしまえば、また監視の日々に戻りそうな、罠のような気がした。とはいえは、止めなければ希菜子が本当に首を掻き切りそうで恐ろしい。高秋は当惑した。
すると、ねっとりとした希菜子の視線を感じた。監視カメラの視線だった。まるで、希菜子の眼が幾つもあるような空間。
この中にはもう、戻りたくない……
高秋は首を横に振り、拳を握った。そして。
「……勝手にしろ。俺は何を言われても、お前とよりを戻す気はない」
そう言って高秋は希菜子に再び背を向け、玄関へと足を進めた。
その時だった。
「……たかぽんは私のもの。どんな形に変えても、私はたかぽんの傍にいる……絶対、誰にも渡さない」
ピチャッ。
高秋の後方からそんな希菜子の声が聞こえた瞬間、高秋の頬に何か生暖かいものが飛んできた。頬を拭った手を見ると、そこには赤いものが付着していた。
────血、だ。
「きな、こ……?」
高秋は恐る恐る希菜子の方を振り返った。するとそこには、カッターで自らの首を掻き切り、不気味に微笑する希菜子が佇んでいた。希菜子の首からは、まるで噴水のように勢いよく血飛沫をあげ、希菜子の首や体を真っ赤に染めていった。