第76話 比干 モブにも名前があるんだな……
初めまして!原 海象と申します。
今回は有名な『封神演義』の編集・アレンジバージョン『封神伝』を投稿致しました。
「封神演義」は明代以前に発行された神魔小説で、今の形になったのは明代の編者 許仲琳によって現在の形になりました。また漫画やアニメとなったのは安能務先生の封神演義版によって一代ブームとなり、皆様のよく知っている形となりました。原作と安能務先生の翻訳ではかなり違いがありますが、ライト小説らしくできるだけ読みやすいようにしております。
<封神伝>
第76話 比干 モブにも名前があるんだな……
黄飛虎は、比干がものも言わずに午門を出て行ったことを不思議に思い、老殿下がどこに行くか見届けにいけと黄明、周紀の二将軍はそのあとを追った。一方、比干は顔を動かさず表情も変えず、ただ馬をひたすらに走らせ五里から七里ほど走ったところに、路上で空心菜を売り歩く老女がいた。老女は前方から馬が来るのに目を止め、路端に座り土下座した。
そして比干が通りすぎる際に老女は「あっ!」と悲鳴をあげて、しりもちをついた。
比干の死相に驚いたのであった。
比干は首を動かさず、ただ前を向き馬を止めて老女にたずねた。
「空心菜とはどういうものか?」
老女は言った。
「わたしの売っている野菜がそうです」
比干はまた尋ねた。
「もし、人間に心がなければどうなるのか」
「人に心がなければ、すぐ死にます」
と、比干は大きな声を上げ、馬上から転がり落ちた。すると比干の身体から血が噴き出し、あたり一面を赤く染めた。野菜売りの老女は、比干が何故落馬したのか、何故血を噴きだしたのか、訳がわからず老女は慌てて城内に向かって身を隠してしまった。
黄明、周紀の二将軍は北門を出て追って行ったところ、比干が馬のそばで死んでいるのを発見した。二将軍は馬に鞭を打って駈け寄った。大地は一面に鮮血が流れ、朝衣は血に染まり、あお向けになって無言のまま目を閉じている。比干の胸の傷口から真っ赤な血を噴いて絶命していた。黄明、周紀の二将軍は何が起こったのか、皆目見当もつかなかった。
実は、姜子牙の残していった手紙には符印が押してあり、比干はこの符水を飲み、腹中に収めて五蔵をまもっていたのであった。それで、馬に乗って北門を出ることができた。しかし、空心菜を売る女にその由縁をきいたが、女の答えは「人心なければ、ただちに死ぬ」ということだった。もしこのとき「人心なくとも、なお生きる」と答えていたなら、比干は死なずにすんだのだった。
比干が心の蔵を取り出し、鹿台を下り、馬に乗るまで血が流れなかったのは、すべて姜子牙の符水の玄妙なる功のためだった。黄明、周紀将軍は、かくのごとく無惨な光景を確かめたあと、九間殿に戻り、黄飛虎にそのいきさつを報告した。それを聞いて、黄飛虎は棺を用意させ五色神牛にまたがって北門に向かった。おくれて棺が到着し、黄飛虎は自分の手で、比干の遺体を棺に納めた。
比干の棺は、北門の外ににわかに掛けられた小屋に安置された。城外で横死したような形になったから葬礼によって、宰相府に運び込むことはできない。
比干の死去の報告が伝わって比干の死を悔やむ微子ら文武百官は皆悲しみに沈み北門の外に集まった。
このとき、比干の直属の配下の一人である夏招が大声を上げた。
「昏君め!なんの理由もなく自分の親族である叔父を殺すとは!いまや綱紀などどこにある。俺はいまから陛下に会って来るぞ」
夏招はまわりが止めるのを振り払い、一人で鹿台に向かった。そして、謁見の許可も待たずに、勝手に道を登って台上に来た。紂王が比干の心の蔵を煎じようとしていたとき、夏招は君主に会っても礼をせずいきなり謁見を申しでた。
紂王はこれを見て咎めた。
「大夫 夏招、呼びもしないのに、なんの用でやってきたのだ」
「貴様を殺すためだ!」
と、夏招は答えた。これを聞いて紂王は笑って受け流した。
「古くより、臣が君主を殺す理など、どこにもないわ」
夏招はなおも言う。
「昏君が!おまえでも、君主を殺す理のないことを知っているのか。では聞くが、この世に理由もなく比干様は貴様の直系の叔父、先王の弟君だぞ。貴様が妖婦妲己の謀略に手を貸し、比干様の心の蔵をえぐりとらせた。これが、叔父を殺したことでないと言えるのか。臣が昏君を処刑し、成湯の法を尽くすのだ!」
そういうと、鹿台の壁にかけられた、飛雲剣を握り、紂王めがけて斬りかかった。
しかし、紂王は文武に優れているから、非力な文官などは恐れもしない。
紂王は軽くかわして、夏招の一刀は空振りしてしまった。そして、あっというまに飛雲剣を取り上げてしまった。
紂王は怒って大声を張り上げた。
「なんのまねだ?」
「昏君を刺殺するために来たのだ」
「ほお、比干がこの飛雲剣で余を殺そうと企んだ、と言うわけか?」
「比干様ではない、卑官が、だ」
「へたくそな芝居はやめよ。さっさと本当のことを言わぬか?」
「言うことなどない。昏君を殺害しようと、卑官がやって来たのだ」
「バカなことを言うのは、ほどほどにせんか。お前にそれが出来るわけがなかろう。こやつを捕らえてしまえ!」
兵士たちが王命を受け。夏招に駈け寄ってくる。夏招は言った。
「近寄るな!昏君が叔父を殺した。夏招が君主を殺すのも理にかなっているのだ」
そして、周りにいた兵たちが夏招を捕らえよう近づく前に、夏招はさっと身をひるがえすと、鹿台から飛び降りた。夏招の身骨は地面に叩きつけられ、その命はこの世を去ってしまった。
しばらくして、文武諸官は夏招が節を尽くし、鹿台から飛びおりたことを知った。そしてまた、北門の外に比干の屍を納めに行った。長男の微子徳は喪服に身を包み、百官に礼を言った。武成王黄飛虎、微子、箕子の悲しみは、ひととおりであった。比干を棺に納めると、北門外の小屋を建て、紙銭を焼き、紙の旗を立てて魂を鎮めた。
そのとき、騎兵の斥候が「聞太師が凱旋、帰朝されます」と伝えた。百官はそれぞれ馬に乗り、十里まで迎えた。轅門まで来ると、軍政司が聞仲に告げた。「百官が轅門にてお迎えに出ています」
聞太師は、ただちに「百官には帰途の途中ゆえ、しばしお帰りいただき、午門で会うことにしよう」と伝令を発した。百官は聞太師に朝廷の改革に希望を抱き、我先にと急いで午門に戻り、そこで聞太師の帰朝を待ったのであった。




